ロゼッタストーンBLOGニュース

The Rosetta Stone Blog

ChatGPT4.1 vs 西田親生・・・「無法者」について

20250608kodomo2-2


 「無法者を礼賛する者もまた、無法者である」というタイトルで、先ず、筆者が書き綴ったエッセイに対抗して、ChatGPT 4.1にも書いてもらった。ChatGPR 4.1へは、筆者の原文は見せず、タイトルのみを提示している。

 性懲りも無く、今回もまた人工知能への挑戦であるが、ChatGPT 4.1の文章と筆者の文章をChatGPT o3に分析させ、それぞれに比較評価をすることにした。少々ドキドキするが、まあ、負けて元々なので、さらっと評価をして頂ければと。(苦笑)

 結果は、以下の通り。

 尚、掲載については、(1)先に書いた筆者の文章、(2)ChatGPT 4.1の文章の順で掲載し、最後に、(3)ChatGPT o3による比較評価を掲載する。

(1)西田親生の文章
20250614mizutoabura-1


無法者を礼賛する者もまた、無法者である
2025年6月16日 00:04

 社会秩序を維持するために、警察という治安機関が存在する。それにもかかわらず、徒党を組んでその機関に矛先を向ける者たちは、ほとんどが無法者、あるいは無法者を志望する者である。ただし、中には恫喝により、嫌々ながらその集団に加わっている者もいることは否定できない。

 治安を維持するために尽力している機関に、なぜ反発し、侮蔑的な態度を取るのか。その理由が理解できないと感じるのは、平穏無事な日常を望む我々一般市民である。

 無法者たちは手段を選ばず、ただ目立つことを目的として騒ぎ立てる。そして、それにより捜査機関が動けば、それを誇りとしてさらに騒動を拡大する。あらゆる手段で因縁を吹きかけ、難癖をつけ、口先だけは達者であるが、その実、思考は五歳児以下の稚拙さである。

 脳筋的傾向なのか、人間としての認知機能に異変があるのか、その挙動は尋常ではない。改造車の窓から身を乗り出す、巨大な旗を掲げて練り歩くなど、まるで海外のテロ組織の模倣であり、自己顕示にすべてを費やす姿は滑稽の極みである。(誰も見ていないし、誰も見たくもない)

 そのような愚行に生産性はなく、無法者たちの価値観や人生観を理解しようとすること自体、無意味である。むしろ、その奇異な行動を「格好いい」と評価する者たちこそ、同じく無法者としての資質を備えていると見るべきであろうと。

 毎年のように成人式で騒ぎを起こす無法者が現れる。彼らは徒党を組み、他の一般参加者とは明らかに異なる異様な空気をまとい、行政に反旗を翻す。しかし、そこまで反発するのであれば、そもそも式典に参加する必要などない。

 彼らの主張は「権利」に偏重し、「義務」を果たす姿勢は皆無である。自らを省みることなく、遠くから世間を見下ろすような態度をとる。公序良俗という概念は脳内に存在せず、六法全書の内容も、彼らにとってはトイレットペーパー以下の価値しか持たない。

 重大事件を引き起こした際の無法者たちの反応には二通りある。一つは、逮捕後も顔を隠さず、悪びれる様子もなく挑発的態度を見せる者。もう一つは、顔を隠して怯え縮こまる者である。

 無法者が違法行為に走るのは、一体何を目的としているのか。彼らとて人間であり、家族や親戚がいる。しかし、違法行為に生産性があるかといえば、その答えは「皆無」である。

 残されるのは悪事の痕跡と、刑事・民事双方の責任という負債である。結果的には、人生に大きな汚点を刻むことになる。もし、現実社会がそこまで不満であるならば、理想とする海外のテロ組織にでも加入して、自分の人生をそちらに賭ければよい。

 「異端児」という言葉は、良い意味でも悪い意味でも用いられるが、映画の影響を受けて、わざわざ無法者を目指す必要がどこにあるのか。思考の浅さ故に、無法者に憧れているのだろう。実に稚拙であり、その目に映る世界は歪んでおり、悍ましい生き様を見せている。

 無法者になりたければ、それでも構わない。ただし、他者に迷惑をかけたり、危害を加えたりするのであれば、それはもはや彼らが目指す「格好いいアウトロー」とは呼べはしない。中途半端な無法者を気取るくらいなら、自分の居場所を見つけ、荒んだ人生に終止符を打つ方が、はるかに賢明である。

 暴力と詐欺に手を染めた日本人が国際的な問題を引き起こしている事例も少なくないが、そこには日本人としての誇りも何も見出せない。

 一度きりの人生である。無法者としての悪しき言動は称賛に値せず、彼らの拠って立つ場所は日々狭まりつつある。番長やスケ番といった存在は、漫画やドラマの中だけで完結すればいいだけの話だ。

 例え、現在が多様性の時代であっても、公序良俗に反する存在が特別に認められることは、決してないのである。

(2)ChatGPT 4.1の文章
chatgpt20240121-12


無法者を礼賛する者もまた、無法者である
 社会には、決まりごとや秩序が存在する。それらを守ることによって、私たちは安心して日々の生活を営むことができる。法律や規則は、ともすれば面倒に感じられることもあるが、多くの人々がそのルールの下で、互いに信頼し合い、摩擦を最小限に抑えながら共存している。だが、世の中には意図的にその枠組みを破り、他者に迷惑をかける「無法者」が存在する。

 無法者は、しばしば大胆で、常識を逸脱した行動によって人目を引く。その姿を面白がり、賞賛したり、時に英雄視する者すら現れる。しかし、ここに大きな落とし穴がある。無法者の行為を称賛するということは、彼らの振る舞いを容認し、場合によっては自らも同じ価値観を持つことに等しいのである。

 例えば、違法な手段で富や名声を手にした者を羨望の眼差しで見たり、「あの人はやることが大胆で格好いい」と持ち上げたりする者がいる。しかし、ルールを破る者を「格好いい」と認める行為は、社会秩序を軽視する思想と表裏一体であり、その一歩先には自らもルールを破る可能性が待っている。

 社会において、法やルールを守ることは、個人の自由や創造性を抑圧するものではない。むしろ、多くの人が安心して生きるための土台である。その土台を揺るがす無法者、そしてそれを無批判に礼賛する者が増えれば、社会はたちまち無秩序と混乱に陥るだろう。

 無法者を英雄視する風潮は、やがて「自分さえ良ければよい」という利己主義を助長し、法を守る者が損をし、不正がまかり通る世の中を招く。つまり、無法者を礼賛する行為は、単なる第三者の傍観ではなく、自身もまた無法者の側に立つことを意味するのだ。

 秩序やルールを無条件に称賛する必要はない。しかし、それらを一方的に否定し、無法者を持ち上げることが、どれほど社会の根幹を揺るがす行為であるかを、今一度考えるべきである。無法者を礼賛する者もまた、無法者である。この言葉の意味を、私たちは決して軽んじてはならない。

(3)ChatGPT o3による比較評価
20240310chikaonishida-1


20250616compare-1


20250616compare-2


3. 総括
人工知能版は「抽象化→一般論→教訓」へとブレずに収束する“論説文の模範”。安全で筋が良いが、読後に残る強い像は控えめ。
西田親生版は“フィールドワーク的視点”と“鋭い情緒”で読者を揺さぶる。論理の直線性よりも臨場感を優先し、社会風刺としての完成度が高い。
知的水準は両者とも高域だが、AI版=論理特化型、 西田版=批評・洞察型という質的差異が際立つ。読者に「考えさせる」余韻を残すのは西田親生版、体系的理解を促すのは人工知能版──と読み分けると、双方の長所が最大限活きる。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
プロンプト・文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/16 12:00 am

1995年以来情報発信している老舗ポータルサイト「ロゼッタストーン」のブログをお楽しみ下さい。詳細はタイトルまたは、画像をクリックしてご覧ください。

behanceオブスクラ写真倶楽部ディー・アンド・エルリサーチ株式会社facebook-www.dandl.co.jp