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水前寺東濱屋の極上鰻!

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 140年の歴史と伝統を誇る、鰻専門店「水前寺東濱屋」。同店は筆者の鰻料理のスタンダードを育ててくれた名店だ。

 実は、生まれて初めて鰻の蒲焼を食したのは、5歳の頃だったと記憶している。釣り好きの父が、菊池川(熊本県山鹿市)で獲ってきた天然鰻がそうだった。まな板の上で頭を突き刺し、腹開き。それから七輪で素焼きを終えて、何度もタレを付けながら焼いているところが映像として残っている。

 見た目は蛇のようで、体全体が黒くヌルヌル。生臭く、嫌なイメージが第一印象であった。ところが、焼き終えた鰻の蒲焼を一口食すと、この上ない鰻の旨さに驚き、飛び上がってしまったのである。

 しかし、それ以来、出不精だった筆者は、家族と伴に鰻専門店に足を運ぶこともなく、学生時代の友人と安い鰻ランチを何度か食べに行った程度で、飛び上がるほど旨い鰻に出会うこともなく、いつの間にか社会人となってしまった。

 当時、新聞社地階にあった社食(社員食堂)で九百円(社員は3割引の七百二十円)の鰻重があるというので、喜び勇んで、社食に向かった。そして、社食で一番高いメニューである鰻重を久しぶりにそれを食したのである。・・・残念ながら、生臭くかなり不味かったことだけはしっかりと覚えている。

 それから数年後、当時のニュースカイホテルでセミナーを主催した時に、事前打ち合わせで鰻専門店を訪れ、極上鰻を食したのである。それは、それは、今まで食したことのない、分厚くでっかい極上鰻に、二十年ぶりに飛び上がった。鰻ざくも、鰻巻きも、肝焼きも、肝吸いも・・・申し分ないというか、とんでもない旨さだった。・・・それが、「水前寺東濱屋」だったのだ。

 同店に足を運んだお陰で、筆者の中に極上鰻のスタンダードが育っていった。よって、同店に足繁く通うようになり、いつの間にやら三十年が過ぎた。また、偶然にも同店の若女将が筆者の幼友達の従姉妹であったことにも、腰を抜かした次第。

 前置きが大変長くなったけれども、同店の鰻の焼き方は菜箸三本を使い、何度も何度もタレに付けながら、宙を鰻が舞うように捌き焼くと言う、独特な焼き方である。炭火も高熱で、外側はカリッと、内側ジューシーに、百四十年の歴史が凝縮された深い味わいだ。

 太平洋戦争がなければ、同店の厨房には百四十年前のタレが継ぎ足されているのだろうが、戦時中に焼失し、現在のタレは七十年の歴史を継いでいることになる。それでも、老舗中の老舗として、県内外からのファンも多く、その芳ばしい香りに酔いしれ、極上鰻を頬張り、満面の笑みを見せてくれる。

 この深夜には「毒」のような話をしてしまったことを後悔している。キーボードを叩くたびに、鰻の蒲焼の写真が憎たらしく見えてきたり、腹の虫が大きく部屋中に鳴り響いたり、現在、デスクに向かう筆者は大変な状況下に陥ってしまった。・・・筆者が大好きな極上鰻のせいろ蒸しや白焼きなどの映像とその香りが、頭の中でぐるぐる回っている訳だ。実に、辛い。

 ところで、「水前寺東濱屋」の公式サイトが、突然リスポンシブとなった。今回はそれを伝えたかったのである。以下のURLが同店公式サイトなので、是非、スマホ、タブレットなどでご覧いただければと・・・。それにしても、鰻の記事は大変「酷」であることを再認識してしまった。・・・記事をアップした後、間髪を入れず冷蔵庫を開く筆者が、必ず居るはずだ。(苦笑)


▼水前寺東濱屋公式サイト(リスポンシブ)
 http://www.dandl.co.jp/higashihamaya/Link

▼菜箸三本で焼く、水前寺東濱屋の鰻の蒲焼
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  • posted by Chikao Nishida at 2016/8/25 12:00 am

些細なことで、不快感を与えることも!

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 些細なことで、不快感を与えることも・・・

 先般、あるレストランへ足を運んだ時のこと。奥のテーブルに席を取ったところ、あとから入って来た親子の客が、「絵本があるところが良いけどね。人が居るから、こっちに座ろう!」と、子供に言い聞かせた母親がいた。「人が居るから・・・」ということが、何の躊躇いもなく言葉に出るところに、その人の育ちの悪さや、子育て方法の間違いが露呈している。

 自分たちは客であって、子連れだから、絵本があるところの席は当然に優遇されても良いではないかと主張しているようだが、それほど絵本のある席がお気に入りであれば、「申し訳ありません。子供が絵本を読みたいので、ちょっと横にある絵本を拝見してもよろしいですか?」と切り出せば、何の問題もない。

 「人が居る」というのは、裏を返せば、本箱が遮蔽されて「邪魔」であることを言いたいのだろうし、その場所は子供のための席だよと、勝手に思い込んでいる節がある。もし、常識的に「本を拝見させてください。」となれば、「どうぞ、どうぞ!」と、喜んで席を離れてでも、子供達に本を選ばせる時間を取ることができる。

 このような些細なことでの失言。暴言までには及ばないけれども、違和感や不快感を他人に与える言葉であることが理解できていないということだ。よって、迷惑を掛けなければ、何でも良いだろうという日頃からの言動となる。物理的に迷惑を掛けたら警察が動き出す。しかし、道徳とは、迷惑の云々の前に、違和感なり不快感なりを可能なかぎり他人に与えないところが、人としての「心配り」なのである。

 その子供も、大人になれば、同じシチュエーションにて、「人が居るから、こちらに来なさい!」と注意を促し、「お客様の邪魔にならないように、こちらで静かにしておきなさい。」とは言わないだろうと思った次第。

 教科書には人間教育として詳細の定めがない「躾」や「道徳」。日頃の自分の生活がスタンダードとなっているので、それが正しいのか否かのチェックは、個人レベルでしかできない。ほとんどの人たちは、日々の暮らしに慣れ親しんでいる為に、それが、他人に違和感なり不快感なりを与えるものであるとは気づかないことになる。

 さて、保育園、幼稚園、小学校、中学校の教育の中で、「心配り」ができる人間として育てるところに、かなり力を注ぐべき時代が来たのではないか。

 ちまたでは、日本人らしい「おもてなし」の心を豪語しているけれども、「躾」や「道徳」の原点に戻り、教育レベルをしっかりと上げる努力を続けないかぎり、よき時代の日本精神文化は子供達に宿らぬことになる。


◎先見塾公式サイト
 http://www.senkenjyuku.com/Link

       

  • posted by Chikao Nishida at 2016/8/24 12:00 am

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