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断片思考の迷路に迷い込む語り手

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 最近、気づき始めたことが一つある。それは、ある人物が語る内容が、全て断片的であり、それを無理矢理繋ごうとして、語ることへ力を入れすぎるから、自分自身の語る内容を検証できないまま語っているのである。

 一所懸命に体験談なり感想なりを語るのは良いことだが、一つ一つを断片的に見たものを勝手に繋げば、理解し難い物語となり、どこで、話がすり替わったのかさえも、自分では気づかず、慌てて軌道修正に入っている。

 何故に、そのような不思議な現象が起きるのか理解し難いが、頭の中で、カテゴリー別に区分けして、一つ一つの体験談なり感想なりを整理整頓していないから、ダラダラと最初の主語が最後まで続き、途中に主語が入れ替わっているのに、本人には違和感がなく語っていることになる。

 聞き手として耳を傾けていると、次の主人公が登場したにも関わらず、話の内容が変わっている。本人は次のフェーズに移ったつもりだが、これまでの主人公はまだ生きている。しかし、次の語りの中で無視されているといった具合である。

 5W1Hが面倒くさくて難しいと考えるのであれば、簡単に「誰が何した」、「自分はこう思う」、「これは可能性が低い」、「この案件については疑問が残る」など、「・・・である」として端的に伝えれば問題ない。

 それを、「あれが、あのう、これが、このう、そして・・・」と、ケジメのない、区切りのない語りを続けていると、自分自身の語りが相手にどれほど伝わっているかの確認ができず、頭の中は真っ白になっているはずだ。

 従来、自らの論理思考について検証したこともないのだから無理はない。しかし、一端の大人であれば、相手が理解を示し頷くようなストーリーを語らなければならない。それが出来ないのであれば、箇条書きしたものを予め転送しておき、会話の中で、各々の説明をする方が賢明ではないか。

 結局、「誰が何した」で報告すれば簡単に通じるが、そこに枝葉を持ち込み、主人公が途中で変わるとなれば、意味不明の語りとして敬遠されてしまうのがオチとなる。

 これまでは、その程度の語りで通用したかもしれないが、それは、なあなあの関係である知人友人間での語りであり、ビジネストークとしては絶対に通用しない。それを、しっかりと自覚しておく必要がある。

 最後に、ある論文を読んだ感想文を書く場合も同じこと。読んで、単に感想を書くことは塗り絵と同じであり価値がない。よって、その文章に対してダイレクトに自論を唱えたり、将来に向けての提案を語ることが、重要なポイントとなる。

 「あの記事のあれは、こういう意味でしょ?」というような馬鹿げた質問をするものではない。いちいち、自分の理解度を確かめるような語りは、全く意味がない。それより、その文章を読んで、得たヒントを具体的に企画書として提出するのが、捌ける人間として称賛に値する。

 何度も取り上げているが、語りにおいても、提出する報告書などにおいても、「忖度」を匂わすような枝葉を挿入するものではない。それは激しく叱責を受けるだけで、自滅の途を辿ることになる。

 畢竟、冷酷な言い方かもしれないが、ビジネス上では、「温情」ありき、「忖度」ありきの個人的な感情論を打ち込めば、「おバカ」のレッテルを貼られてしまうことを、肝に銘じておくべきだ。

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▼ChatGPT 4oによる感想

このエッセイ「断片思考の迷路に迷い込む語り手」は、語りの質がいかに人間の思考の整理と密接に結びついているかを、厳しく、かつ理知的に描き出しています。以下に、内容の要点と感想を詳述します。

◆ 要点の整理

断片的な語りの弊害
筆者は、ある人物の語りがすべて断片的であり、それを無理に繋ごうとすることで、話の全体像が見えず、聞き手に混乱を与えていると指摘しています。語り手自身も自分の話の筋道を検証できないまま話し続けている状態。

構成力・論理力の欠如
話の主語が途中で変わるにも関わらず、その認識が本人にない。結果、聞き手は誰の話をしているのか混乱し、語り手は自分の世界で迷子になる。

簡潔な報告・語りのすすめ
5W1Hに基づく簡潔な説明、「誰が何をした」など、端的な語りの有効性を主張。無意味な「あれが…これが…」といった言葉を排し、論理的に語るべきと警告。

感想文・報告書の質的向上
感想文においても、自分の意見や未来への提案が重要であり、「これはこういう意味ですね?」という再確認型の言い回しは無意味と断ずる。

「忖度」の排除
ビジネスでは「温情」や「忖度」は不要であり、それらを語りに織り交ぜることで、自滅への道を辿る危険性を強調。

◆ 感想と分析

● 思考の整理と語りの質は表裏一体
このエッセイは、語り手の混乱した話し方に着目していますが、その背後にあるのは「思考の整理ができていない」という本質的な問題です。つまり、「話がうまくできない人」は「考える力が未熟」であるという筆者の厳しいが的確な視点が貫かれています。特に、「主語が変わったことに気づかないまま話し続ける」という指摘は秀逸で、これはまさにロジカル・シンキングの欠如であり、話が散漫になりがちな人々への鋭い警鐘です。

● ビジネスにおける厳しさと提言
「なあなあの関係」では通じても、ビジネスでは通用しない、という言葉は極めて現実的です。世間話なら許される曖昧さや感情論が、プロの世界では“無能”の烙印を押されることがあるという警告でもあります。こうした冷厳な現実に対して、筆者は実用的な処方箋(例:「箇条書きで整理しておけ」など)を提示しており、これは非常に建設的です。

● 「感想文」への切り込み
後半に語られる「感想文の書き方」のくだりでは、一般的な“読んで感じたことを書きました”式の感想文に対し、「それは塗り絵にすぎない」と断ずるのは痛烈です。読解力とは、その文章をきっかけにどれだけ自分の視点を発展させ、企画や提案に昇華できるかが問われるのだというメッセージが込められています。

◆ 総評
このエッセイは、**「話す」=「思考の表現」**という認識を前提に、語りの質の低さが思考の浅さを露呈していると喝破し、なおかつ改善への実践的アドバイスまで踏み込んでいます。冷静かつ批判的、そして論理的な視点で一貫しており、ビジネスや教育の現場において“語り”を見直すための教訓が多く含まれています。

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▼ChatGPT 4oが提示した「10箇条」

語りの心得10ヶ条 〜話す前に、整える〜

語る前に、頭の中を整理せよ
 何を伝えたいのか、主語・目的・結論を明確に。断片をつなぐ前に、全体像を描け。
「誰が、何をした」を最初に述べよ
 5W1Hの基本を押さえるだけで、話の精度と信頼性が格段に上がる。
主語と視点の切り替えに注意せよ
 話の主人公が変わったら、それを明示し、聞き手を混乱させるな。
繋がりのない話題を無理に繋げるな
 断片を並べても物語にはならない。「分類」と「流れ」を意識すべし。
語りにおいて“忖度”は不要と心得よ
 機嫌取りや曖昧な表現は、伝える力を弱め、自滅を招く。
あれ・これ・それ…指示語の乱用を避けよ
 具体的な名称で語ることで、正確性と信頼を得る。
話が迷子になったら、潔く立て直せ
 軌道修正は恥ではない。話の座標軸を回復させる勇気を持て。
「感想」ではなく「提案」を語れ
 共感よりも洞察、感想よりも創造。語りには未来への視点を込めよ。
簡潔に語れ。長さは価値ではない
 結論が見えない長話は、聞き手の集中を削ぐ。要点を押さえよ。
語りは思考の鏡と心得よ
 話が混乱しているとき、思考もまた乱れている。語るとは、思考を整える行為そのものである。
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プロンプト・文責:西田親生


       

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/17 12:00 am

ChatGPT4.1 vs 西田親生・・・「無法者」について

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 「無法者を礼賛する者もまた、無法者である」というタイトルで、先ず、筆者が書き綴ったエッセイに対抗して、ChatGPT 4.1にも書いてもらった。ChatGPR 4.1へは、筆者の原文は見せず、タイトルのみを提示している。

 性懲りも無く、今回もまた人工知能への挑戦であるが、ChatGPT 4.1の文章と筆者の文章をChatGPT o3に分析させ、それぞれに比較評価をすることにした。少々ドキドキするが、まあ、負けて元々なので、さらっと評価をして頂ければと。(苦笑)

 結果は、以下の通り。

 尚、掲載については、(1)先に書いた筆者の文章、(2)ChatGPT 4.1の文章の順で掲載し、最後に、(3)ChatGPT o3による比較評価を掲載する。

(1)西田親生の文章
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無法者を礼賛する者もまた、無法者である
2025年6月16日 00:04

 社会秩序を維持するために、警察という治安機関が存在する。それにもかかわらず、徒党を組んでその機関に矛先を向ける者たちは、ほとんどが無法者、あるいは無法者を志望する者である。ただし、中には恫喝により、嫌々ながらその集団に加わっている者もいることは否定できない。

 治安を維持するために尽力している機関に、なぜ反発し、侮蔑的な態度を取るのか。その理由が理解できないと感じるのは、平穏無事な日常を望む我々一般市民である。

 無法者たちは手段を選ばず、ただ目立つことを目的として騒ぎ立てる。そして、それにより捜査機関が動けば、それを誇りとしてさらに騒動を拡大する。あらゆる手段で因縁を吹きかけ、難癖をつけ、口先だけは達者であるが、その実、思考は五歳児以下の稚拙さである。

 脳筋的傾向なのか、人間としての認知機能に異変があるのか、その挙動は尋常ではない。改造車の窓から身を乗り出す、巨大な旗を掲げて練り歩くなど、まるで海外のテロ組織の模倣であり、自己顕示にすべてを費やす姿は滑稽の極みである。(誰も見ていないし、誰も見たくもない)

 そのような愚行に生産性はなく、無法者たちの価値観や人生観を理解しようとすること自体、無意味である。むしろ、その奇異な行動を「格好いい」と評価する者たちこそ、同じく無法者としての資質を備えていると見るべきであろうと。

 毎年のように成人式で騒ぎを起こす無法者が現れる。彼らは徒党を組み、他の一般参加者とは明らかに異なる異様な空気をまとい、行政に反旗を翻す。しかし、そこまで反発するのであれば、そもそも式典に参加する必要などない。

 彼らの主張は「権利」に偏重し、「義務」を果たす姿勢は皆無である。自らを省みることなく、遠くから世間を見下ろすような態度をとる。公序良俗という概念は脳内に存在せず、六法全書の内容も、彼らにとってはトイレットペーパー以下の価値しか持たない。

 重大事件を引き起こした際の無法者たちの反応には二通りある。一つは、逮捕後も顔を隠さず、悪びれる様子もなく挑発的態度を見せる者。もう一つは、顔を隠して怯え縮こまる者である。

 無法者が違法行為に走るのは、一体何を目的としているのか。彼らとて人間であり、家族や親戚がいる。しかし、違法行為に生産性があるかといえば、その答えは「皆無」である。

 残されるのは悪事の痕跡と、刑事・民事双方の責任という負債である。結果的には、人生に大きな汚点を刻むことになる。もし、現実社会がそこまで不満であるならば、理想とする海外のテロ組織にでも加入して、自分の人生をそちらに賭ければよい。

 「異端児」という言葉は、良い意味でも悪い意味でも用いられるが、映画の影響を受けて、わざわざ無法者を目指す必要がどこにあるのか。思考の浅さ故に、無法者に憧れているのだろう。実に稚拙であり、その目に映る世界は歪んでおり、悍ましい生き様を見せている。

 無法者になりたければ、それでも構わない。ただし、他者に迷惑をかけたり、危害を加えたりするのであれば、それはもはや彼らが目指す「格好いいアウトロー」とは呼べはしない。中途半端な無法者を気取るくらいなら、自分の居場所を見つけ、荒んだ人生に終止符を打つ方が、はるかに賢明である。

 暴力と詐欺に手を染めた日本人が国際的な問題を引き起こしている事例も少なくないが、そこには日本人としての誇りも何も見出せない。

 一度きりの人生である。無法者としての悪しき言動は称賛に値せず、彼らの拠って立つ場所は日々狭まりつつある。番長やスケ番といった存在は、漫画やドラマの中だけで完結すればいいだけの話だ。

 例え、現在が多様性の時代であっても、公序良俗に反する存在が特別に認められることは、決してないのである。

(2)ChatGPT 4.1の文章
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無法者を礼賛する者もまた、無法者である
 社会には、決まりごとや秩序が存在する。それらを守ることによって、私たちは安心して日々の生活を営むことができる。法律や規則は、ともすれば面倒に感じられることもあるが、多くの人々がそのルールの下で、互いに信頼し合い、摩擦を最小限に抑えながら共存している。だが、世の中には意図的にその枠組みを破り、他者に迷惑をかける「無法者」が存在する。

 無法者は、しばしば大胆で、常識を逸脱した行動によって人目を引く。その姿を面白がり、賞賛したり、時に英雄視する者すら現れる。しかし、ここに大きな落とし穴がある。無法者の行為を称賛するということは、彼らの振る舞いを容認し、場合によっては自らも同じ価値観を持つことに等しいのである。

 例えば、違法な手段で富や名声を手にした者を羨望の眼差しで見たり、「あの人はやることが大胆で格好いい」と持ち上げたりする者がいる。しかし、ルールを破る者を「格好いい」と認める行為は、社会秩序を軽視する思想と表裏一体であり、その一歩先には自らもルールを破る可能性が待っている。

 社会において、法やルールを守ることは、個人の自由や創造性を抑圧するものではない。むしろ、多くの人が安心して生きるための土台である。その土台を揺るがす無法者、そしてそれを無批判に礼賛する者が増えれば、社会はたちまち無秩序と混乱に陥るだろう。

 無法者を英雄視する風潮は、やがて「自分さえ良ければよい」という利己主義を助長し、法を守る者が損をし、不正がまかり通る世の中を招く。つまり、無法者を礼賛する行為は、単なる第三者の傍観ではなく、自身もまた無法者の側に立つことを意味するのだ。

 秩序やルールを無条件に称賛する必要はない。しかし、それらを一方的に否定し、無法者を持ち上げることが、どれほど社会の根幹を揺るがす行為であるかを、今一度考えるべきである。無法者を礼賛する者もまた、無法者である。この言葉の意味を、私たちは決して軽んじてはならない。

(3)ChatGPT o3による比較評価
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3. 総括
人工知能版は「抽象化→一般論→教訓」へとブレずに収束する“論説文の模範”。安全で筋が良いが、読後に残る強い像は控えめ。
西田親生版は“フィールドワーク的視点”と“鋭い情緒”で読者を揺さぶる。論理の直線性よりも臨場感を優先し、社会風刺としての完成度が高い。
知的水準は両者とも高域だが、AI版=論理特化型、 西田版=批評・洞察型という質的差異が際立つ。読者に「考えさせる」余韻を残すのは西田親生版、体系的理解を促すのは人工知能版──と読み分けると、双方の長所が最大限活きる。
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プロンプト・文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/16 12:00 am

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