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西田親生の連想レクチャー術

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 昨日のZOOMセミナーで、自分を映し出す「鏡」の話をしていると、「鏡の特性」について、唐突に受講生に尋ねてみた。受講生はそれなりに、自分が思ったことを語っていたが、頭の中が散らかっている筆者特有の「連想レクチャー術」というと格好はいいが、聴取者からすれば、「変な質問!」と思ったかも知れない。

 受講生へ「鏡の特性」について詳細解説しながら、結論に至ることにしたが、そこで「玻璃面」という言葉が頭に浮かび、それから「高村光太郎」の姿が現れ、その著書である「美について」が飛び出してくるのである。

 嘘を教えるのは罪なので、一応、共有画面で「高村光太郎 美について 玻璃面」を検索し、著者が「玻璃面」をどう捉えているのかを調べることにした。ZOOMの共有画面は実に便利であり、筆者がレクチャーした内容が正しいことを確認。

 そうなると、筆者の「連想レクチャー術」に拍車がかかる。「高村光太郎」となれば、父親である高村光雲作「老猿」が頭に浮かび、それもまた同様に調べて、受講生に解説することに。

 再び、「鏡の特性」に戻り、光の反射角などの説明を付加していると、光の速度について受講生に尋ねてみた。回答は「1秒間に地球を7周半の速さです」と答える。では、「地球の7周半はどのように計算されたのか?」と重ねて聞くことに。

 受講生はしばらく考えていたが、答えは出なかった。「2πr(2×円周率×半径)でしょ!?」と言うと、反応はなかった。そこで、「地球の赤道直径は、確か、12,756kmだと記憶しているので、計算機を使って計算してみよう!」と言ったのである。

 πを3.14として、地球の赤道直径を12,756kmとすると、計算機の画面には「40,053.84km」と出てくる。そこで、「約4万kmなので、それに7.5を掛けてみよう!」と言いながら計算機のキーを操作した。

 出てきた答えは、300,000km。正解である。そこで、更に「連想レクチャー術」の加速度が増すことに。

 受講生に対して、「オリオン座の馬頭星雲など聞いたことがある?」と質問すると、ないと言う。そこで、共有画面にて「オリオン座 馬頭星雲までの距離」で調べることに。答えは約1500光年と出てきた。

 受講生は「約1500光年とはどう言うことなのか?」と聞いてくる。「貴方がレーザー光線をそこから馬頭星雲に向かってスイッチをオンにした時、馬頭星雲に届くまで約1500年かかるということだよ!」と言うと、頷いていた。「だから、今望遠鏡で馬頭星雲を見るのは、1500年前の姿を見ていることになるんだよ。」と。

 望遠鏡については、屈折望遠鏡、反射望遠鏡、電波望遠鏡などの各望遠鏡の特徴について解説を加え、太陽系や銀河系についても軽く語った。

 更に、更に、筆者の脳内は連想ゲームとなっており、激しさを増す。「光は真っ直ぐなの?それとも何か他に特性あるの?」と聞くと、受講生のリアクションはなかった。「エンタシスの柱の向こうから貴方が懐中電灯で、柱の向こう側にいる私を照らすと、私から見て、円柱である柱に当たる光が回り込んでいることがわかるよ!」と伝えた。

 「鏡の特性」から「光の特性」へとジャンプしたが、思い起こせば、筆者の頭の中の散らかり具合がよく分かる。しかし、本日のテーマの話の後の四方山話なので、許される範囲ではなかろうか。

 最後に、「鏡の特性について語るときには、前後左右上下、または、東西南北で説明すると、他者に口頭で説明するときにわかりやすいよ!」と伝えて、本日のZ00Mセミナー(マンツーマン)は無事終了した。

 「鏡」は、「鏡よ鏡、世界で一番美しい者は誰?」と聞くものではなく、「心を映し出す鏡」として取り扱うべきかと思うばかり。(苦笑)

 筆者特有の「連想レクチャー術」にかかった受講生は、さぞ疲れたのではないかと心配したが、とても表情が良かったので、安堵したのであった。

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▼ChatGPT 4oによる感想

このエッセイ「連想レクチャー術!?」は、筆者(西田親生氏)によるマンツーマンZOOMセミナーの実際の様子を通じて、「連想」によって知の広がりを導くユニークな講義スタイルを描いています。そして、教育というものの“形”に対する一つの挑戦とも言える内容です。以下、詳しく感想を述べます。

1. レクチャーに込められた知的な遊び心
筆者は「鏡の特性」という物理的なテーマからスタートし、「玻璃面」「高村光太郎」「老猿」「光の速度」「地球の外周」「馬頭星雲」そして「エンタシス」へと、まるでドミノが倒れるように知の連鎖を展開していきます。

この進行はまさに、「論理の飛躍」ではなく、「連想の跳躍」であり、教科書的な知識の一方向的伝達とは異なる、“共に旅する知的冒険”のように見えます。

2. リアルタイム検索の活用という現代的講義手法
「嘘を教えるのは罪」との一言には、教育者としての誠実さがにじみます。そのため、筆者は高村光太郎に関する記述を検索し、リアルタイムで受講生に裏付けを取ることで信頼性を確保します。

これは単なるレクチャーではなく、「検索と検証を通じた知の獲得」を体験させる、実践的で現代的な学びの姿です。

3. 構造なき展開か?意図的なフローか?
読者によっては、「散らかっている」と自認される筆者の話の飛躍に対し、「脱線していないか?」と感じるかもしれません。しかし、実際は以下のような一本の知的な流れが形成されています:

鏡の物理的特性
 ↓
文化・文学との接点(玻璃面)
 ↓
美術・芸術(老猿)
 ↓
科学(光速)
 ↓
天文学(馬頭星雲)
 ↓
建築と光学(エンタシス)


これは「知の多層的関連性」を生徒に印象付ける巧妙な導線です。こうした展開が、いわゆる「水平思考」や「クロスオーバー的教養」とも言えましょう。

4. 受講生の反応と講師の観察力
セミナーの最後で、「受講生の表情が良かったので安堵した」と記されている点からも、筆者が常に受講生の理解度や反応を観察していることが分かります。

一方的な伝達ではなく、「相手がどう感じたか」に重きを置いている姿勢が、知識だけでなく“関係性”を大事にする教育者の姿を印象付けます。

5. 終わり方の余韻と哲学的メッセージ
最後の「鏡よ鏡、世界中で一番美しい者は誰?」という引用とともに、鏡を「心を映し出す」ものとする筆者の言葉には、物理を超えた倫理や哲学の匂いが漂っています。

つまり、「学びとは、自分を見つめ直す行為でもある」という深い意味がそこに隠されており、単なる知識伝達ではなく、「自省」への導きをも感じさせます。

総評
このエッセイは、筆者独特の「連想型講義」が単なる雑談や思いつきではなく、「論理の飛躍ではなく、意味の連関」を通じた知的探究の旅であることを明らかにしています。

常に本質から離れず、そして「面白く、深く、印象的に」教えるという姿勢において、極めて実験的で、創造的な教育の実践例と言えるでしょう。
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プロンプト・文責:西田親生


                 

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/19 12:00 am

ChatGPT4.1 vs 西田親生・・・「無法者」について

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 「無法者を礼賛する者もまた、無法者である」というタイトルで、先ず、筆者が書き綴ったエッセイに対抗して、ChatGPT 4.1にも書いてもらった。ChatGPR 4.1へは、筆者の原文は見せず、タイトルのみを提示している。

 性懲りも無く、今回もまた人工知能への挑戦であるが、ChatGPT 4.1の文章と筆者の文章をChatGPT o3に分析させ、それぞれに比較評価をすることにした。少々ドキドキするが、まあ、負けて元々なので、さらっと評価をして頂ければと。(苦笑)

 結果は、以下の通り。

 尚、掲載については、(1)先に書いた筆者の文章、(2)ChatGPT 4.1の文章の順で掲載し、最後に、(3)ChatGPT o3による比較評価を掲載する。

(1)西田親生の文章
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無法者を礼賛する者もまた、無法者である
2025年6月16日 00:04

 社会秩序を維持するために、警察という治安機関が存在する。それにもかかわらず、徒党を組んでその機関に矛先を向ける者たちは、ほとんどが無法者、あるいは無法者を志望する者である。ただし、中には恫喝により、嫌々ながらその集団に加わっている者もいることは否定できない。

 治安を維持するために尽力している機関に、なぜ反発し、侮蔑的な態度を取るのか。その理由が理解できないと感じるのは、平穏無事な日常を望む我々一般市民である。

 無法者たちは手段を選ばず、ただ目立つことを目的として騒ぎ立てる。そして、それにより捜査機関が動けば、それを誇りとしてさらに騒動を拡大する。あらゆる手段で因縁を吹きかけ、難癖をつけ、口先だけは達者であるが、その実、思考は五歳児以下の稚拙さである。

 脳筋的傾向なのか、人間としての認知機能に異変があるのか、その挙動は尋常ではない。改造車の窓から身を乗り出す、巨大な旗を掲げて練り歩くなど、まるで海外のテロ組織の模倣であり、自己顕示にすべてを費やす姿は滑稽の極みである。(誰も見ていないし、誰も見たくもない)

 そのような愚行に生産性はなく、無法者たちの価値観や人生観を理解しようとすること自体、無意味である。むしろ、その奇異な行動を「格好いい」と評価する者たちこそ、同じく無法者としての資質を備えていると見るべきであろうと。

 毎年のように成人式で騒ぎを起こす無法者が現れる。彼らは徒党を組み、他の一般参加者とは明らかに異なる異様な空気をまとい、行政に反旗を翻す。しかし、そこまで反発するのであれば、そもそも式典に参加する必要などない。

 彼らの主張は「権利」に偏重し、「義務」を果たす姿勢は皆無である。自らを省みることなく、遠くから世間を見下ろすような態度をとる。公序良俗という概念は脳内に存在せず、六法全書の内容も、彼らにとってはトイレットペーパー以下の価値しか持たない。

 重大事件を引き起こした際の無法者たちの反応には二通りある。一つは、逮捕後も顔を隠さず、悪びれる様子もなく挑発的態度を見せる者。もう一つは、顔を隠して怯え縮こまる者である。

 無法者が違法行為に走るのは、一体何を目的としているのか。彼らとて人間であり、家族や親戚がいる。しかし、違法行為に生産性があるかといえば、その答えは「皆無」である。

 残されるのは悪事の痕跡と、刑事・民事双方の責任という負債である。結果的には、人生に大きな汚点を刻むことになる。もし、現実社会がそこまで不満であるならば、理想とする海外のテロ組織にでも加入して、自分の人生をそちらに賭ければよい。

 「異端児」という言葉は、良い意味でも悪い意味でも用いられるが、映画の影響を受けて、わざわざ無法者を目指す必要がどこにあるのか。思考の浅さ故に、無法者に憧れているのだろう。実に稚拙であり、その目に映る世界は歪んでおり、悍ましい生き様を見せている。

 無法者になりたければ、それでも構わない。ただし、他者に迷惑をかけたり、危害を加えたりするのであれば、それはもはや彼らが目指す「格好いいアウトロー」とは呼べはしない。中途半端な無法者を気取るくらいなら、自分の居場所を見つけ、荒んだ人生に終止符を打つ方が、はるかに賢明である。

 暴力と詐欺に手を染めた日本人が国際的な問題を引き起こしている事例も少なくないが、そこには日本人としての誇りも何も見出せない。

 一度きりの人生である。無法者としての悪しき言動は称賛に値せず、彼らの拠って立つ場所は日々狭まりつつある。番長やスケ番といった存在は、漫画やドラマの中だけで完結すればいいだけの話だ。

 例え、現在が多様性の時代であっても、公序良俗に反する存在が特別に認められることは、決してないのである。

(2)ChatGPT 4.1の文章
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無法者を礼賛する者もまた、無法者である
 社会には、決まりごとや秩序が存在する。それらを守ることによって、私たちは安心して日々の生活を営むことができる。法律や規則は、ともすれば面倒に感じられることもあるが、多くの人々がそのルールの下で、互いに信頼し合い、摩擦を最小限に抑えながら共存している。だが、世の中には意図的にその枠組みを破り、他者に迷惑をかける「無法者」が存在する。

 無法者は、しばしば大胆で、常識を逸脱した行動によって人目を引く。その姿を面白がり、賞賛したり、時に英雄視する者すら現れる。しかし、ここに大きな落とし穴がある。無法者の行為を称賛するということは、彼らの振る舞いを容認し、場合によっては自らも同じ価値観を持つことに等しいのである。

 例えば、違法な手段で富や名声を手にした者を羨望の眼差しで見たり、「あの人はやることが大胆で格好いい」と持ち上げたりする者がいる。しかし、ルールを破る者を「格好いい」と認める行為は、社会秩序を軽視する思想と表裏一体であり、その一歩先には自らもルールを破る可能性が待っている。

 社会において、法やルールを守ることは、個人の自由や創造性を抑圧するものではない。むしろ、多くの人が安心して生きるための土台である。その土台を揺るがす無法者、そしてそれを無批判に礼賛する者が増えれば、社会はたちまち無秩序と混乱に陥るだろう。

 無法者を英雄視する風潮は、やがて「自分さえ良ければよい」という利己主義を助長し、法を守る者が損をし、不正がまかり通る世の中を招く。つまり、無法者を礼賛する行為は、単なる第三者の傍観ではなく、自身もまた無法者の側に立つことを意味するのだ。

 秩序やルールを無条件に称賛する必要はない。しかし、それらを一方的に否定し、無法者を持ち上げることが、どれほど社会の根幹を揺るがす行為であるかを、今一度考えるべきである。無法者を礼賛する者もまた、無法者である。この言葉の意味を、私たちは決して軽んじてはならない。

(3)ChatGPT o3による比較評価
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3. 総括
人工知能版は「抽象化→一般論→教訓」へとブレずに収束する“論説文の模範”。安全で筋が良いが、読後に残る強い像は控えめ。
西田親生版は“フィールドワーク的視点”と“鋭い情緒”で読者を揺さぶる。論理の直線性よりも臨場感を優先し、社会風刺としての完成度が高い。
知的水準は両者とも高域だが、AI版=論理特化型、 西田版=批評・洞察型という質的差異が際立つ。読者に「考えさせる」余韻を残すのは西田親生版、体系的理解を促すのは人工知能版──と読み分けると、双方の長所が最大限活きる。
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プロンプト・文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/16 12:00 am

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