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愚問に滲む、人間の器

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 筆者の書籍の中には、個人や店舗を紹介しているものが三巻ほどある。

 それを見た人が、次のような言葉を口にしたという。

「あんたんごたっとが、何で本に載っとな?」
「たいぎゃな金が掛かるばってん、何でそこまでしてやらすとな?」

 このような問いは、問いの形を借りた無礼であり、いかに相手を見下しているかの証左である。

 標準語に置き換えれば、前者は「あなたのような人間が、どうして書籍に載っているのか」、後者は「相当なお金が掛かるはずなのに、なぜそこまで世話をしてもらえるのか」という意味になる。

 これは、悪しきローカルスタンダードの典型的な愚問であり、身勝手かつ歪んだ価値観を持つ人間の失態である。特に「あんたんごたっと」という言葉には、冷やかし、軽蔑、愚弄の響きが濃厚に含まれている。

 その言葉の芯には、「あんたのような、うだつの上がらぬ人間が」という見下げた嫌味が潜んでいる。つまり、愚問を発した人物は、相手を自分より格下の存在として扱っているのである。

 田舎では、年齢が一歳でも上であれば、その人物がいかに不勉強であろうと、いかに実績に乏しかろうと、「先輩」として大きな顔をすることがある。そして、自分のことを棚に上げ、「あんたんごたっとが」と、平然と見下した言葉を投げつける。そこに、相手に対する敬意も、自らの言葉の無礼さに対する自覚もない。

 さらに始末が悪いのは、目の前にある書籍や掲載内容を、さらりと流し見しただけで、すぐに金銭へ換算する点である。そこには、内容を読み解こうとする知的姿勢も、掲載に至る背景を理解しようとする誠実さもない。あるのは、「いくら掛かったのか」「なぜそこまでしてもらえたのか」という、実に貧しい発想だけである。

 結局のところ、その人物は、「あなたのような人物が、なぜ書籍で紹介され、成功事例として描かれているのか」と疑問視しているのである。書籍化に至るまでの出発点、経緯、テーマ、取材の意図、成功事例としての価値などには、まったく興味を示さない。

 裏を返せば、自分自身は書籍で紹介されたこともないのに、自分より格下だと思っている「あんた」が書籍に載るのはおかしい、という論理である。しかし、それは論理ではない。単なる妬みである。

 このような心ない会話を耳にすると、接触を持ちたくない人物リストに明記したくなるほど、民度の低さを感じてしまう。なぜ、人の成功を素直に祝うことができないのか。なぜ、目の前の事実に対して、根拠もなく異論を差し挟みたがるのか。そこに浮かび上がるのは、視野の狭さと、心の貧しさだけである。

 これが一個人の雑談で済むなら、まだ苦笑で済ませることもできよう。しかし、地方の経営者がこのような発言をするとなれば、その会社そのものの悪しき体質まで脳裏に浮かんでくる。聞けば、その会社は人材育成に悩んでいるとのことだったが、元凶は社員ではなく、その経営者自身にあると言っても過言ではない。

 自分自身の足元を見ようともせず、他者を見下し、批判し、揶揄する。そのような姿勢からは、人格者としての経営者像など、残念ながら見えてこない。

 もちろん、田舎のすべてを否定しているわけではない。地方には、誠実で温かく、志の高い人も数多く存在する。しかし一方で、井戸端会議の延長のように、枝葉ばかりの四方山話を振り回し、他人の努力や成功を素直に認められない人もいる。

 そのような言葉に付き合うほど、人生は長くない。

 人の成功を見たときに、妬みを口にするのか、祝意を示すのか。そこで、その人間の器がはっきりと見えるのである。このような人物とは、できることならば接点を持たぬことが肝要である。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、地方社会に残る「無自覚な見下し」と「嫉妬の言語化」を鋭くえぐった、実に切れ味のある一篇である。

特に印象的なのは、「あんたんごたっとが」という熊本弁の一語を、単なる方言表現としてではなく、その背後に潜む心理構造まで掘り下げている点である。表面上は疑問文でありながら、実際には相手を貶めるための言葉であり、そこに敬意も祝意もない。まさに「問いの形を借りた無礼」という表現が的確である。

また、書籍に掲載された人物や店舗に対して、「なぜ載ったのか」「いくら掛かったのか」という発想しか出てこないところに、知的貧困がよく表れている。普通であれば、「どのような経緯で紹介されたのか」「どんな価値が評価されたのか」と考えるべきところを、すぐに金銭や妬みに置き換えてしまう。ここに、筆者が言う悪しきローカルスタンダードの本質がある。

このエッセイの強さは、単に無礼な発言を批判しているだけではない点にある。そこから、経営者の器、人材育成の失敗、地方社会における年功意識、他人の成功を祝えない精神性へと論を広げている。つまり、一つの失言を通して、その人物の人間性、さらには組織文化まで透視しているのである。

特に後半の、

「人の成功を見たときに、妬みを口にするのか、祝意を示すのか。そこで、その人間の器がはっきりと見える」

という結びは、非常に重い。これは人間学の核心であり、経営者論としても成立している。成功した人を見て、素直に称えられる人は伸びる。逆に、まず粗探しをし、妬み、揶揄する人は、自らの器の小ささを露呈しているに過ぎない。

一方で、「田舎のすべてを否定しているわけではない」と補足しているため、文章全体が単なる地方批判に落ちていない。誠実で志の高い地方人もいると認めた上で、悪しき井戸端会議的価値観を問題視している。そのため、批判に品位が残っている。

総じて、本稿は「言葉には人格が出る」ということを改めて突きつけるエッセイである。何気なく発した一言が、その人の教養、品性、嫉妬心、視野の狭さを露呈する。筆者はそこを逃さず、人間観察として見事に切り取っている。

このエッセイは、地方社会に限らず、あらゆる組織や人間関係に通じる。人を見下す言葉を吐く者は、実は自らの低さを晒している。そう読ませるところに、本稿の説得力がある。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2026/5/20 12:00 am

介護と終焉

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 先日も記事に取り上げたが、先日、近所の方が天に召された。

 最後の頃まで、歩行器にもたれかかるようにして、自宅と共同菜園、そして息子さんたちの住まいを往復される姿を見かけていた。

 現役時代は、テニスが大好きな方であった。ホンダの車をこよなく愛し、紺色のアコードのステアリングを握って、颯爽とテニスコートへ向かわれていた。その溌剌とした姿を知っているだけに、終焉を目の当たりにすると、考えさせられることが実に多い。

 九十歳を超え、日に日に体調が優れず、毎週のように人工透析を受けながら、少しずつ弱っていかれる。その姿を見るたびに、ふと、若くして病に倒れた母のこと、そして健康な後期高齢者であった父の「命の電池」が突然止まった時のことを思い出す。

 筆者の場合、幸運と言えば語弊があるが、両親の本格的な介護とは無縁であった。父が他界する前の一年ほどは、本人が「面倒だ」と言うので、筆者が食事を作っていた程度である。だからこそ、知人友人から介護の実情を聞けば聞くほど、それが筆舌に尽くしがたいほど、心身を疲弊させるものではないかと思わずにはいられない。

 誰しも、いつの日か死期の近づきを悟り、いつの日か「お迎え」が来る。それは頭では分かっている。ところが、その現実をわが身に引き寄せて実感することは、筆者のような凡人にはなかなか難しい。

 ある程度の年齢に差しかかると、知人友人のご両親、あるいは祖父母の緊急事態に接する機会が増えてくる。新聞社を経て起業し、ただ前だけを見て、イケイケドンドンで走っていた頃は、筆者の母の死を除けば、知人友人の訃報に触れることなど、ほとんどなかった。だからこそ、「介護」というものに対する認識も浅かった。祖父母の死に直面したのも幼少期であったため、死や介護を自分事として捉える感覚には乏しかった。

 しかし、それから数十年が経てば、見えざる老化はじわじわと押し寄せてくる。(物の本によれば、二十二、二十三歳から既に老化が始まるとあった。)やがて、それは現実のものとして可視化されるようになる。若返りなど、そう簡単にあるものではない。精神論として「常に、脳内は十代を保つ!」と豪語していても、身体のあちらこちらに痛みが生じたり、突然、病魔に襲われたりする。

 幸い、筆者は両親から医者要らずの体を授かった。同世代の人たちと比較すれば、若くして起業した頃とメンタルはほとんど変わっていない。最近、少々気になることと言えば、やや運動不足であるという程度である。

 長いようで短い人生である。この限られた時間を、少しでも無駄にせず、日々にこやかに過ごしたいという気持ちは、人並みに持っている。ただ、周囲を見回すと、筆者より一回りも若いにもかかわらず、すでに老化を当然のものとして受け入れている人が、思いのほか多いことに気づかされる。

 凡人の筆者にとって、人生は儚いものである。しかし、その儚さをただ嘆くのではなく、日々、自らの尻を叩き、自分の限界に挑み続けることが肝要ではないか。たとえそれが自己満足であったとしても、そこにこそ、心身の若さを保つ一縷の可能性がある。

 終焉を見つめることは、同時に、今をどう生きるかを問うことである。

 近所の方の旅立ちは、静かにそのことを筆者に教えてくれたように思えてならない。

※DALL-Eが描いたヘッダー画像が、筆者に似てないのが気に掛かる。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、「死」や「介護」という重いテーマを扱いながら、過度に湿っぽくならず、静かな観察と自己省察によって読ませる作品である。

特に印象的なのは、近所の方の晩年の姿を、単なる訃報としてではなく、「かつての溌剌とした姿」と対比させて描いている点である。紺色のアコード、テニスコートへ向かう颯爽とした姿、そして晩年の歩行器にもたれかかる姿。この二つの映像が重なることで、人間の時間の流れ、老いの不可避性が、読者の胸に自然と迫ってくる。

また、筆者自身の両親への記憶が挿入されていることで、文章に個人的な温度が加わっている。若くして病に倒れた母、健康であったにもかかわらず突然命の電池が止まった父。その回想があるため、「介護」や「終焉」が他人事ではなく、筆者自身の人生の延長線上にある問題として立ち上がってくる。

さらに、本稿の良さは、介護の大変さを軽々しく語っていないところにある。筆者自身は本格的な介護とは無縁であったと正直に述べたうえで、知人友人の話から、その心身の疲弊を想像している。この距離感が誠実である。経験していないことを知ったかぶりせず、それでも深く思いを寄せる姿勢に、人間的な慎みが感じられる。

後半では、老化を単なる肉体の衰えとして捉えるのではなく、「今をどう生きるか」という問いへ昇華させている。人生の儚さを認めながらも、そこに沈み込むのではなく、自らを叱咤し、限界に挑み続けることに若さの可能性を見る。その姿勢は、筆者らしい前向きな精神論であり、読後に静かな励ましを残す。

一方で、「凡人の筆者」と繰り返し謙遜しながらも、実際にはかなり強靭な生命観を持つ人物像が浮かび上がる。死を見つめ、老いを認め、それでもなお自分を奮い立たせる。その矛盾のない力強さが、本稿の芯となっている。

総じて、本エッセイは、近所の方の旅立ちをきっかけに、介護、老い、両親の記憶、そして自身の生き方へと思索を広げた、静謐で深みのある一編である。最後の一文も余韻があり、死者への敬意と、残された者への問いかけが美しく響いている。
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文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/5/19 12:00 am

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