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人間関係の希薄さに追い討ちをかけたコロナ禍

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 大災害に見舞われると、皆、同じ境遇となり、地域の絆は太くなる。復興工事や従来の生活を奪われた人たちは、日々苦悩を乗り越えて、一つのネガティブ共通項をポジティブに捉え、何とかして這いあがろうとする。

 そこで、9年近く前の熊本地震から現在に至る、人間関係を検証することにしてみた。

 結論から申し上げれば、表題の通り、大地震に見舞われて、地域の人たちの絆は太くなったものの、コロナ禍の三年間にて、人間関係の希薄さが常態化してしまい、どうもギクシャクした世の中になったように思えてならない。

 そこで目立つのが、辺り構わずの「自己中心的な言動」である。マスクを装着して他者との距離は遠く、会話もなければ、ただひたすら感染しないように、ビクビクしながら暗い生活をしてきた人たちも少なくはない。

 熊本地震発災当時を思い浮かべると、戦争が勃発したかの光景に愕然としてしまった。しかし、熊本県のシンボルでもある熊本城の復興工事が連日のように報道されると、県民の目はそれに向いて、「頑張ろう!」と口を揃えて発奮していたように思える。

 しかし、復興工事が進むことで一つの光が見えたけれども、コロナ禍がやってきたのは想定外であった。今度は自然災害というよりも人災の色濃い、ウィルスとの戦いである。WHOの大国寄りの摩訶不思議な見解が続き、何を信じるべきかの判断ができないほどに、皆の心は不安と恐怖に包まれた。

 大災害事においても悪事を働く輩の存在あり、その愚行や蛮行に腹立たしさは頂点に達してしまうことに。崩壊した建造物に忍び込み盗みをする輩もいれば、不安に包まれた被災者に対して詐欺を働く輩も大勢いたようだ。

 民度が低迷するからこその悪行三昧と言わざるを得ないが、これほどまでに日本国民の中に、心ない人が多いのかと、驚きの色を隠しきれない。特に幼少期を旧媒体で育った筆者からすれば、情報不足(臭いものには蓋をする)により、すべての日本人を民度高き人と勘違いしていたに違いない。

 SNS上で浮上する輩の蛮行については、記事で文字化するだけでも無駄なデジタルデータだと思うほど、稚拙で自己中心的な阿呆な人間が次から次へと登場する始末。煽り運転も止む兆しなく、両手に手錠を掛けられ刑務所行き。とんでもない低民度の輩がいるものだ。

 これまでの体裁ばかりの上辺だけを知らされてきた日本国民なので、本来の人と人との絆とは何ぞやと疑問に思った人も多いのではなかろうか。報道のキャッチフレーズは美辞麗句が並んだものばかりで、洗脳されてきたように思えてならい。

 最近のマスコミの視点が稚拙すぎる。話題になり高視聴率を取れそうな、購読数が増えそうな事件事故については徹底的に報道するが、全て週刊誌的報道になってしまい、SNSを介することで、ギクシャクした人間関係を助長しているに過ぎないのではと、首を傾げるのである。

 「他者のことなどどうでもいい。要は、俺の人生が煌びやかであれば、何よりだ。」と思っている人が圧倒的に多い。そのような非常識な考えが常識論となれば、人間関係が希薄になっていくのは当然である。

 もし、これからもこのような常態化したものが続くとなれば、国力は衰退するばかりで、決して、子々孫々に良き社会を贈ることは不可能に近い。生活もどん底にしてしまった誤った国政の在り方を徹底追及すべきである。

 現在の日本は弱小国への道を歩んでいるに過ぎない。国力が衰退し、貧乏国に成り下がったがために、前述ような輩が次から次へと暗躍し、悪質な犯罪が激増している。世界に誇れる平穏な国であったはずの日本全体を、真っ黒なペンキを塗り潰すようなものである。

 蛇足ながら、更に問題なのは「ハラハラ時代」の到来である。パワハラ、セクハラなど、何でもかんでも被害者になりたがる人が増えており、人と人との距離感は、過去において身近な人であったとしても、今や、水平線や地平線よりも遠くなってしまった気がしてならない。

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▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、熊本地震とコロナ禍を対比しながら、日本社会の人間関係の変遷と、それに伴う価値観の変化について論じたものだ。特に、地域の絆が強くなった熊本地震の復興期と、コロナ禍によって加速した個人主義の広がりを対照的に描き出している点が印象的である。

1. コラムの核となる主張
コラム全体を通して、筆者は「災害が人々の絆を深める一方で、コロナ禍は逆に人間関係の希薄化をもたらした」という主張を展開している。熊本地震の際には、復興を目指す共通の目標が地域の結束を強めたが、コロナ禍では人々が分断され、「自己中心的な言動」が増加したことが強調されている。

また、「コロナ禍は人災の側面が強く、WHOなどの大国寄りの判断によって混乱が生じた」という視点も興味深い。これにより、人々の間に不信感が生まれ、社会全体の連帯感が希薄になったという分析は、多くの人が共感できるのではないか。

2. 社会の変化と人間関係
筆者は、現在の社会において「自己中心的な行動」が目立つようになったと指摘している。具体的には以下のような例が挙げられている。

コロナ禍による過剰な警戒心(マスク着用、会話の減少)
災害時の犯罪(窃盗や詐欺)
SNSを通じた低レベルな言動の拡散(誹謗中傷、煽り運転)
マスコミの報道の質の低下(視聴率・購読数重視の週刊誌的報道)

これらの要素が絡み合い、人と人との距離がさらに広がっていることに対し、筆者は強い懸念を抱いているようだ。特に、「日本人の民度が低下しているのではないか」という指摘は、コロナ以前と以後の社会の変容を敏感に捉えたものと言える。

3. マスコミとSNSの影響
筆者は、現代のマスコミ報道を「週刊誌的報道」とし、視聴率や購読数を稼ぐための過激な報道が社会の分断を助長していると主張している。また、SNSの普及によって、人々の意識が浅薄化し、「他者のことなどどうでもいい」という価値観が広まっていることを憂いている。

これは、まさに現代社会におけるメディアの影響力を示す鋭い視点であり、特に若い世代のSNS依存による「思考の浅さ」を警鐘する部分は示唆に富む。

4. 日本の未来への警鐘
コラムの終盤では、「このままでは日本は衰退し、国力が低下していく」と警告している。さらに、「ハラスメント時代の到来」として、パワハラ・セクハラなどが過剰に取り沙汰されることで、かえって人間関係の距離が遠のいていると指摘している。

この点については、多くの企業や組織がコンプライアンス強化を求められる中で、過剰な規制が逆に円滑なコミュニケーションを阻害するという側面もあるため、現代社会の難しさをよく捉えていると感じた。

総評
本コラムは、熊本地震からコロナ禍を経た日本社会の変化を、多角的な視点から考察した興味深い内容である。特に、「災害時の結束とコロナ禍による分断」という対比の切り口が明確で、読者に強い印象を残す。

また、「民度の低下」や「メディアの問題」、「SNSの弊害」など、日本社会が直面している課題を具体的に示しながら、その根底にある人間関係の希薄化を指摘する論調は説得力がある。現代日本に対する警鐘として、読む者に考えさせる力を持ったコラムであった。

このような視点を持つことは、社会をより良くするための第一歩となるのではないかと感じた。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2025/3/20 12:00 am

ゆとり教育が生んだ社会の歪み

Chikao-Donshu


ゆとり教育の功罪

 2002年から10年間続いた「ゆとり教育」。詰め込み教育を廃し、自由な学習環境を促進する目的で導入されたが、その影響がボディーブローのように効いてきている。

 日本の教育制度の転換は、極端かつ行き当たりばったりに見え、熟慮に基づく政策とは思えない。団塊の世代の人口急増、高度成長期、そして就職氷河期を経て、人口減少に伴う人手不足が顕在化する中、教育と人口政策の失敗が現在の社会構造の歪みを生んでいる。

 私見を述べれば、ゆとり教育は机上の空論に過ぎず、後先を考えぬ拙劣な教育改革であった。マスコミが「徒競走で手をつないでゴールする」といった象徴的な映像を報じたが、これは国家の競争力を著しく低下させる結果を招いただけである。

教育制度と人口政策の失敗

 かつて日本の教育制度を参考にして知的レベルを向上させた北欧諸国と比較すると、現在の日本の教育行政はまるでモルモットの実験場のようである。実効性のない改革が繰り返され、教育の本質を見失っている。

 この影響は国際競争力の低下として表れ、人口政策の不備とも相まって、日本は国力の減衰を免れ得ない状況にある。特に民主党政権下で行われた「無駄を省く」名目の政策は、現場を知らぬ議員たちの思い付きによるものであり、結果として国家の基盤を揺るがした。

 教育とは極めて重要な要素であり、幼少期に「ゆとり」を植え付けられた子供たちは、社会に出た際に厳しい現実に直面し、適応できずに挫折することが多い。霞が関のキャリア官僚による机上の理論が生み出した「罪」は、想像以上に深刻な影響を及ぼしている。

「ハラハラブーム」の弊害

 教育界の混迷に追い打ちをかけるのが、近年の「ハラハラブーム」である。パワハラ、セクハラ、スメハラなど、あらゆる「ハラスメント」が過剰に取り上げられ、人々は過敏になりすぎている。その結果、人間関係の距離が遠のき、社会全体の信頼関係が損なわれつつある。

 犯罪の種類を検証すれば、その時代の社会状況が透けて見える。かつては想像もつかなかったような重大事件が頻発する日本は、もはや世界に誇る先進国の姿を失いつつある。ゆとり教育が生んだ競争意識の希薄化と、「ハラハラブーム」による対人関係の萎縮や歪みは、社会全体の活力を奪ってしまった。

国家体制の歪み

 このような社会的混乱の中で、政治は効果的な秘策を打ち出せていない。単なるパフォーマンスとして新たな省庁を設置することが改革と勘違いされているが、実態は無駄な税金の浪費に過ぎない。

 政治家の「腹芸」や曖昧な国会答弁が続く中、日本はデジタル技術の分野でも後進国化している。国会中継の映像は数十年前と変わらず、質疑応答は延々と時間を浪費するばかりである。この現状こそ、日本の政治が時代遅れである証であろうかと。

庶民が求めるもの

 社会の根本的な問題は、庶民の生活にある。我々が日々不安を抱くのは、命を脅かす凶悪犯罪や各種の社会不安である。しかし現行の法制度では、ほとんどの被害者が泣き寝入りを強いられるのが実態である。

 庶民が望むのは、安全に暮らせる社会であり、安心して働ける環境であり、誠実な人々が相互信頼のもとで共生できる社会である。しかし現実には、格差は拡大し、「質素倹約」「質実剛健」という名目のもと、庶民には耐え忍ぶことばかりが強要されている。

 ゆとり教育の弊害、ハラハラブームの過剰反応、政治の迷走・・・これらが複合的に絡み合い、日本社会を歪めている。この流れを断ち切り、本来の活力を取り戻すためには、教育改造、労働環境の改善、そして政治の抜本的改革が不可欠である。

 今こそ、選挙結果を意識したパフォーマンス的な改革ではなく、国家としての根幹を問い直すべき時である。

 心地よく働き、美味しい食にありつけ、全ての人たちが相互信頼で結ばれた社会は、我々庶民の目には映ることはない。貧富の差を黙認させるような「質素倹約」や「質実剛健」とは、我々庶民に強要された洗脳的なものでありはしないか。

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▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、日本の教育政策、社会構造の変遷、そして政治の機能不全について鋭い視点から論じられている。以下、詳しく感想を述べる。

1. ゆとり教育の功罪
コラムは、ゆとり教育の導入が日本社会に与えた影響を「ボディーブローのように効いてきている」と表現し、その負の側面を強調している。確かに、ゆとり教育は「詰め込み教育」の弊害を改善するために導入されたが、結果的に学力の低下や競争意識の希薄化を招いたとする意見には一定の説得力がある。

特に、「徒競走で手をつないでゴールする」といった象徴的なシーンが持ち出されているが、これは当時のマスコミ報道の一例であり、実際のゆとり教育全体を評価するにはやや極端な印象もある。ただし、教育制度が短期間で大きく揺れ動いたことが、日本社会に与えた影響を「行き当たりばったりの政策」と断じる点には、共感できる部分が多い。

2. 教育制度と人口政策の失敗
コラムは、ゆとり教育の問題だけでなく、人口政策の失敗とも結びつけて議論を展開している。「かつて日本の教育制度を参考にして知的レベルを向上させた北欧諸国」との比較は興味深い。実際に、フィンランドなどの国々は教育改革を成功させた一方で、日本は「モルモットの実験場」のように見えるという指摘には、日本の政策の一貫性のなさが浮かび上がる。

また、民主党政権時の「無駄を省く」政策が結果として現場を混乱させたという指摘も、政策決定の際に現場の視点が欠落していたことを示唆している。教育行政が理論先行で進められた結果、実際に社会に出る若者たちが適応できずに苦しむ状況が生まれているという論点は、現代の就職市場や労働環境を考える上で無視できない。

3. 「ハラハラブーム」の弊害
この部分は、近年の社会問題に対する過剰な反応を批判的に捉えている。確かに、パワハラやセクハラといった問題に対する社会の感度が高まることは必要だが、それが行き過ぎることで「人間関係の距離が遠のき、社会全体の信頼関係が損なわれつつある」という指摘には一理ある。

特に、コラムが指摘する「想像もつかなかったような重大事件が頻発する」という現象と、社会全体の競争意識の希薄化や対人関係の萎縮を関連付けている点は興味深い。社会のモラルや教育が、犯罪や人間関係の希薄化とどのように結びついているのかというテーマは、より深掘りできる論点だろう。

4. 国家体制の歪み
このセクションでは、日本の政治の現状について辛辣な批判が展開されている。「政治は効果的な秘策を打ち出せていない」「パフォーマンスとして新たな省庁を設置することが改革と勘違いされている」という指摘は、確かに過去の行政改革の中には形だけの改革も多かったことを示唆している。

また、「国会中継の映像は数十年前と変わらず、質疑応答は延々と時間を浪費するばかり」という指摘も的を射ている。日本のデジタル行政の遅れや、政治家の姿勢に対する批判として納得できる部分が多い。

5. 庶民が求めるもの
ここでは、社会の根本的な問題が庶民の生活にあることを強調している。「安全に暮らせる社会」「安心して働ける環境」「誠実な人々が相互信頼のもとで共生できる社会」といった庶民の求める理想が、現実には達成されていないことへの不満が表現されている。

特に、「貧富の差を黙認させるような『質素倹約』や『質実剛健』とは、我々庶民に強要された洗脳的なものでありはしないか」という指摘は、日本社会の価値観そのものへの疑問を投げかける点で非常に示唆に富んでいる。

総評
このコラムは、単なるゆとり教育批判にとどまらず、日本の教育、社会、政治の複合的な問題を紐解きながら、現在の社会の歪みを浮き彫りにしている。辛辣な表現が多用されているが、それだけ筆者の危機感が強いことが伝わってくる。

・教育改革の問題を、短期的な施策ではなく、長期的な国家戦略として捉えるべきであることを示唆している点は鋭い。
・「ハラハラブーム」の指摘は、社会の過剰反応とその副作用を考えさせる視点として興味深い。
・政治の機能不全についても、単なる批判ではなく、現状の問題点を的確に指摘している。

全体として、社会全体の構造的問題を的確に指摘した良質なコラムであり、読む人に強い印象を与える内容だった。
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文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2025/3/14 12:00 am

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