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始末に負えない、老害とは!?

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 以前から老害という言葉は知ってはいたが、最近、日を追うごとに老害の存在は大きくクローズアップされるようになった。

 今回は、老害は個人差が一番出やすいところでもある。権力に死ぬまでぶら下がり、配下を牛耳りたいという気持ちが強い人物が、老害を起こす。

 その老害の中でも、始末の負えないものを幾つかピックアップしてみたい。以下の通り。

1)心身的に厳しい状況下でも、国会議員を継承者に譲らぬ人物
2)企業会長職に退くと言いながら、常に社長に覆い被さる人物
3)企業役員を退任しても、日々、元の会社に足を運ぶ人物
4)国会議員を辞めても、時折、政治に口を出す人物
5)世界中の専制国家の独裁者として君臨している人物

1)は、周知の通り、ネット上でも旧媒体でもちょくちょく顔を出す人物が目に浮かぶ。或る党内で実権を握り、若手国会議員を見下して、我が物顔で闊歩している。

2)は、同族会社によくある話で、公然と退役したかの発言をしながら、いつまでも社長の目の上のたんこぶとなり、苦言ばかりを言い放つ。

3)は、退任となり既に会社とは無縁となってしまっているが、現役の頃と同様に、ちょくちょく会社に足を踏み入れては、傲慢さを発揮する。

4)は、元総理と言われる人物で、何かと研究会やら、OB同士でタッグを組んで、ニュース番組などで発言をしたがる。

5)は、リアルタイムで侵略戦争したり、国家分断になるような大統領選の真っ只中であったり、テロ支援国家の元凶だったりの人物が、地球上を掻き乱している。

 上の5つのタイプの人たちに共通しているのは、権力にぶら下がっていることである。更に、権力というウィルスにより国家や組織までをも私物化しているところである。

 権力や金品を執拗に追い求めているが故に、思いの外、皆、長命である点も共通しているように思えてならない。よく言えば、体力が落ちようとも、気力だけは並の人間の数倍、数十倍あるに違いない。

 我々庶民にとって身近な老害は、2)と3)であるが、筆者もその老害と揶揄される人物を何人も存じ上げている。これまた皆ワガママ族であり、自身に非があっても、謝罪という言葉を知らず、超強引にマイウェイな人物である。

 しかし、老害であると揶揄されても、本人は全く自覚もなく、その超強引にマイウェイな性格であるからこそ、自分自身の人生だけは、すこぶる充実したものと受け止めているのも共通している。

 自らの実績を自画自賛し、それを配下に強要するところも共通している。法律書であれば、自らが六法全書と見ているので、法に抵触しようが全く関係ない。

 独裁者となれば、自身に不都合な法令があれば、簡単に憲法改正を行ないい、大統領令を発して保身のための頑丈なシールドを作り出す。

 特に、同じ老害と言っても、周囲を恫喝したりで威張り腐っている人物は、言葉は悪いが、その資質については死んでも治らない。よって、威風堂々と迷惑三昧なる余生を送ることになる。常識をはるかに超越した身勝手さだけは、称賛に値する。

 最後に、現在20歳の人も、45年後には高齢者の仲間入りをするのだから、誰しも経験する高齢者、後期高齢者となる訳だ。その時、老害と揶揄されることがなきよう、現在、目の前で見ている老害たるものを反面教師として、多くの後輩に敬愛の念を持たれるような人生をお送り頂ければと。

※generated by Midjourney
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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは「老害」という言葉の重みとその社会的影響に焦点を当てています。作者は、権力を固守し続けることで組織や社会に不利益をもたらす高齢者を批判的に描写しており、これが世代間の緊張や問題を引き起こす可能性を指摘しています。

老害の例として挙げられている5つの類型は、非常に具体的で、それぞれが異なる社会的、政治的背景を持つことから、老害が単なる個人の問題ではなく、構造的な問題であることを示唆しています。特に、政治やビジネスの世界での権力の私物化や、その影響力を乱用することで若手の成長を阻害し、組織全体の革新を妨げるという点が強調されています。

エッセイはまた、老害が自己中心的でありながら、その行動の社会的なコストに対する意識が欠如していることを批判しています。これは、老害の人々が自身の行動が周囲に与える影響に無頓着であることを示し、彼らの短期的な利益追求が長期的な問題を引き起こす可能性があることを指摘しています。

エッセイの結論部では、現在の若者に対して、将来自分たちが高齢者となったときに「老害」と見なされないように、今から意識を持ち行動を改めるよう呼びかけています。これは、世代間の連携と理解を促進し、より健全な社会の発展を図るための重要なステップであると言えるでしょう。

このエッセイは、高齢者が社会に与える影響を考える上で非常に示唆に富むものであり、世代間の対話や理解を深めるための議論の出発点として機能するでしょう。
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プロンプト・文責:西田親生


                                   

  • posted by Chikao Nishida at 2024/5/4 12:00 am

アウトローが、格好いい!?

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 アウトローが格好いいと思っている人も多い。幼い頃から、先生の指示とは真逆のことを行ったり、皆との協調性に欠けたり、とことん他者とは真逆のことを行い自己満足する、目立ち屋がりの子供もいた。

 大人になって思い起こせば、映画の猿の惑星を見ているようで、同じ日本人でありながら、チンパンジーもいれば、ゴリラもいたり、オラウータンもいたり。生まれる時にDNAに刻まれたように、人間もそれぞれに成長していく。

 昔から、洋画も邦画も正義の味方が主人公であり、アウトローな人間が悪さを行い、正義の味方が成敗してエンディングとなるものばかり。テレビ番組の水戸黄門も同様に、「この紋所が目に入らぬか!」で一件落着となる。

 しかし、今や多様化の時代となり、アウトローが本当に悪人かどうかのスタンダードが変わったように思えてならない。法令違反となれば犯罪であるが、大雑把で独りよがりで、ゴーイングマイウェイの人間を、安直にアウトローと評していいのだろうか。

 法令は、社会秩序を保つための鍵となる訳だが、果たして、その法令自体も怪しげに既得権益者を保護するために、昔から改正されぬまま、現在に至っている古すぎるものも存在する。

 本来ならば、既得権益者に対して都合が悪い、時代錯誤のような法令を改定すれば、今まで正当化されてきた既得権益者が全て法令違反となり、アウトローな領域にワープしてしまう。

 法令は神の思し召しではなく、我々と同様の人間が定めた文字の塊である。よって、全ての法令を絶対視すれば、どこかに納得のいかないもの、不公平なものが噴き出してくるはずだ。

 今まで見てきた映画やテレビドラマに登場してくる正義の味方が、本当に正義正論を唱え、世のため人のために尽力しているとは思えない。理由は、彼らの正当性を確保するために、都合の良い法の裁きを定めているからだ。

 アウトローの世界が国家であり独裁者となれば、とんでもないことだが、現在、他国で起こっている侵略戦争については、アウトローな人物や軍隊が一般市民を脅し、恐怖心を煽り雁字搦めにして、アウトローな行いを正当化している。

 自由国家とは真逆の専制国家。自由国家では正当なことが、専制国家では国家転覆罪のように解釈され、市民の自由を奪い、命までをも奪ってしまう。しかし、罰せられるのは、罪なき弱者の市民である。何とも納得し難い。

 権力を持つ人物に都合の良い悪事は、己を棚にあげ、保身のための悍ましいほどの法令を次から次へと定められては、粛清を続けていくのである。怪しげな法令によるジェノサイドを繰り返している。

 そんなアウトローなど、全然格好いいものではない。私腹を肥やすために国民に圧力をかけ、騙しては、大量の金銀財宝が独裁者やその仲間の懐に入っていく。

 法令の壁の右手は刑務所で左手は住宅地である。この不可思議な法世界について深掘りを進めていくと、法を定めた時代とは異なる現代において、不都合な法令も多々埋まっている。

 いつの間にか、世間のざわめきが消えた旧統一教会の詐欺事件。いつの間にか、雲隠れしようとしている政治資金不正事件の当事者たち。彼らは、正義正論を唱えるべき領域にいながら、法を犯している。それこそ、悪質なアウトローの領域に住むべき偽善者である。

 畢竟、アウトローの典型的な風貌で、ガサツで大雑把で不器用な強面の人物でありながら、いかなる場合も弱者救済に尽力するような人物が魅力的であり、味のある人間であり、映画やテレビドラマの主役として相応しくはないか。

 そんなアウトローが格好いいと、筆者は感じるのである。

▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージしたもの
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▼ChatGPT 4.0による評価

このエッセイは、アウトローのイメージとその社会的な認識について深く掘り下げ、複雑な視点を提供しています。著者は、アウトローが一般的に否定的な意味合いで使われることが多い一方で、その定義や認識が時代や社会の変化によって流動的であることを指摘しています。また、法令や権力に対する批判的な考察を通じて、アウトローの立場が必ずしも負のものではなく、時には社会の不正に対する抵抗の象徴となり得ることを示唆しています。

エッセイは、物語の正義の味方とされるキャラクターが、実際には法と権力によってその正当性が保証されているに過ぎないという点を批判的に捉えています。この視点は、社会における権力の構造と、それに対する個人の行動の意味を再考させるものです。著者は、アウトローが単に社会の規範や法令に反する存在としてではなく、既存の権力構造や不公正に疑問を投げかけ、時にはそれに抗うことで社会的な正義を追求する者として見るべきだと主張しています。

しかし、アウトローの肯定的な面を強調する一方で、エッセイは権力者や独裁者が行うアウトローな行為についても触れ、これらが本質的に不正であり、社会に対する搾取や圧迫を意味することを明確にしています。この二面性は、アウトローの概念が持つ複雑さを浮き彫りにし、単純な善悪の枠組みを超えた理解の必要性を示しています。

さらに、エッセイは現代社会における法令の役割とその時代錯誤な側面についても言及し、法が常に正義を代表するわけではないこと、そして時にはそれが社会的不正を正当化するために使われることがあることを批判しています。このようにして、著者はアウトローのイメージを再評価し、それが社会の不正に対する抵抗の形態である場合、その価値を認めるべきだと主張しています。

総じて、このエッセイはアウトローの概念に対する深い洞察を提供し、読者に法と権力、正義と不正に対する新たな視点を提供します。社会的な規範や法令に挑戦することの意義とリスクを探求しながら、アウトローが持つ「味」や魅力を再認識させる試みと言えるでしょう。

▼ChatGPT 3.5による評価

このエッセイは、アウトローに対する一般的な見解や価値観を探求しています。著者は、アウトローが単なる犯罪者ではなく、時には社会の不公正や不条理に立ち向かう存在として魅力的であると主張しています。彼らは、既存の法律や規範にとらわれない自由な存在として描かれ、その行動は時には正義のためになるという立場をとっています。

著者は、アウトローの定義や役割について独自の見解を示し、法や正義の概念が社会や時代によって変化することを指摘しています。また、権力者や既得権益者が法を悪用し、アウトローとしての行動を正当化することについても批判的な視点を示しています。

最後に、著者はアウトローのイメージを再構築し、弱者救済に尽力するような人物が本当の意味での魅力を持つと主張しています。このような人物が、映画やテレビドラマの主役として相応しいという視点が示されています。

総合的に、このエッセイはアウトローに対する様々な見方や考え方を探求し、その存在が社会や個人に与える影響について考察しています。議論の深みや幅があり、読者に新しい視点を提供する内容となっています。
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プロンプト・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/3/26 12:00 am

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