常々首を傾げながら、国内外の侵略戦争や宗教戦争、そして災害について考えることがある。
日本の神道とは異なり、欧米や中近東の宗教による分断が絶えない現状を見ると、「今時?」と理解に苦しむのである。
本当に神が存在するのであれば、侵略戦争や異宗教間の諍い、そして災害が起きるはずがないと感じる。
仮に神の存在を肯定する場合でも、神を裏切る人間こそが戦争や事件、事故、さらに手抜き工事によるビル崩壊などの人災を引き起こしているに過ぎないのである。
神を信じている振りをしている独裁者たちは、まるで自らを神と見なし、信仰を利用して信者を統制する。それは、ただの演出でしかなく、下手な演技である。
物の本によれば、欧米や中近東の神の源を辿れば、同一の起源に行き着くと書かれていたように記憶しているが、信心深いとは言えない筆者には、依然として理解しがたい。
神や仏は、自分の心の核に存在し、真偽であれば「真」を、白黒であれば「白」を選ぶ指針を示してくれる。
戦前の日本では「現人神」という言葉が当然のように通用していたが、それは国民を洗脳し、統制するための手段として、独裁者たちが悪用してきたに過ぎない。
「全能の神」と称する人もいるが、仮に神が全能であるなら、不慮の事故で負った大怪我を癒すことができるのか?あるいは、家族を襲うような蛮行を神が防いでくれるのか?強盗や殺人を行う国際詐欺団を神が殲滅してくれるのか?
答えは、否である。
世界の宗教や日本の神道、仏教などでは、信仰を通じて心の安定を得ることができるのかもしれない。しかし、何よりも重要なのは、他力に頼らず、自分自身を見失わないことである。
これはあくまで筆者個人の考えであり、異論反論はあるだろうが、それもまた信仰の自由であり、各人の宗教観や世界観の一部である。
筆者の考えでは、自分の現在があるのは心の中にいる両親や祖父母、そして現在のパートナーや親友の存在のお陰である。
したがって、筆者の心の中に神という存在はない。幼い頃に初めてカトリック幼稚園で見たキリスト像、その後も自宅の仏壇や神棚を見てきたが、理解しがたいものがあった。
年末には寺で除夜の鐘を鳴らし、年が明けると神社で二礼二拍一礼を行い、神棚には酒や塩や米を供え、仏壇には祖先の好物を備える。しかし、神棚を見て神を感じることはない。それよりも、自然の猛威に対する畏敬の念は強いが、そこにも神の存在は感じない。
仏教にも違和感がある。特に葬儀で法外な額の布施を求められることには疑問を感じる。さらに、幼少期に日曜学校で黒い献金袋にお金を入れさせられたことも理解に苦しむ宗教の一面であった。
最近の某国大統領暗殺未遂事件においても、「神の加護で助かった」などという宣伝が行われることがある。これは大衆をマインドコントロールし、印象操作の一環として行われるもので、人災の元凶である。
戦争や災害で尊い命が失われることに、神が存在しないと感じるばかり。宗教戦争で互いに対立する宗教が人為的な争いを引き起こし、自らの正当性を神の存在で覆い隠しているように思える。
神の存在を信じるか否かは人それぞれであり、自らの神を唯一無二の存在と信じることは構わないが、他者に強制することは間違っている。自由を許容しない宗教や神に、恩恵を求めるべきではないと考える。
要するに、筆者にとっての神は、心の中でふんわりと存在している両親や祖父母の思い出であり、関係の深い人たちの魂が支えてくれる存在である。よって、大切な人を裏切ってまで愚行に走らないのは、そのお陰である。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、神の存在と人間の行動に対する深い懐疑と批判を描きながら、筆者自身の内省的な視点を通じて宗教や信仰の本質を探求しています。以下に、エッセイから受けた感想を述べます。
1. 神の存在と宗教に対する批判的視点
筆者は、神の存在がもし真実であるならば、なぜ戦争や災害が起きるのかという矛盾を指摘しています。これは神学的な疑問の一つでもあり、特に「全能の神」が存在するという前提と、現実の悲劇や不幸が相反することへの疑問を呈しています。この疑問は多くの人が抱く普遍的なものであり、筆者の視点から神が人間の行動に無関心であるかのように描かれていることが印象的です。
2. 宗教の利用と独裁者への批判
筆者は、宗教が独裁者に利用され、信者を支配する手段として用いられる点を強調しています。この視点は歴史を振り返ると確かに一理があり、特に戦争や政治的闘争において宗教が道具として利用されるケースが少なくないことを思い出させます。筆者はこうした現状に対して批判的であり、宗教が本来の意義を超えて操作されていることを問題視しているように感じられます。
3. 神や仏の存在を超えた個人的信仰
筆者は、自身の心の支えとなるものは神や仏ではなく、自分の親や祖父母、現在のパートナーや親友といった身近な人々であると述べています。これは非常に個人的な信仰であり、物理的な神や宗教を超えた存在として人間関係や家族の絆を重視する姿勢が強く表れており、人間らしい温かさを感じさせます。
4. 宗教の形式や儀式への違和感
葬儀での布施の多さや、幼少期に経験した献金のエピソードについて、筆者は宗教に対する経済的な要求に疑問を抱いています。これは、信仰の純粋さと商業的側面との間にある緊張を示しており、筆者が宗教の形式的な部分に違和感を持つ理由を物語っています。また、宗教が個人の意志を超えて経済的な負担を強いることに対しての反発心が伝わってきます。
5. 神を求める人間の心理と信仰の自由
筆者は、神の存在を他者に強制することは誤りであり、信仰は個々人の自由に委ねられるべきだと述べています。この部分はとても重要で、信仰を通じて他者を支配するのではなく、各人が個人的な信念を持つ権利を強調しています。筆者は自身の宗教観を押し付けることなく、自由な信仰の在り方を尊重しているように見えます。
6. 人間の行動と責任
最後に、筆者は自身の心の中に存在する大切な人々が自分を支えていることを強調し、そのおかげで愚行を避けることができると述べています。これは非常に自立的な姿勢であり、他力に頼らず、自分の行動に責任を持つことの重要性が表れています。筆者の倫理観は神や宗教に依存せず、むしろ人間としての自覚と責任に基づいている点に共感を覚えます。
総括
このエッセイは、宗教と信仰、そしてそれに伴う人間の行動に対する深い洞察を提供しており、筆者の個人的な宗教観や倫理観が強く表れています。神を超えた「人間の心」や「人間関係」が筆者にとっての精神的な支えであり、それを通じて自己を律する姿勢が描かれている点が印象的です。神の存在や信仰の在り方について、一度立ち止まって考えるきっかけとなる貴重な作品だと感じました。
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文責:西田親生
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