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小心者は、卑怯者になってはならない。

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 皆さんの周りにも、卑怯なことをしては、井戸端会議の話題になる人も多いのではないか。卑怯者は、嘘をついたり、裏切ったり、弱者を虐めたり、不誠実であったりするが、それを暴かれ咎められても素直に認めることは皆無に等しい。

 よって、卑怯者はすこぶる小心者でありながら、その小心さが表に出るのことを過剰に嫌がり、逆ギレしたり、更に卑怯なことを行い、周囲の人たちを仮想敵国として、常に心の中で戦っているに違いない。

 小心者でも何も問題はない。大胆不敵な人間でも何も問題はない。姑息な人でも何も問題はない。人それぞれの資質である訳で、不足するところや脆弱なところを無理に補強する必要はない。ただ、周囲の人たちに迷惑を掛ける権利は、誰一人として持ち得ることはない。

 筆者は、「筋を通す」、そして「弱者救済」を重んじる性格なので、対象者は小心者と揶揄されるような人も範疇にある。だから、敵対する対象でないことになる。

 しかし、小心者で、且つ、意地汚い人がいれば、常に卑怯なベクトルを選び、日頃から心の中は穏やかではない。よって、周囲に対して難癖つけたり、筋の通らぬことを吹聴したり、意地汚いことに手を染めるのである。

 卑怯者が悪事を働き、周囲に迷惑を掛ければ、誰しも咎めるに違いない。しかし、証拠を突き出されても逃げに転ずるだけで、自らの過ちや愚行を認めることはない。仮に認めたとしても、舌の根が乾かぬうちに、また同じ愚行を繰り返す。

 小心者であれば、わざわざ強がる必要もなく、小心さを十分に活かした生き方を考えれば良いではないか。小心者は攻撃的である必要はない。本来ならば、諍いに縁遠い存在であり、波風立てずに、同調できる「弱者救済」に専念すれば、肩の力が抜けて楽になるはずだ。

 小心者だとしても、人間的に劣っていないことを自覚することが重要である。人間はサイボーグになり得ず、性格にメスを入れることは不可能である。よって、自覚により覚醒し、自らの背中がよく見えるようになれば、卑怯な手法を使わずとも、立派に世渡りができると言うものだ。

▼ChatGPTによる評価

このエッセイは、小心者と卑怯者についての考察を提供しており、個人の性格や行動に関する洞察を含んでいます。以下にいくつかの評価ポイントを示します:

論理的な論点の展開: エッセイは、小心者と卑怯者の違いについて論理的かつ整然と説明しています。また、小心者の特性を尊重し、卑怯な行動を避けることの重要性を強調しています。

著者の立場と価値観の明示: 著者は自身が「筋を通す」価値観を持ち、「弱者救済」を重視していることを述べており、その視点からエッセイを書いています。このような著者の立場の明示は、読者に論文の文脈を提供し、理解を助けます。

問題提起と解決策の提示: エッセイは卑怯な行動が問題であることを指摘し、小心者であることを自覚し、性格を改善する方法について提案しています。このような問題提起と解決策の提示は、読者に考えさせ、行動へのインスピレーションを与える役割を果たします。

良い道徳的メッセージ: エッセイは、小心者であることが攻撃的である必要はなく、同調し、弱者をサポートする価値を強調しています。このようなポジティブな道徳的メッセージは、読者にとって有益であり、共感を呼び起こすことができます。

総じて、このエッセイは、小心者と卑怯者について深く考えさせ、個人の性格と行動についての価値ある洞察を提供しています。著者の論理的なアプローチと良い道徳的メッセージは、読者にとって示唆に富む内容と言えるでしょう。
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写真・文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2023/11/5 12:00 am

こんなに多くの人たちが生きている・・・

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 熊本市内の花岡山山頂に車で上り、熊本市内を一望したことがあった。

 熊本市は政令都市として、九州では福岡市、北九州市に次ぐ3番目に大きな都市である。山頂から見た熊本市は、こんなにも多くのビルがニョキニョキと建っているのかと、目を疑ったことがあった。

 望遠レンズで、市内北側、東側、南側、そして阿蘇方面を撮影したが、大なり小なりのオフィスビル、マンション、アパート、そして間を埋めるように一戸建ての家々が無限に連鎖している。

 眼下の熊本駅も最近の都市開発により大型商業施設や官公庁などが集中し、以前とは比べものにならぬほど随分オシャレになった。

 オフィスビルの窓が無数に見える。そこには見知らぬ多くの人たちが生きていると思うと、気が遠くなるようで、眼前の光景が実感として湧いてこないのである。

 随分昔の話だが、この感覚と同様の光景を見たことがあった。新聞社時代の東京出張の時だった。羽田空港からモノレールに乗り、周囲のビルの窓には、見知らぬ人たちがランダムに動いている。

 お茶を飲んでいる人もいれば、上司に呼ばれて立ったまま話をしている人や、オフィスの台所で洗い物をしている人もいる。リアルタイムに窓に立つ人が、それぞれに生きている。

 多くの人たちが生きている。こんなに多くの人たちがあちこちのビル内で仕事をしている。色んな人たちと接点を持ちながら、生きるために仕事をしている。

 そんなこんなを考えていると、自分自身が胡麻粒のように思えたのであった。一人の人間として、色んな方々とお会いしたいが、熊本地震やコロナ禍により、ビジネススタイルが随分変わってしまった感がある。

 しかし、我々は生きて行かねばならない。知らない世界が圧倒的に多いのが短い人生だろうけれども、感動や感激を共有してくれる人たちとの接点を求めて前に進まなければ、きっと後悔するに違いない。

 人は生きている。昼間はコンクリートのビルの中で、そして夜はウサギ小屋のように小さな家の窓の中で・・・。

▼ChatGPTによる評価

このエッセイは、都市の景観や人々の生活についての洞察を共有する興味深い文章です。以下にいくつかの評価ポイントを示します。

観察力: 作者は熊本市の山頂からの眺めや、東京のビルからの眺めを通じて、周囲の景観について鮮やかな観察力を示しています。この観察力は読者に都市の変化と多様性について考えさせる役割を果たしています。

表現力: 作者は状況を生き生きと表現し、読者にビルの窓からの様々な人々の日常生活を感じさせます。例えば、ランダムな人々が窓に映る様子を描写することで、都市の喧騒をリアルに伝えています。

メッセージ: エッセイの中心メッセージは、都市での生活と多くの他の人々との接点の重要性についての洞察です。複数の人々がビル内で仕事をし、それぞれが生きている姿を見ることから、人間のつながりと共感の重要性に言及しています。

自己への洞察: 作者は、この多くの人々の中で自分自身を小さく感じると表現しており、謙虚さや感謝の念を読者に伝えています。

時事問題への触れ方: エッセイの最後で、熊本地震やコロナ禍に触れ、ビジネススタイルの変化について言及しています。これにより、時事問題への感受性と現実的な課題にも触れています。

総合的に、このエッセイは読者に都市生活と人間のつながりについて考えさせる素晴らしい文章であると言えます。作者の観察力と表現力が読者に強く訴え、最後には感謝の念と前進の必要性を強調しています。

▼花岡山より望む熊本市内
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  • posted by Chikao Nishida at 2023/11/1 12:00 am

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