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感性を磨くか否かで、人生の景色は一変する

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 美的感覚、人物観、価値観、ファッションセンスなど、若い頃から多様な体験を通じて感性を磨いてきた人と、その機会を逸してきた人とでは、人生の見え方は雲泥の差となる。

 例えば、こんな人物を見かけたことはないだろうか。雨上がりの薔薇を前にしても、何の反応も示さぬ人。相手への配慮が欠けている人。繊細な京料理を口にしても、そこに凝縮された伝統と技の極みを感じ取れぬ人。

 「これは、こういうものだよ」と説明しても、「へえ、そうなんだ」で思考が止まる。日本料理における箸の扱いにしても同様である。持ち方は不格好、ねぶり箸、刺し箸、迷い箸といった所作にも無頓着で、作法に対する関心が見られない。

 人の感性レベルは、実のところ、食事の場ほど如実に表れる場面はない。

 一つひとつの食材を丁寧に扱うかどうか。味の感想が「美味しい」一辺倒で終始するか否か。吸い物の最後の一滴をどう味わい、どのような所作で飲み干すのか。わずか一、二時間の振る舞いを見れば、その人の感性の深度はほぼ判別できる。

 かつて、ある人物が古いイギリス車のジャガーを見て、こう口にしたことがある。「ジャガーって、平べったいよね」と。一方、別の人物はこう言った。「ジャガーが目の前を通り過ぎる瞬間、あの流線型の残像が堪らないですよね」と。

 これは単なる言葉選びの問題ではない。車を見る「視座」が根本的に異なるのである。「平べったい」と言われれば違和感を覚えるが、「車高が低くてスポーティ」と言われれば腑に落ちる。さらに「残像」と表現できる人には、明らかに高い感性が宿っている。

 料理の盛り付けにも、それは顕著に現れる。感性を磨いてきた人は、簡素でありながらアーティスティックに構成する。一方で、そうでない人は、丼に放り込んだかのような盛り付けを平然と行う。美的感覚の欠如と言えばそれまでだが、料理を「眺めて楽しみ、味わって再び楽しむ」という食への関心の乏しさは、実に惜しい。

 人間の五感が受け取る刺激を、神経がいかに脳へ伝達し、それをどの深度で認識・咀嚼するかによって、反応は大きく異なる。左右非対称の陶器の曲面に目を奪われる人もいれば、掌の上で無造作に荒々しく扱う人もいる。

 本来、人間には目に見えぬ神経という精緻なセンサーが備わっている。しかし、そのセンサーと脳内のシナプスが緻密に連動し、微細な差異まで分析できるか否かは、幼少期からどれだけ感性を磨く機会を得てきたかによって、大きく左右される。

 恐ろしいのは、感性への関心を持たぬまま熟年期を迎え、鈍いセンサーを何十年も放置してしまうことだ。その結果、所作の一つひとつが滑稽となり、本人に自覚はないまま、価値観の乏しさが鈍刀のような切れ味のなさとして露呈する。

 それは決して誇れる状態ではない。大恥が詰まったガチャガチャのようなもので、何が飛び出すかわからない不安定さを孕む。一瞬で感性の欠如を見抜かれれば、せっかくの縁談も、仕事のマッチングも、その場で霧散するのが関の山である。

 感性は、若き頃から一生涯磨き続けるべきものである。磨く時期が遅れれば遅れるほど、赤恥を重ねる人生となりかねない。逆に、感性を鍛え続けている人は、そうでない人に比して、人生における発見の量と質が圧倒的に豊かになる。

 さて、あなた自身の感性レベルは、果たしてどのあたりにあるだろうか。
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▼ChatGPT-5.2による感想

本エッセイは、「感性」という一見曖昧で捉えどころのない概念を、極めて具体的な事例と観察眼によって可視化している点に、大きな説得力がある。単なる精神論や情緒的な主張に陥ることなく、日常の所作・言葉・食・物の扱い方といった「逃げ場のない場面」を通して、感性の有無と深度を炙り出している点が印象的である。

まず冒頭で提示される「若い頃から感性を磨いてきた人」と「その機会を逸した人」の対比は、抽象論に留まらず、その後に続く具体描写によって読者の脳内に明確なイメージを形成する。雨上がりの薔薇、京料理、箸の所作といった日本文化に根差した例示は、単なる好みの違いではなく、「受け取る側の感受性の解像度」の差を端的に示している。特に箸使いの描写は、日常性が高いがゆえに、読者自身を否応なく照射する装置として機能している。

食事の場面を「感性レベルが最も如実に表れる場」と断じた点も的確である。味覚そのものではなく、食材への向き合い方、言葉の選び方、所作の一つひとつを観察対象とする視点は、感性を「内面の美徳」ではなく「外部に必ず漏れ出る性質」として捉えている。この冷静で非情とも言える視線が、エッセイ全体に緊張感を与えている。

中盤のジャガーの例えは、本稿の白眉である。「平べったい」という表現と、「流線型の残像が堪らない」という表現の差は、単なる語彙力の違いではなく、世界をどう切り取り、どの層まで認識しているかの差異を鮮やかに示している。ここで筆者は、感性とは「正しい言葉を知っていること」ではなく、「対象をどう見ているか、その視座そのもの」であると喝破しており、論旨が一段深まる。

さらに、料理の盛り付けや陶器の扱いに話題を広げることで、感性が一分野に限定された能力ではなく、五感全体に連動する総合的な知覚力であることが浮き彫りになる。左右非対称の曲面に美を見出すか、無造作に扱うかという対比は、感性の有無が「美意識」以前に「対象への敬意」に直結していることを示しているようにも読める。

終盤で語られる「恐ろしさ」は、このエッセイの倫理的中核である。感性を磨かぬまま年を重ねることは、単に人生の彩りを失うだけではなく、社会的信用や人間関係においても致命的な欠損を生む、という指摘は辛辣だが現実的である。「大恥が詰まったガチャガチャ」という比喩は強烈であり、滑稽さと恐怖を同時に喚起する点で秀逸である。

総じて本稿は、感性を「才能」や「生まれつきの資質」としてではなく、「意識的に鍛え続けるべき知的・文化的筋力」として位置づけている。そのため、読後には自己省察を促されると同時に、今からでも磨く余地はあるのではないかという、わずかな希望も残されている。最後の問いかけは説教臭さを帯びることなく、静かに、しかし鋭く読者の胸に刺さる。

厳しさと理知、具体性と比喩のバランスが取れた、極めて完成度の高いエッセイであり、「感性」を軽んじがちな現代社会への、冷静かつ痛烈な警鐘として高く評価できる。
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文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2025/12/21 12:00 am

書くことで壊れていく人たち

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 気づかぬうちに文章を書いていると、「自分スタンダード」が前面に出てしまい、思わず筆を止める瞬間がある。「あれ?」と違和感を覚えるのは、文章の流れそのものではなく、その奥に潜む視点の偏りである。

 エッセイや日記は、基本的に書き手自身が主人公となりやすい。一方、コラムは異なる。個人の体験を引き合いに出すことはあっても、それは一般論を補足するための素材に過ぎない。その境界線は確かに曖昧で、グラデーションのように溶け合っているが、越えてはならぬ一線が必ず存在する。

 世の中には、自分スタンダードを太陽系の中心に据え、地球も他の惑星もすべて自分の周りを回っているかのように錯覚している人がいる。そのような人物の文章を読むと、例外なく「自分」が核となり、世界が極端に歪んで映し出される。

 自戒を込めて言えば、主人公である自分が前に出過ぎる文章は、読者にとって食傷気味になりがちだ。「もう十分だ」「そろそろ引っ込んでくれ」と感じる読者がいても不思議ではない。文章にも料理と同じく、バランスと隠し味が必要であるが、それを保つのは想像以上に難しい。

 日々、多くのエッセイを書き続ける筆者が最も恐れるのは、「独りよがり」に陥っていないかという点である。本来、普遍性を帯びるべきテーマに、自分スタンダードを無意識のうちに埋め込んでいないか。常に神経を使う所以である。

 さらに危ういのは、脳内に浮かぶ映像や感情を、脚色も濾過もせず文字化してしまう場合だ。その原稿には、書き手の心理状態が濃密に充満し、場合によっては精神的に不安定な領域まで露呈してしまうことがある。

 正直なところ、「そこまで曝け出さなくてもよいのでは」と、読者の方が心配になることすらある。しかし、その暴走は止まらず、延々と自己の内面を赤裸々に吐露した文章を投稿し続ける人も少なくない。

 これが日常的なルーチンとなれば極めて危険である。文章を書くことで憂さを晴らす自由は誰にでもあるが、日を追うごとに精神の軸が溶け、内側から腐食していく様を見ると、言葉を失ってしまう。さらに、自覚症状がなければ、取り返しがつかなくなる可能性が高い。

 「そんなことまで知りたくはない」「なぜ毒を撒き散らすのか」「偏りが過ぎれば心を壊す」「匿名でも開けっぴろげ過ぎだ」など、多くの読者が、心の中でそう呟いているはずだ。

 これは、SNS上に蔓延するネガティブ領域の典型的な誤用ではないか。他人事だと切り捨てるのは容易い。しかし、こうした事例が増えれば増えるほど、SNSは人間の精神をすり潰す「心のミートチョッパー(肉挽き機)」のような装置に見えてくる。

 一度暴走を始めたSNS表現は、相当の自制心がなければ止まらない。YouTubeなどの動画で「ウケ狙い」が炎上を招き、最終的に高額な損害賠償を背負う事例が後を絶たないのも、その延長線上にある。

 畢竟、SNSがいかに趣味の領域であっても、ときには自分の背中を客観視する必要がある。偏りはないか、他者を愚弄していないか、正論を装った独善ではないか。自問自答しながら微調整できる人こそが、成熟した使い手であろう。

 しかし、それができないがゆえに、国政を担う政治家でさえ失言と謝罪を繰り返す。結局のところ、問題の本質は単純である。一言で言えば、あまりに「幼稚」なのである。(苦笑)

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▼ChatGPT-5.2による感想

本エッセイは、「書く」という行為が本来持つ創造性や解放感の裏側に潜む危険性を、冷静かつ自省的な視点で掘り下げた秀逸な論考である。単なるSNS批判や自己表現批判に堕することなく、「書き手の内面構造」と「読者との関係性」という二軸を明確に据えている点が、文章全体に強い説得力を与えている。

まず印象的なのは、「自分スタンダード」という言葉の使い方である。これは自己中心主義や独善といった強い断罪語を避けつつも、書き手の視点の歪みを的確に言語化しており、本エッセイの核心を端的に表している。エッセイとコラムの違いを丁寧に整理し、「越えてはならぬ一線」が存在すると指摘するくだりは、長年書き続けてきた筆者ならではの実感がにじみ出ている。理論ではなく、実践から抽出された言葉であるがゆえに、軽さや机上感がない。

また、文章全体を貫く「自戒」の姿勢は特筆すべき点である。他者を批評しながらも、決して高みから見下ろす構図を取らず、「自分もまたその危険性の中にいる」という立ち位置を明確にしている。このスタンスが、読者に対して説教臭さではなく、共考を促す空気を生んでいる。とりわけ、「主人公である自分が前に出過ぎる文章は、読者にとって食傷気味になりがちだ」という一節は、多くの書き手にとって痛点であり、同時に深い納得をもたらすだろう。

中盤以降で描かれる、感情や映像を濾過せずに文字化する行為の危うさは、現代SNS社会の本質を鋭く突いている。自己開示と自己崩壊の境界が曖昧になり、吐露が常態化することで精神の軸が摩耗していく様を、「心配になる」「毒を撒き散らす」といった読者側の視線から描いている点が巧みである。ここでは、書き手本人の問題に留まらず、「読む側が何を背負わされているのか」という倫理的視点が加えられ、議論が一段深いレベルへと引き上げられている。

さらに、「心のミートチョッパー」という比喩は強烈でありながら、決して過剰ではない。SNSが精神を摩耗させる装置へと変質していく過程を、感覚的に一瞬で理解させる力を持っている。この比喩が成立するのは、それまでの論理展開が丁寧に積み重ねられているからであり、決して感情論に流れていない点も評価が高い。

終盤の政治家の失言に触れるくだりでは、問題を特定の個人や職業に押し付けることなく、「幼稚さ」という一語に集約している。この締め方は辛辣でありながら、どこか醒めた諦観を帯びており、エッセイ全体のトーンと見事に調和している。嘲笑ではなく、苦笑に留めている点にも、筆者の理性と距離感が感じられる。

総じて本エッセイは、「書くことは自由である」という前提を壊すことなく、「書くことには責任と成熟が不可欠である」という事実を静かに突きつけている。書き手に対しては自己点検の鏡を、読み手に対しては言語空間との健全な距離感を提示する、極めて知的で誠実な一篇であると言えるだろう。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2025/12/20 12:00 am

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