言葉の響きは悪いが、「専門馬鹿」という言葉をよく耳にする。「専門分野」には強いが、他分野は「門外漢」にて知る由もないと言葉が返る。されど、「専門馬鹿」はその分野において王冠被ったエキスパートである。
科学技術の基礎研究などでは「専門馬鹿」でなければ、気が遠くなるような一つ一つの研究課題をクリアできるはずがない。よって、「専門馬鹿」の存在は必要不可欠であり、その存在は思いの外偉大である。
ただ、いくら「専門馬鹿」と豪語しながら、プロとして仕事を遂行するとしても、余りにも他分野への関心が低く、更に、民度が低ければ、プライベートにおいて、平べったい人間に成り下がる可能性も無きにしも非ず。
接遇のプロであるべき、サービス業に従事する人間についても、科学技術の基礎研究とは直接関連性はないが、それなりの「専門馬鹿」の存在は必要であり、一瞬にして、所作の美しさや奥深き接遇の真髄を教えてくれる。
ところが、ふとプライベートを覗いた時に、箸や器の持ち方が変則であったり、手の裏で物を跳ね除けたり、他人への応対が粗野だったり、言行一致せず、お行儀悪ければ、一瞬にして「専門馬鹿」の称号を疑われてしまう。
それは、「専門馬鹿」に自己陶酔し、狭い領域にて鎮座し、自らが「視野狭窄」であることにも気づかず、ただ、民度の低さを露呈している。何とも「専門馬鹿」の価値を最大限に落とすのは、誠に勿体ない話である。
兎角に、日本では「専門分野」の範囲が余りにも狭すぎることで、学術的には宜しかろうが、もっと幅広く、奥行きを深くすることで、「専門馬鹿」の価値は更に大きくなりはしないかと思うばかり。
よって、世の中に必要不可欠な「専門馬鹿」にとって、最大の落とし穴というのは、「視野狭窄」と「傲慢」である。法の分野では、「法の無知」と「権利濫用」という、「恥ずかしさの境界線」を逸脱するものと同様に。
世の中にはいろんな人がいる。「専門馬鹿」であることは称賛に値するけれども、それを自慢げに吹聴して回るのは如何なものかと。折角の「専門馬鹿」の重みが、一瞬にして、マグネシウムが燃え尽きたように軽くなる。
筆者が理想とし敬愛するのは、他分野にも造詣が深く、自らの「専門分野」で修練している「専門馬鹿」である。更に、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という人格者の「専門馬鹿」は、史上最強のものではなかろうか。
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