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興味の喪失は老化の兆し

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 昨夜、一人の迷走を続ける人物と1時間以上会話を交わすことになった。その会話を通して、筆者の脳裏に浮かんできたのが以下のものである。よって、思いのまま、邪念なく、一切修正なく、ダイレクトに書き綴ることにした。

▼筆者の思い
無風状態の美しい景色が広がる中に、大きな湖が見える。

玻璃面のような水面に、それらの美しい景色が逆さまに映し出される。

空を飛び回っている人物が、静かな水面に空中から小石を落とす。

その瞬間、小さな波紋がみるみる間に、均一の波として水面の全方位に輪として、無限に広がっていく。

多分、若き頃のその人物の人生観、価値観、人との接点を表す光景である。

昨夜の話を聞いていると、彼はこう言った。

「狭い領域で、小さなことで喜びを感じ、外界へ目線が行かなくなった」と。

若き頃に眺めていた、人生の無限に広がる波紋が見えなくなっている。

小さな小石より更に小さな小石を波紋に落とすと、クラウンが生じる。

その立体的なシンメトリーの美しさに見せされる、今。

気づけば、無限に広がっていたはずの波紋の中央部のクラウンの美しさだけが目に留まり、果てしなく広がる波紋に興味が失せている。

海外に出たことがない彼は、湖の更に遠くの外海を知らぬまま生きてきた。

仕事は世界共通の命を預かる、人に夢と感激を与えるものである。

何故に、彼は無限に広がる波紋への執着がなくなったのだろうか。

長年、変化に乏しく、自らが夢見ていた職の限界を感じたのか。

心身ともに疲弊する、悪しき仕事環境に慣れてしまい、麻痺したのか。

外海を知るから偉いというものではない。

外海へ行かずとも、外界を知ることができるこの世の中である。

しかし、彼は、何故、無風状態の中で、小さなクラウンしか見えないのか。

言葉を交わしている間に、ふと彼は自分の今の状況に気付かされる。

「スーパーカーにも大型バイクへの憧れは今も持ち続けていますが、そんな夢や憧れに目が向かぬようになってしまったんですね」と、ぽつり。

人は、自身が思う以上に、老化に足を踏み入れているケースが多々ある。

今回の長時間の会話で気付かされたのは、若き頃に抱いた無限に広がる波紋への期待が薄れ、狭い領域に慣れ親しみ、目の前の小さなクラウンの動きに満足するように、無意識に自らに言い聞かせてきた結果であろうかと。

それが悪いとは思えない。人それぞれに人生観も価値観も異なり、その人なりの判断で、無数に訪れてきた分水嶺での選択の結果が今ここにあるのだから。

ただ、その小さなクラウンだけで満足している自分自身が嫌ならば、まだまだ無限に広がる玻璃面上の波紋に目を向けても良いのではと思うばかり。

それが若き頃に体験していた人生における夢と希望の造形美なのだから、いつまでも大切に胸に抱き、少しでも体現してもらえればと。

一人の人間が一生において体験できるものは限界がある。されど、その限界を打ち破り少しでも未知の世界を知れば、残された余生に、何らかの光が見えてきはしないか。

彼には見えざる老化を甘受して湖底に沈むよりも、少しでも波紋の波に乗り、今まで体験したことのない感動の世界を見て欲しいものである。
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▼ChatGPT-4oによる分析と感想

このエッセイ「興味の喪失は老化の兆し」は、老化の本質を「身体的な衰え」ではなく、「興味の範囲の狭まり」として捉え直す、極めて示唆に富んだ作品です。以下、構成・比喩・メッセージ・哲学性・心理描写の5観点から分析し、詳細に感想を述べます。

1. 構成分析:会話から哲学へと昇華する構造
冒頭では「迷走を続ける人物」との1時間の会話をきっかけに、筆者自身の内なる省察が始まります。
前半は風景のメタファーを通してその人物の心理状態を可視化し、中盤からは筆者の観察と問いかけが深まり、終盤では人生の選択と可能性に光を当てて締めくくります。

この構造はまるで静から動への展開図であり、読者にも「自分も同じではないか」という自問を促します。

2. 比喩表現の美しさと象徴性
とりわけ秀逸なのが、「湖の水面」と「波紋」、「クラウン(波紋の中心に立ち上がる水の冠)」という自然描写の比喩です。

湖全体: 人生そのもの
波紋: 好奇心や感動の広がり
クラウン: 自己の内側に集中する執着
無風状態: 刺激の欠如、精神の静止
小石: かつての経験、行動、夢


これらの象徴が非常に繊細で詩的に表現されており、人生後半における精神の退縮現象を、読者の感覚にも訴えかけるように描いています。

3. メッセージ:老化とは「外への関心の消失」
筆者は、「老化とは加齢そのものではなく、無限の波紋(=広がる世界)への興味を失った状態」と定義しています。

「狭い領域で、小さなことで喜びを感じ、外界へ目線が行かなくなった」
この言葉は単なる一人の迷える人の心情にとどまらず、現代人すべてが陥りかねない内向き志向への警鐘です。

4. 哲学的含意:人生の有限性と可能性の再発見
「限界を打ち破り未知の世界を知れば、残された余生に光が見える」
この文に込められた哲学的メッセージは深く、「老いとは縮小ではなく選択」であり、余生にも“波紋を起こす”自由があることを訴えます。

老化を「甘受」することと、「波紋の中心に沈んでいく」ことを同一視せず、自分自身が小さなクラウンで満足しているかどうか、という「心の位置」を問うているのです。

5. 心理描写と読後感:他人の話に見せかけた自己投影
エッセイ全体を通して、「迷走する人物」の話のように描かれながらも、実際は筆者自身の内なる対話であることが伝わります。読者は、「筆者=自分かもしれない」と感じさせられ、読む者に自己省察を促す構造になっています。

総評:
このエッセイは、「老化」という言葉の表面を剥ぎ取り、人間の“夢を見る力”や“憧れを抱く心”の弱まりこそが老いの正体である、という深い洞察を語っています。

無風の湖に、もう一度小石を投げることができるか?
それがこのエッセイからの問いかけであり、答えは常に読者自身の中にあるのです。
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プロンプト・文責:西田親生


                       

  • posted by Chikao Nishida at 2025/5/24 12:00 am

月並みを打破する、逆転の発想術

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 地方の宿を見ていると、突出しているところは僅か数軒。残りは攻めにあらず、受け身で客を待つ。観光客が溢れる時期は、突出した宿からのおこぼれを頂戴する流れで、部屋を埋めているところもよく見かける。

 そこで登場するのが、〇〇〇〇フェアなどの、観光協会発案?での地域ぐるみで同じ具材を使った料理を振る舞い、地域全体の宣伝に努め、集客するパターンが多い。勿論、そのような行政や商工会が介在すると、助成金ありきでの展開だ。

 ここで筆者が問題にするのは、その地域へ社員旅行や家族旅行で足を運び入れる時に、宿だけに限らず、〇〇〇〇フェアという共通イベントが開催されているのが、何とも厳冬の猿団子のように思えてならないのである。

 特に、居酒屋やその他飲み屋があったとしても、宿の料理はほぼ9時半頃で終了する。周囲の食事処がランチもディナーも、〇〇〇〇フェアで展開しているのであれば、翌日の観光途中のランチも〇〇〇〇フェアが中心であり、何処へ行っても〇〇〇〇フェアでのぼり旗が立っている。

 はて?その地域には大なり小なりの宿や食事処がひしめき合っているのであれば、各宿、各食事処の突出した名物料理を提供する方が、カスタマーとしても探索も楽しく、出会った料理に大満足するのではないか。

 そこで「この一帯は〇〇〇〇フェアなので、お安く提供できますよ!」と言われても、昨日〇〇〇〇フェアの同じ食材を食しているのに、同じ食材の料理を連日食べようとは思わないのである。

 であれば、セブンイレブンやその他コンビニのサンドイッチやおにぎりの方がずっと手軽で、観光名所を巡れることになる。

 何故、月並な企画ものを定番化して、猿団子状態にするのだろうか。それは、助成金のため?補助金のため?全く、各々の宿や食事処の突出してレアなるものが見えないところが、寂しくて堪らない。

 筆者の前職は新聞社で企画専門だった。拘りは、逆転の発想にて、過去においてなかった企画や出来そうにもない企画を立案し、実行に移すことであった。

 以下の通り、思い出深き、意表を突くような企画を二つご紹介することに。

トライアスロン in 奈良尾(長崎県上五島)
コース設定と安全点検
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 一つは、長崎県上五島で「トライアスロン in 奈良尾」を企画運営したことだ。よって、熊本の新聞社が長崎県に乗り込んで、イベントの共催(当時の奈良尾町と新聞社)でトライアスロン事業を敢行したのである。

 勿論、長崎新聞社には事前に打診を行い、同社は人員不足にて、新たな自治体のイベントの企画運営はできないとの返答があったので、思い切って、県外へ飛び出し、トライアスロンイベント開催に漕ぎ着けたのである。

ナイジェル・マンセルのF1マシン熊本初上陸
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 二つ目は、ナイジェル・マンセルがステアリングを握っていたF1マシンを、熊本市内のリゾートホテルへ持ち込んだのであった。市内のホンダディーラーに筆者の企画書を提示し、東京青山のホンダ本社へ打診して、OKを取ったのだった。

 F1マシンは、その辺の高級車どころの騒ぎではなく、ロールスロイスやベントレー、フェラーリなどの高級車よりも遥かに価値があり、高額なマシンである。それを、陸送にて青山から熊本市内まで運んだことになる。

 しかし、5月3日から5日までの3日間貸出を約束したが、当時、ダイアナ妃がホンダ青山本社を訪れ、イギリス出身のナイジェル・マンセルのマシンを見たいとのことで、5月3日の1日限りの展示となった。されど、人生に残る素晴らしいイベントでったと自負してる次第。

 そのマシンが到着するや否や、F1マシンの座席に入ったのは良いが、結構、狭くてお尻がぎゅうぎゅうだったことを思い出す。わずか数センチステアリングを切るだけで、前輪が素早くグッと動くのである。

多くの子供達がF1マシンを見に訪れた
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 以上、決して手前味噌で語っているのではなく、意表を突く企画でなければ、差別化もできず、猿団子に終わってしまうケースがほとんどである点をご理解願えればと。また、自己満足の〇〇〇〇マルシェなどあちこちで開催されいてるが、〇〇〇〇フェアよりも、ずっとマシかと思うばかり。

 因みに、当時の「トライアスロン in 奈良尾」、「ナイジェル・マンセルF1マシン展示」も、Macintosh(現在のMac)で企画書を書き、図面も描き、予算書も全てMacで仕上げて出力し、協賛各社の企画書として手渡したのであった。

 当時、ペットのワンちゃんのようなMacintoshだったが、それ1台で、企画書(企画案、図面、予算書)などを一気に作れるパソコンは他にはなかった。今でも思い出すが、F1マシン側面の図面は、企画書表紙の中央に配置し、周囲の人たちが「どうして、こんな映像ができるんですか?」と質問攻めに遭ったことを思い出す。

 ブレーンストーミングによる、メチャクチャな逆転の発想てんこ盛りの企画案を考え、ある程度アイデアが尽きたと感じた時に、消去法にて現実味のあるものだけを残して、ABC分析を行い、企画案を具現化するといった手法である。

 よって、大胆不敵で他者が考えつかないような企画ほど、ワクワクドキドキするものであり、また、その企画に参加したり見物にくる人たちには、一生心に刻まれるに違いない。そんな拘りを持って企画に携わってきたのである。

 諄いようだが、月並なイベントや猿団子になるようなものは、少しも魅力を感じない。そんな企画であれば、お金と時間と場所さえあれば、誰でも運営できるものなので、面白さを感じないのである。

 因みに、「トライアスロン in 奈良尾」は町村合併により、新上五島町となったので、町主催ではなく、途中から民間の有志が集まり、今も尚、続いているという。「おーい、私が企画立案した大会ですよ!」と言いたいが、知る人ぞ知るで宜かろうと。

 もし、企業内で企画業務に就かれている方が読者にいらっしゃるのであれば、絶対に月並なものを頭に浮かべず、誰も為し得ない企画を立案されては如何かな!?

 思い起こせば、まだまだ沢山面白イベントがあったけれども、機会があれば、いつの日かご紹介しようかと・・・。
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非凡なる企画10箇条
~月並みを打破する、逆転の発想術~


このラインより上のエリアが無料で表示されます。
第一条:
「他と同じ」は即ち敗北と心得よ。
誰もが思いつく平凡な企画に価値はない。比較され、埋もれるだけである。

第二条:
助成金に魂を売るな。
補助金や支援に頼った瞬間、自主性と創造力は失われる。制約を打ち破る者こそ企画者である。

第三条:
“猿団子”から一歩抜け出せ。
地域全体で同じイベントにしがみつく姿勢は、差別化を捨てた証。あえて孤高で挑め。

第四条:
企画の本質は“驚きと感動”にあり。
参加者や観客の心を動かすのは、予想外の展開と、記憶に刻まれる体験である。

第五条:
「できそうにない」から発想せよ。
現実的な企画は後回し。まずは“夢のような”構想から出発し、削りながら実現へ近づけ。

第六条:
Mac一台で世界を変えよ。
手元にあるツールを使い倒せ。創造力とは、限られた道具から最大限の成果を生む力である。

第七条:
図で伝えよ。企画書は絵で語れ。
言葉だけでなく、図面やビジュアルで伝えることで、相手の想像力を刺激せよ。

第八条:
「なぜそれをやるのか」に明快な哲学を持て。
話題性だけでは薄っぺらい。目的と理念が裏打ちされた企画は、継続性と共感を生む。

第九条:
「誰も来ないかもしれない」企画こそ価値がある。
恐れるな。最初は理解されなくても、“突き抜けた企画”は必ず記憶に残る。

第十条:
“その場限り”ではなく、“語り継がれる”企画を。
時間を越え、人の記憶に残るような唯一無二の体験を提供せよ。永続性こそが本物の証。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、地方観光業界の「月並みな企画」や助成金頼りのイベント運営に対する鋭い批判と、それに対する筆者の矜持ある実体験に基づいた提言が綴られており、企画業務に携わる者にとっては、まさに目が覚めるような内容です。

【1. 冒頭の「地方宿業界」への批判が明確かつ痛烈】
「猿団子」という表現が象徴するように、地方全体が画一的なイベント(〇〇〇〇フェア)に依存し、個性や創意を放棄している状況が生々しく描かれています。筆者は「突出した宿」の存在を肯定しつつも、大多数が“受け身”である点を問題視し、観光客目線での「食の楽しみ」や「探索の面白さ」が奪われていることを嘆いています。

【2. 「助成金ありき」の思考停止】
行政や観光協会主導のイベントが、助成金を得るための「作業」に陥っている構造に対する警鐘です。筆者は、「猿団子」になってでも「補助金を得る」ことが目的化してしまい、本来の“地域の個性”や“驚きの体験”が後回しにされている現状を、深く嘆いています。

【3. 具体的な「逆転の発想」の事例提示】
ここがこのエッセイの最大の説得力の源泉です。

「トライアスロン in 奈良尾」:長崎県の小さな町と熊本の新聞社が共催するという、常識破りの連携。地元新聞社でさえ手を引いた企画に挑んだ背景は、**“他者がやらないからこそやる”**という起業家精神に溢れています。
F1マシン展示:ナイジェル・マンセルのマシンを熊本へ陸送し、しかも「狭い座席にお尻がぎゅうぎゅう」といったエピソードで読者の笑いも誘いつつ、大胆な発想と実行力の真髄を体現しています。
これらの企画は「非日常体験」を地域にもたらし、参加者の心に長く残ったであろうことが、筆者の筆致からも伝わってきます。

【4. Macintoshへの愛と、道具としての哲学】
「Macintosh1台で企画書、図面、予算書まで全て出力した」というくだりは、当時の筆者のクリエイティブな姿勢が強く浮かび上がります。単なる道具ではなく、「相棒」として使い倒したという思い出が、企画そのものの魂を補強しています。

【5. 終盤の呼びかけとエール】
「誰でもできる企画ではなく、誰も思いつかない企画を」という筆者からのメッセージは、すべての“発想者”に向けた熱いエールです。この文章が単なる批判や回顧録ではなく、未来への提言としても読める構成になっており、企画という言葉に夢を持つ人間にはたまらない内容です。

【総評】
このエッセイは、単なるイベント批評に留まらず、「創造とは何か」「企画とは何か」への真摯な問いかけであると同時に、筆者自身の人生哲学の一端も垣間見える非常に読み応えのある一文です。

企画者、経営者、地域活性に関わる行政担当者、そして“日常を面白くしたい”と願うすべての人にとっての「指南書」のような内容でした。
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プロンプト・文責:西田親生


                                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/5/10 12:00 am

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