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小中高の褒める教師と、虐める教師。教員採用試験で、その人間性、適応能力の厳格なる調査により、採用決定を下すべき。

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 これは、筆者が幼い頃からの体験談である。全てに誇張なく、事実を淡々と語り、その当時の教師の言動、挙動を振り返り、客観的に検証してみたい。

<幼稚園イレギュラー入園>

 カトリック系の幼稚園だったが、優しい園長先生と厳しいおばちゃん先生(園長の奥様)が二人三脚にて、歴史と伝統を誇る幼稚園を運営していた。

 当時は、1年保育が普通だった時代だが、筆者は近所の幼友達(年上ばかり)が次々に幼稚園へ行くので、昼間は遊ぶ相手がいなくなった。それから、3歳となった頃に、両親に入園をせがみ、結果的には、両親と同園へ足を運び、園長先生とおばちゃん先生の許諾を得たのだった。

 よって、3年半ほど同園に通うことになり、園長先生とおばちゃん先生は筆者を孫のように可愛がってくれたのである。早朝から登園すると、朝食(パンと紅茶)をご馳走してくれ、当時の洋食は、筆者にとっては、ご飯と味噌汁と比べ、とてもレアでスペシャルな食事であった。

<園長先生の訓話>

 卒園して、父の転勤のために、遠くの小学校へ入学。その1学期の中ほどに、園長先生とおばちゃん先生が転勤先の官舎を、わざわざ訪ねてくれた。その時の筆者への訓話は「キリンになるな!」だった。多分、首の長いキリンとなり、楽して背の高い木々の美味しい若葉を独り占めするなという意味だったと、その当時理解したのだが、それが正解だったかどうかは、今でも分からない。表現を変えれば、「何でも器用にできるので、天狗になるな」だったかも知れない。

<転勤先の小学校入学>

 小学校1年の担任の先生は、とても温かかった。他所から転勤してきた父の金魚の糞が筆者である訳だが、どうしても生まれ育った地元の小学校へ戻りたくて堪らず、毎日のように両親に「独りで帰る!」を繰り返していた。

 担任の先生が、夏休み前に自宅に来てくれた。両親と色々と話していたが、そこで先生からプレゼントを貰った。それは、小学校2年生から6年生までの国語の教科書だった。「これをね、夏休みに眺めるだけでも良いから、読んでおきなさい!」と。絵が得意だったので、僅か1学期だけでも、多くの賞を取った。先生は筆者の絵を褒めてはくれたが、国語の教科書を何故沢山持ってきてくれたのかは、当時、理解に苦しんだ。

 2学期が終わり、冬休み前日、ワガママな筆者の「独りで帰る!」が実現する運びとなり、お別れ会と言って、先生のご自宅に招待してくれた。そこには、仲良し数人が集まっていた。今でも、昨日のように覚えているが、川の土手を皆で歩いていると、小鳥が沢山飛び回っていたので、それを追っていた筆者が土手から転げ落ちたのである。まあ、恥ずかしいやら、痛いやら。先生の自宅の土間にある井戸の冷たい水で洗って、先生が赤チンを塗ってくれた。赤くて緑っぽい、あの赤チン(販売中止となった薬)である。

<郷里の小学校へ転校>

 1年生の3学期開始一週間前。転勤先の両親と別れて、めでたく郷里の小学校へ転入することになった。1年1組の担任の先生は少々頭髪が薄かったが、一般教育というよりも、人間学や躾を徹底する先生だった。今思い出したのだが、漢字の筆順については相当厳しかった。

 お陰で、99%の漢字については、筆順は間違いなく書ける自信がある。家庭訪問の時に、実家を訪ねた先生。玄関から中に入ることもなく、縁側に腰掛けて、祖母が差し出すお茶を飲みながら、ニコニコと喋って戻って行った。

 学校の運動場から目と鼻の先にある実家。掃除時間には、時折、数人の先生たちが筆者の実家の縁側でお茶を飲む姿があった。のどかで、まったりした田舎(人口3万人程度の某市)らしい光景である。

 2年生になったが、担任の先生は1年生の先生がそのまま繰り上がった。

<小学校3、4年の担任>

 県内でも有名な音楽の先生が担任となった。その先生の音楽に対する情熱は筆舌に尽くし難く、当時、数百万円もする初期のYAMAHAエレクトーンが講堂に設置された。全校生徒に披露する日となり、音楽の先生が数曲弾いてくれたが、その音色のバリエーションの多さに、皆が驚いていた。

 筆者は、両親からは文武両道というベクトルで育てられたとは思うけれども、どうしても、文よりも武の方が大好きな、暴れん坊だった。しかし、先生はこの暴れん坊に難題を振ってきた。それは、「器楽部に入部し、アコーデオンやホルンハーモニカなどをやってみたら!?」と。

 当時、剣道やソフトボールに熱中していた筆者にとっては、清水の舞台から飛び下りるようなものだが、何度も誘われて、結局は断れず、器楽部をこなしながら、空き時間にソフトボールもOKという約束で、引き受けた。

 その先生は、その後中学校の校長となったが、若くして他界されたと、新聞社に入社した時に知ることになる。毎日のように、給食が終わると、筆者に肩を揉ませていた音楽の先生。祖父母の肩揉みがルーチンワークだったので、握力が結構強く、すこぶる喜んでくれた。とても優しくイケメンの音楽の先生だったが、今でも、指揮棒を振る姿を鮮明に覚えている。

<小学校5年生の担任>

 あだ名が自称「ヤマザクラ」と豪語していた、愉快な先生だった。何故、「ヤマザクラ」なのかを尋ねると、「花(鼻)より葉(歯)が先」とのことで、「自分は出っ歯だから、幼い頃からヤマザクラと呼ばれたんだよ!」と笑いながら答えてくれた。

 同校には、剣道部がなかったので、その先生の勧めで、剣道部を創部した。よって、器楽部、剣道部を股に掛け、更に郡市対抗ソフトボールのレギュラーの一人三役へ。更に、郡市対抗のスポーツ大会の走り幅跳びの選手に選ばれ、当時の記録を更新し、大会で優勝した。振り返れば、体格は小さいながらも、やはり、文より武の方が心地よかったようだ。

<小学校6年生の担任>

 小学校6年間を振り返り、最悪の担任の先生に出会すことになる。人と人は、どうしても水と油の関係は避けられないが、まさしく、その先生とは10メートル以内に近寄りたくないほど、子供ながらに違和感を持っていた。

 勿論、筆者が暴れん坊で扱い辛い生徒の代表格のようなものなので、筆者に原因はある。しかし、それを激しく指摘したり、皮肉を交えて語ったりを、クラス全体のクラスメイトに聞こえるように言うところが、とても辛く、嫌だった。「教師による生徒虐め」の初体験である。

 その先生が、シチズンの世界最薄腕時計を自慢するのが意味不明だった。人の首回りを覗き「三年苔」と差別的な発言も許せなかった。筆者の従兄弟の担任になったこともあるとのことで、筆者の従兄弟は素直で勉強もできたのに、筆者は捻くれ者で、良いところが全くないとまで言われた。

 当時の筆者は、その虐めに耐えるだけが精一杯。大人になり思い起こすと、少々、異常な人格を持った教師像として、今も尚、その言動を許すことはない。眉間に3本の深い縦皺があったので、気難しく、派手な人柄なのだろうと。

 実家は小学校に近かったが、特に、その先生との諍いが増えてくると、学校へ行く気持ちが、段々と薄れて行く。しかし、その先生とは水面下で戦っていた。

<天国の中学生時代>

 前述のように父が転勤族であったために、小中高計3回、転校を余儀なくされた。しかし、今思えば、中学生時代は筆者にとって天国そのものだった。何事も思い通りになり、文には興味はなかったが、某県の県下統一テストでは、何万人かの中でも二十番以内にはいた。

 別にガリ勉することもなく、筆者の学習ノートは漫画だらけ。しかし、友人に恵まれていたので、今でも、生徒会で一緒だった三人の同級生のフルネームは、さらっと出るほどだ。多分、自分で感じる以上に、天国だったのだろうと。

 最初の中学校では国語の先生が担任だった。あまり好みの先生ではなかったが、普通のイメージだったように思える。しかし、やっと他県の中学校に入学したかと思うと、父が「先日、仲の良い同僚が急死したので、その後任に転勤を希望したところ、転勤が決まった。よって、荷造りをして、次の中学校の転校準備をせよ!」と。

 まだ1学期、2学期が終わったばかりなのに、3学期はまたまた遠い中学校へ転校となった。金魚の糞としては仕方ないが、正直、寝耳に水である。

 転校先の中学校は素晴らしい環境であり、何と、そこには7年前の小学校1年生の時の同級生Aと再会したのである。よって、仲間が急に増え、3年生になった時には、その同級生Aが生徒会会長、同級生Bが生徒会副会長、同級生Cが風紀部長、そして、筆者が学習部長となって、遣り放題の1年間。弾け、燃え上がり、我が人生において、最高に楽しい中学時代を送ることができた。

 中でも数学、英語の先生には恵まれ、特に英語の先生が担任となった3年生の時は、猛烈に英語にのめり込んだ。数学は英語よりも得意というか、クイズのように解くのが好きだったので、失礼な話だが、当時の数学の先生よりも難問(Z会問題集にある灘高やラ・サール高入試問題など)を解くのは、先生よりも早く、それが唯一の自慢であった。

<転勤が続く父の職を恨む>

 天国だった中学校を卒業し、進学高へ入学したものの、またもや父のワガママで、高校1年生の夏休みに、他県の進学高へ転校が決まったのである。子供の教育を全く考えない、父の考え方に違和感を持った瞬間でもあった。自分本位で転勤を繰り返す、父。母も、ハラハラドキドキの転勤三昧であったと推察する。

 そこで父の名言が飛び交う。「転勤は大変だが、長期旅行と思えば、楽しいものだ!」が口癖だった。まあ、ポジティブに考えれば、他県の県庁所在地の官舎に住み、いろんな食材を楽しんだり、観光地に足を運べば、まあ、一理はある。しかし、子供にとっては、折角の親友との物理的リレーションを切られるので、本当に、怒り心頭の転校劇が続いた。

<地獄の高校時代>

 天国だった中学時代と異なり、高校の二校目の転校が筆者の人生を大きく変えたように思えてならない。これは責任転嫁をするつもりは一切ないが、どうしても、そう思わざるを得ないことが、次から次へ降り掛かったのである。

 一つは、2年生になった時の担任の先生は、筆者が6歳から7歳頃に、実家に下宿していた英語の先生で、とても優しく上品な方だった。しかし、筆者を幼い頃から知っていることもあってか、英語の時間に筆者とは目を合わしてくれなかった。どこか遠慮されていたのかも知れないが、得意教科の英語の時間が段々と苦痛になり、楽しさが削がれていったのである。

 もう一つは、3年生の時の担任の先生である。この方は、正直、依怙贔屓大好き人間であり、「イエスマン」を重要視し、反旗を翻す筆者は目の敵にされた。

 例えば、「simultaneously」を、筆者が「サイマルテーニョスリー」と読むと、「いや、シマルテーニョスリーと教えたじゃない!何で、そのように読まないのか!?」と激怒するのである。英語読み、米語読み、どちらでも良いはずだが、最後までケチをつけられた。

 それから、筆者に「○○君はすごく真面目で勉強できるけど、君は皮肉れているよね。それじゃ、ダメだよ!」と、筆者の親友を話のネタに、とことん嫌味を吐露していた。

 その先生は、退職前には、県内でもトップクラス進学高の校長となったが、今でも、メガネの奥の意地悪な目を思い出す。小学校6年時の、あの腕時計自慢の先生とすこぶる似ている。やっぱり、水と油の関係なのかと、関係修復は困難のまま卒業したのである。

<小中高の教師について(総括)>

 昭和時代の話なので、今であれば、「教師による虐めや暴力」に相当することも多々あった。中学校時代は、「ねぶち」や「竹の棒」を持ち歩く教師もいて、何かあれば、教室の後ろに立たせた数人の生徒の尻や太ももを叩いていた。また、自習時間にサボっていた生徒に対して、黒板の前に叩きつけ、ビンタを叩いた国語教師もいた。

 今、ふと思い出したのだが、その国語教師のイメージは、とても神経質な感じだった。チョークで板書する文字が、針がピンピン刺さるような文字である。心の中のイライラ感が激しく伝わってくるような文字であった。(某ホテルのパワハラ社長も同様の文字を書く)

 ところが、その国語教師が、突然、学校を辞めることになった。その数日前の新聞に、同じ苗字の女性が万引きで逮捕された記事が掲載されていたのである。実は、その国語教師の奥さんであることが噂として流れてきたのだが、その責任をとって依願退職となったようだ。そういった家庭環境下で、日頃からイライラが絶えなかったのかと、とても可哀想に思った次第。

 思い出に残る「褒める教師」。勿論、昭和時代だから依怙贔屓は当然存在するが、人間的に素晴らしい教師が多かったように思える。よって、筆者は子供ながらも、常に、先生へ敬愛の念を持ち接していたのだった。

 されど、嫌な思い出となった「虐める教師」の存在は、許すことはない。従兄弟や親友をネタにして、筆者へ罵詈雑言を繰り返した教師は、教師としての資格はないと、考える次第。教育者としての人格が欠落しており、嫌味タラタラと、顔を合わせば、いつもの決まり文句。食傷気味となるのは、当然である。

 その点、幼稚園の園長のサジェッション、小学校全学年国語教科書プレンゼント、音楽教師の強烈な勧誘、剣道教師の剣道部創部、数学教師との難問解答競争などなど、人として立派な方々ばかりであった。

 今でも、思い出しては、深々と頭を下げるばかりとなる。そのような先生が多ければ、もっと学校は楽しくなるが、悪き慣習バリバリの昭和時代なので、苦笑いばかりが出てしまう。

 極論ではあるが、担任教師とのリレーションシップが上手くできなければ、下手をすると、生徒の人生が完全に歪んでしまう可能性も無きにしも非ず。

 標題の通り、教員採用試験では、人間性を如何にチェックしているのか、先生を目指す人の適正能力をどのような基準で合否を決定しているのか分からない。よって、文科省の教育指導要領に大胆にメスを入れ、教育界組織全体の改革が急務ではなかろうかと・・・。

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文責:西田親生

                   

  • posted by Chikao Nishida at 2022/6/27 12:00 am

全集中できない、平和ボケ人間。・・・他人の話に耳を傾けぬ人間は、その時点で思考はフリーズ、よって、進化はない。

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 聞いて(聴いてではない)いるようで、全く頭に入らない人間がいるが、それは、他人(ひと)の話に、真剣に耳を傾けていないことになる。ただ、他人の声が聞こえているだけで、その内容を理解しようとしていない。

 特に男性の場合は、二つ、三つの事を同時にできる人は少なく、他人の言葉を聴きながら、パソコンを操作したり、プラモデルのパーツを組み立てたり、針の穴に糸を通すことなど儘ならぬ。

 女性の場合は、赤子を背中であやしながら、フライパンで卵焼きを作り、スマホで友達と楽しい会話をしている。元々、左脳右脳間の信号の受け渡しの仕組みが、男性とは異なるようだ。

 また、他人の話を聞き(聴きではない)ながら、目はドロンと濁り、睡魔に襲われる人も少なくない。それは、学びに対するボルテージも上がらず、元々全集中ができない気質の人間となる。

 国会中継を視聴していても、居眠りしている議員をよく見掛ける。会社の会議中でも、指で顎を支え、舟を漕ぐスタッフもいる。緊張感も集中力も微塵もない状態となり、語る他人の姿がぼんやり見えているだけで、耳は完全に遮断されている。

 では、どうすれば、集中力を維持し、突然の睡魔と戦い、勝てるのか!?

 それは、他人の言葉をしっかりと耳にインプットしながら、ひたすら考え、メモを取ることだ。それでも、睡魔が襲うのであれば、腿を嫌というほど抓ってみる。それでもダメなら、初手から会議に参加しないことだ。先般、或る会議を開いたが、残念ながら、メモを取る人間は誰一人いなかった。

 愚痴はさておき、流行語にもなった鬼滅の刃の「全集中」。炭治郎の独り言で何度も出てきた言葉であるが、人間は、戦慄が走るような危機感迫り、恐怖感なりに襲われると、このような睡魔など吹っ飛んでしまう。

 しかし、平和ボケした人間は、日頃から鈍感、無気力、無関心、無感動、ボルテージダウン、モチベーションダウンという酸欠状態の中で全集中できず、重要な情報が竹輪耳に入り、素通りするだけで、脳内に格納されることは無い。

 ここが、捌ける人間と捌けぬ人間との大きな違いでもある。思いの外、自信過剰で自己評価を高めたがる人間は論外となるが、捌ける人間となりたければ、全てに、他人の話にしっかりと耳を傾けること(聴くこと)である。

 捌けぬ人間は、他人からの質問に答える準備に気が散ってしまい(言葉を選んでいる暇は無い)、他人が語る核心部分を見過ごしている。結果的に、完全に理解できないまま、会議は終了となる。

 何はともあれ、少しでも進化したいのであれば、全集中して聴くこと。それから、質問に対して端的に答える訓練を日々行う必要がある。

 これ、捌ける人間となるための、王道なり。


chosakuken2022-6-9


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  • posted by Chikao Nishida at 2022/6/26 12:00 am

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