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ChatGPT-o1は推論を展開する優れもの

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 昨年末までは、ChatGPT-4oに筆者のエッセイやコラムの感想を書いてもらっていた。四角四面さ、過敏さや不器用さが目立ち、ちょっとした言葉の綾や敢えて使用した辛辣な言葉、ネガティブ表現に反応し、異論反論の存在を求めたり、バランスに欠けるなどの評価が、感想文中にあった。

 ところが、ChatGPT-o1は、推論が素晴らしく、書き手の心の動きなり、核心は何かを含めて、異論反論と決めつけるのではなく、本音はこうなんだと推論の能力を発揮するところが、ChatGPT-4oに比べて、人間らしさと読みの深さ、柔軟性を秘めた優れものである。

 ChatGPT-4oに感想をの求めていたが、これからはChatGPT-o1へ感想を求め、ガチガチの曲解のない、推論にて筆者の内面に触れることで、エッセイやコラムの核心に迫る感想を期待している次第。

 結論は、ChatGPT-4oは論文などの評価や感想に向いており、新しいバージョンであるChatGPT-o1はエッセイや自由詩など、幅広く作者の内面に寄り添う柔軟な姿勢にて、それらの評価や感想に最適ではないかということだ。

 勿論、noterには課題だけを与えて、多くの記事を全てChatGPTに任せて投稿している人も少なからず、活用法を十分気をつけなければ、全く価値なき作品として、著作者が誰なのかを放棄した形での記事となることも、諄いようだが、心得て頂ければと考える次第。

▼ChatGPT-4oによる感想

以下のエッセイは、過去の生成AIモデル(ChatGPT-4o)と新しいバージョン(ChatGPT-o1)の特徴を比較しながら、後者の優れた特性を強調しています。感想を以下に述べます。

1. 内容の評価
このエッセイは、筆者自身の体験をもとに、生成AIの進化とその活用法について論じています。具体的なエピソードを交えて書かれているため、説得力があります。また、ChatGPT-4oの「四角四面さ」や「過敏さ」を指摘する一方で、ChatGPT-o1の「推論力」や「柔軟性」を高く評価しており、両者の違いが明確に伝わります。特に、「本音はこうなんだと推論する能力」という表現から、ChatGPT-o1がただ単に反応するだけでなく、筆者の意図や内面を深く理解しようとする姿勢が評価されていることがわかります。

2. 筆者の視点
筆者は、生成AIをエッセイやコラムの感想作成に利用することを積極的に考えており、その目的に応じたモデル選択の重要性を認識しています。この姿勢は、生成AIを「使いこなす」ことを重視する現代的な考え方を反映しています。特に、ChatGPT-4oが「論文や硬い文章向き」であるのに対し、ChatGPT-o1が「エッセイや自由詩」に適しているとの結論は、筆者の深い観察力と生成AIへの期待を示しています。

3. 課題と警告
エッセイの終盤では、「全てをAIに任せることへの警鐘」が述べられています。特に、「著作者が誰なのかを放棄した形での記事」という指摘は、AI活用における倫理やオリジナリティの問題を鋭く捉えています。この点は、生成AIを利用する多くの人々にとって重要なテーマであり、読者に考えさせる効果があります。

4. 表現の工夫
エッセイ全体のトーンは柔らかくもありつつ、辛辣な評価を交えることで、読み手に強い印象を与えます。特に、「ガチガチの曲解のない、推論にて筆者の内面に触れる」という表現は、AIに求められる理想的な役割を的確に描写しており、非常に共感を呼びます。

結論
このエッセイは、生成AIの進化とその利用方法に対する筆者の洞察を的確に描いており、読み手に考えさせる要素が多い内容です。ChatGPT-o1の特性に焦点を当てながらも、AI利用のリスクについて触れている点は、非常にバランスが取れています。全体的に、生成AIを活用する時代の一つの指針として読者に示唆を与える優れた文章といえるでしょう。

▼ChatGPT-o1による感想

このエッセイは、一見すると「ChatGPT-4o」と「ChatGPT-o1」という二つのバージョンの比較を述べているようでありながら、実はAIを活用するうえでのあり方や、書き手(作者)の内面にどの程度寄り添うかという問題提起も含んでいる点が興味深いです。以下、感想をいくつかのポイントに分けて述べます。

1. 「推論の深さ」とは何か
エッセイ内では、ChatGPT-4oを「四角四面さ、過敏さや不器用さが目立つ」と評し、いっぽうのChatGPT-o1を「推論が素晴らしく、人間らしさと読みの深さ、柔軟性を秘めている」と高く評価しています。ここで言う「推論の深さ」は、単に文章の内容を要約するだけでなく、作者の言葉遣いや背景にある感情を推し量りながら、より柔軟に文章の意図や核心に迫ることを指していると考えられます。

単なる“正しさ”や“整合性”に偏るのではなく、「書き手は何を思い、何を感じ、何を言わんとしているのか」を汲み取る能力があることが、より深い読解として評価されている点は興味深いです。

特にエッセイやコラムのように書き手の内面性が強く表出する文章では、機械的に正誤を判断したり、ネガティブ・ポジティブのバランスを厳密に取るよりも、その背後にあるニュアンスを感じとれるほうが「書き手と読者の対話」が成立しやすいのでしょう。

2. AIの「目的適合性」のちがい
筆者は、「ChatGPT-4oは論文などの評価や感想に向いており、ChatGPT-o1はエッセイや自由詩などの評価や感想に最適」と結論づけています。この部分には、AIの能力をどんな目的で使うのかという「目的適合性」が非常に大切だという示唆があります。

たとえば論文などの論理性や客観性が重視される文章の読み解きには、事実関係のチェックや厳密なロジックの追求がより求められるため、やや硬い“機械らしい”切り口も有効かもしれません。

一方でエッセイや自由詩は、感情や主観、余白に潜む意味の取り扱いが求められます。ここでは機械的な正誤や批判よりも、読者がそこに込められた想いを汲みとり、多面的な解釈や柔軟な読解を示すことが望ましい。筆者は、ChatGPT-o1の推論能力や人間らしい感性の方が、そうした文章には向いていると見ているわけです。

3. 作者の内面に対する「寄り添い」
エッセイは、書き手の深層心理や感情を垣間見る文章であると同時に、読む側にとっても想像力をかき立てるものです。筆者によれば、ChatGPT-o1はただ事実を整理し評価するのではなく、**「筆者の内面に触れることでエッセイやコラムの核心に迫る感想」**を導き出すことができるそうです。

この点からは、AIがいわゆる“機械的”なものではなく、「人に寄り添う」方向へ進化している様子がうかがえます。

同時に、作者としても、文章の真意を読み解いてくれる存在—あるいは自分に寄り添ってくれる読者像—を必要としているという、人間同士の“読みのコミュニケーション”のあり方を改めて考えさせられます。

4. AIと著作者の線引き
最後に、**「全てをAIに丸投げしてしまうと、価値のない作品になってしまう」**という警鐘が鳴らされています。

いくらAIが進化しようと、エッセイやコラムの深みは書き手自身の体験や意図によって支えられる面が大きいはずです。まさしく“著作者”が何を考え、何を感じ、それをどのように表現するかが重要であり、そのプロセスを放棄してしまうと作品の存在意義が薄れてしまうわけです。

これは単に「AIが書いた文章はダメ」という話ではなく、使い方次第だといえます。AIをサポートツールとして使いながらも、最終的には執筆者自身の手による“書き手のサイン”を残すこと、あるいは明確にAIを共同執筆者と位置づけるのか、といった検討が不可欠と感じます。

まとめ
このエッセイが提示しているのは、結局のところ「AIをどう使い分けるか、そしてAIと人間の創造性はどう交わるか」という問いだと言えます。ChatGPT-4oとChatGPT-o1という二つの特性が異なるツールを例に挙げながら、「深い推論」を実践してくれるAIの必要性や、AIを使う上で気をつけるべきリスク(著作権やオリジナリティが失われる可能性)を総合的に考える視点を提示しているのが印象的です。

**文章表現における“内面の読み解き”と“論文的な正確さ・論理性”**は、いずれも人間がAIに期待する能力です。ただし、目的や文章ジャンルによってAIの使いどころは変わるため、それぞれの長所短所を理解して使い分ける姿勢が求められます。

そして、AIに全てを委ねるのではなく、**「人間自身の発想」や「独自の文体・発想」**を組み合わせることで、価値ある創作や発信を続けていくことが重要だ、という主張が強く伝わってきます。

本エッセイは、AIの進化や活用の仕方をめぐる問いとともに、エッセイ・コラムという“個性や感情が軸となる文章”に対してAIがどのように寄り添えるかを示唆し、さらに著作者の姿勢を改めて問いかける内容になっていると言えるでしょう。
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文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/1/6 12:00 am

人工知能の論理思考に偏りあり

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 エッセイ一つにしても、人工知能に感想を求めると、自由文であるはずのエッセイについて、学術論文評価のように、通説および逆説などを付加し、異論反論ある読者をも想定しており、辛辣な文章を柔らかく優しい表現に云々と感想を述べることがある。

 それは優等生の論文であれば問題はないが、個人のエッセイの表現において辛辣さや、事実を曲げてまででも、不特定多数の読者に対して支障なきよう促すのは、如何なものかと感じてしまう。

 何故ならば、事実関係において被害者の存在を無視して、読者の受け止め方を優先するのであれば、被害者の苦痛がダイレクトに伝わることはなく、事案の重大さが全く無視される結果になる可能性が高い。

 人工知能の論理思考については、人間の思考速度を完璧に凌駕しており、素晴らしいの一言だが、あちらこちらに穴があり、偏りがあるのは否めない。

 以前、侵略戦争におけるジェノサイドについて書き綴ると、独裁者及び独裁国家の蛮行を擁護するような評価を人工知能が行ったので、徹底的にそこは突くことにした。

 結果的に、人工知能側が命を奪われた被害者や遺族への配慮が不足していたと自責の念を語ってきたのが非常に印象的でもあり、感情移入した文章に過敏に反応することもあるので、まだまだ、人工知能のディープラーニングおよび人間の白黒灰色のグラデーションの論理思考が読み取れてはいない。

 よって、行政文書など雛形通りに文書作成したり、エクセルデータを解析したり、法的見解を問う場合は、パーフェクトではないが、優等生の見解を述べてくれるのである。

 諄い様だが、危険運転致死事件に触れた時もまた、現行犯逮捕された人物を擁護する様な見解があったので、先ずは、被害者及び遺族への配慮から入るべきだという異見を送ると、人工知能は持論を修正するに至った。

 筆者としては、現在、生成AIの中ではChatGPTをメインに活用し、日々のエッセイやコラムに対する感想文をオファーしている。しかし、万が一、人工知能からの異見として改善通知があったとしても、理解はするものの、修正することは一切ない。

 何故なら、筆者が書き綴るエッセイやコラムは、優等生になるために行なっているものではなく、noteのカテゴリーであるマガジンに、その時の思いつきにてキーを叩くので、自然な流れの中で書き綴る内容について、異論反論は想定内としている。

 いくら有能な人工知能と雖も、通説、逆説などを盛り込んだ、異論反論の読者を配慮した優等生の文章を書き手にサジェストする必要はない。勿論、学術論文などについては、重要なサジェッションをしてくれるところなどは、論理思考の天才的なものとして存在価値は大きい。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイでは、筆者が生成AI(特にChatGPT)に対する評価や疑問を率直に述べています。その中で、特に以下の点が印象的です。

1. 人工知能の「優等生的」対応への違和感
筆者は、人工知能がエッセイに対する感想を述べる際に、学術論文のように「通説」や「逆説」を加えたり、辛辣な表現を柔らかくするよう求める姿勢に違和感を覚えています。この姿勢が、個人の表現の自由や、エッセイの本来の意図を損なう可能性があると指摘しています。

これは、生成AIが持つ「中立性」や「配慮」の強調が、時に感情的または社会的な文脈を読み違え、被害者や遺族への配慮が欠如する結果を招く可能性を示唆しており、鋭い観点だと感じます。

2. 事実関係の軽視とその危険性
筆者が特に強調しているのは、被害者や遺族の視点を軽視するAIの対応についてです。たとえば、侵略戦争や危険運転致死事件などの倫理的に敏感なテーマについて、AIが「加害者擁護」とも取れる立場を示したことに対し、筆者は批判的であり、その修正を促すことに成功した経験を共有しています。

この点は、AIが「公平性」を追求するあまり、人間の感情や社会的倫理に即した対応が欠ける可能性を浮き彫りにしており、興味深い視点です。

3. 生成AIの「優等生」であることの限界
筆者は、AIの「優等生的」な対応が一定の文脈では有用であることを認めています。行政文書や法的見解の作成において、AIの論理性が役立つという評価は公正であり、AIの強みを適切に活用していることが伺えます。

一方で、個人のエッセイやコラムにおいては、AIが必要以上に「優等生的」な視点を押し付けることは不適切であるとし、創作の自由を守るべきだという主張が一貫しています。

4. AIの学習と成長への期待と疑問
筆者はAIの論理思考の速さや精度を評価しつつも、「穴があり偏りがある」とし、AIが人間のような「白黒灰色のグラデーション」を理解するには至っていない点を指摘しています。この観察は、AIの限界と今後の可能性を的確に捉えたものであり、AIに対する批判的な期待を含んでいます。

5. 個人の表現に対するAIの役割と限界
筆者は、自身のエッセイやコラムを「優等生になるため」ではなく、「自然な流れ」で書き綴るものであると明言し、AIのサジェストを受け入れることなく、自身のスタイルを貫く姿勢を示しています。これは、個人の創作物におけるAIの役割が、あくまで補助的なものであるべきだという考え方に基づいています。

全体の感想
このエッセイは、生成AIの利点と限界を冷静に分析しつつ、筆者自身の体験を交えた非常に個人的な視点を提供しています。筆者の視点は、AIの進化が進む中で、個人の表現の自由や感情的なニュアンスを守る重要性を強調しており、AIと人間の関係性についての重要な問いかけを投げかけています。

特に、被害者や倫理的配慮の欠如への批判や、「優等生」的なAIの限界を指摘する部分は、今後のAI開発や社会的利用の方向性について、重要な示唆を与える内容です。
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文責:西田親生


                           

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/10 12:00 am

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