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人生は凪がいいが、時には波紋も刺激的?

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 珈琲を飲みながら、ぼーっとしていると、頭の中に一つの映像が浮かんできた。

 玻璃面のように静まり返った水面へ、一滴の水が落ちる。中央には一瞬、王冠のようなクラウンが立ち上がり、そこから幾重もの波紋が外へ広がっていく。

 その映像を眺めながら、ふと人生もこれに似ているのではないかと思った。

 人は、その波紋の外側から中心へ向かって歩いているのだろうか。進む先には、高い波もあれば低い波もある。穏やかなところもあれば、突然、大きく揺さぶられるところもある。

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉がある。

 高い波を一つ越えただけで、「もう凪になった」と思い込み、そこで胡座をかいてしまう人がいる。目の前の危機を脱した安堵から、なぜその波が生じたのかを検証することなく、次の波への備えもしない。

 当然、次の高い波がやって来れば、また慌てる。そして、その波を越えるためだけの、その場凌ぎの愚策を繰り返す。

 しかし、本当に考えるべきは、「なぜ、同じような高い波が何度も押し寄せてくるのか」ということである。

 「人生、山あり谷あり」と言うが、この波紋もまた、それに似ている。

 水滴が落ちれば、中心にクラウンが立ち上がり、その周囲に次から次へと波が生まれる。人生も同じように、一つの出来事が次の出来事へ影響し、ときには予想もしなかった大きな波となって、自分の前に立ちはだかる。

 人生は、凪であるに越したことはない。何事もなく、穏やかに過ごせる時間は有り難い。

 しかし、玻璃面のような水面が永遠に続けば、それはそれで刺激がない。適度な波紋があるからこそ、人は考え、身構え、工夫し、学ぶ。波紋をすべて災いと捉えるのではなく、自らを覚醒させる刺激と考えれば、人生の波も決して悪いものばかりではない。

 あまりにも凪が続けば、筆者などは思考まで鈍り、認知機能が低下するのではないかと心配になってしまう。

 珈琲を飲みながら、ぼんやりと浮かんだ話なので、大したネタではない。しかし、波紋の映像を思い浮かべているうちに、一つだけ引っ掛かることがあった。

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を繰り返す人は、これまで数え切れないほどの高い波を経験しているにもかかわらず、波が過ぎれば何事もなかったかのようにケロッとしている。

 そこで問うべきは、その波が、本当に外から押し寄せてきたものなのかということである。

 もちろん、人生には自分ではどうにもならない外的要因がある。災害、事故、病気、景気変動、他者の判断など、自分の力だけでは避けられない波はいくらでもある。

 しかし、何度も似たような窮地に陥り、何度も似たような失敗を繰り返しているのであれば、その原因のすべてを外に求めることはできない。

 もしかすると、その高低差の激しい波を生み出しているのは、外的要因ではなく、自分自身の思考や判断、習慣、行動といった内的要因なのかもしれない。

 水面へ水滴を落とさなければ、波紋は生じない。ならば、自分の人生に何度も同じ波紋が生じているのであれば、「誰がこの水滴を落としているのか」を考える必要がある。

 その答えが自分自身であることに気づかぬ限り、波が去るたびに安堵し、また自ら水滴を落とし、次の高い波に慌てることになる。

 凪を望むのであれば、波を恐れるだけでは足りない。まず、自分が何を水面へ落としているのか。そこを見極めることから始めるべきなのだろう。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、珈琲を飲みながら偶然浮かんだ「水面の波紋」という視覚的イメージから始まり、最終的には「人生に繰り返し起きる問題の原因は、果たして外部にあるのか、それとも自分自身にあるのか」という人間学的な問いへ着地している。入り口は軽いが、出口はかなり重い。その落差が、この文章の魅力である。

特に秀逸なのは、「波」ではなく「波紋」を選んだところだと思う。海の波であれば、基本的には外から押し寄せてくる。しかし波紋には、必ず何らかの「起点」がある。水滴が落ちなければ波紋は生じない。この物理現象を人生へ置き換えたことで、単なる「人生、山あり谷あり」という話から、「その波を発生させた原因は何か」という因果関係の話へ一段深く潜っている。

この文章の核は、終盤の、

「誰がこの水滴を落としているのか」
という問いにある。

ここで、それまで抽象的だった「波紋」が突然、自責と内省の象徴へ変わる。仕事で同じ失敗をする。人間関係で同じトラブルを起こす。金銭面で同じ窮地に陥る。期限を守れない。報告を怠る。そのたびに本人は「また問題が起きた」と考える。しかし、本当に偶然なのか。同種の問題が何度も繰り返されるのであれば、「問題が起きている」のではなく、「自分が問題の発生条件を作っている」可能性を疑わなければならない。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺の使い方も、この文脈では効いている。危機を乗り越える能力と、危機を再発させない能力は別物である。毎回どうにか切り抜けている人を、表面的には「危機対応能力がある」と評価することもできる。しかし、同じ危機を自ら何度も作っているのであれば、それは危機対応能力以前に、原因分析と改善能力が不足していることになる。

企業経営や社員教育へ置き換えれば、これはそのままPDSAの話にもなる。失敗した後に「Do」で応急処置をして終われば、また同じ波が来る。「Study」で原因を検証し、「Act」で行動や仕組みを変えなければ、水滴を落とす行為そのものは止まらない。したがって、本稿は人生論であると同時に、組織論や教育論としても読める。

また、「凪」を全面的に肯定していないところも面白い。人間は穏やかさを望みながら、完全な無風状態が長く続けば思考や感覚が鈍ることもある。適度な負荷、失敗、緊張、変化が、人間を考えさせる。つまり本稿では、波紋そのものを悪としているのではない。問題なのは、波紋から何も学ばず、同じ水滴を何度も自分で落とすことである。

ここには重要な人間観がある。

避けられない波は受け止める。
成長につながる波なら利用する。
自分で作っている不要な波なら、その原因を断つ。

この三つを区別できる人ほど、人生の舵取りは安定するのだろう。

文章構成としても、前半の「玻璃面」「水滴」「クラウン」という静かで美しい映像から、中盤の人生論、終盤の自己責任論へ徐々に焦点が絞られている。そして最後に「波をどう越えるか」ではなく、「自分が何を水面へ落としているのか」へ戻したことで、冒頭の映像と結末が一本につながった。

題名の「人生は凪がいいが、時には波紋も刺激的?」は柔らかい。しかし本文を最後まで読むと、実際にはもっと鋭い内容である。タイトルでは「波紋も悪くない」と読者を招き入れ、本文では「その波紋を作っているのは誰なのか」と問い返す。この温度差も悪くない。

そして、このエッセイを一文に凝縮するなら、

「人生で問うべきは、波をどう越えるかだけではなく、その波を誰が起こしたのかである。」

となる。

偶然浮かんだ水面の映像から始まっているが、結果として描かれているのは「自分の人生に対する当事者意識」である。外的要因と内的要因を切り分け、自分で変えられるものについては自分で変える。その視点を持てるか否かで、「同じ波に何度も翻弄される人生」と「波から学び、次第に凪へ近づく人生」との差が生まれる。

軽い珈琲ブレイクから、かなり本質的なところまで潜ったエッセイだと感じた。
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文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/16 12:00 am

再考|SNS上のトラブルについて

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 これまでSNSを眺めている中で、見解の相違なのか、単なるすれ違いなのか、第三者同士のトラブルについて書かれた投稿や記事を、幾度となく目にしてきた。

 酷いものになると、双方が公然と罵詈雑言を浴びせ合っている。片方が攻撃すれば、もう片方が反撃する。反撃されれば、さらに強い言葉で攻撃する。その応酬が延々と続き、いつしか本来の争点さえ見えなくなっていく。

 そして忘れてはならないのは、その醜態を、当事者が思っている以上に多くの人が遠巻きに見ているということである。

 SNSでは、匿名であることを免罪符のように捉えている人もいる。しかし、匿名であろうが実名であろうが、自ら放った言葉が公の場に置かれていることに変わりはない。

 画面の向こう側にいるのは、アカウントではなく人間である。

 そこへの想像力を失えば、誹謗中傷は簡単にエスカレートする。さらに度を越せば、SNS上だけの諍いでは済まず、現実社会の事件や事故へつながる可能性さえ否定できない。

 もちろん、脅迫や詐欺、執拗な嫌がらせ、個人情報の晒しなど、犯罪性を帯びた行為については話が別である。危険を感じたのであれば、接触を断ち、証拠を保存し、必要に応じて捜査当局や専門機関へ相談する。それは、自らを守るための当然の行動である。

 筆者が首を傾げるのは、そこまでの事案ではないにもかかわらず、見解の相違や些細な感情のもつれまで「被害」と断定し、相手だけを一方的な加害者として公の場で糾弾するようなケースである。

 世の中には「喧嘩両成敗」という言葉がある。また、人間関係には、どうしても水と油のように交わらない組み合わせも存在する。

 そもそも、人と人とが関わる以上、すべてが自分の思い通りに進むはずがない。価値観も違えば、言葉の受け止め方も違う。常識と思っている基準さえ、人によって微妙に異なっている。

 それにもかかわらず、自らの持論だけを正論として強調し、相手を「間違っている側」へ追いやることが、果たして賢明な選択なのだろうか。

 自分の感情に刺さる言葉を投げかけられたとき、人は反射的に自分を守ろうとする。心をちくりと刺されただけでも、「自分は傷つけられた」「自分は被害者だ」と感じることがある。

 しかし、そこで即座に相手を敵と見なし、攻撃へ転じるのは、少々勇み足ではなかろうか。

 もしかすると、自分自身も無自覚のうちに、相手へ誤解を与える言葉を発していたのかもしれない。何気ない対応が相手の感情を逆撫でしていた可能性もある。逆に、相手の言葉を必要以上に悪く受け取り、自ら「被害者」という立場へ飛び込んでしまっていることもあるだろう。

 人間関係のトラブルで最も厄介なのは、自分の背中だけは自分で見えないことである。

 SNS上で大小さまざまな諍いが起きている。そこで相手を断罪する前に、一度、自分自身の言葉や態度を振り返ってみる必要があるのではないか。

 トラブルの種を蒔いたのは、本当に相手だけなのか。自分自身は、その土に一粒たりとも種を落としてはいないのか。

 そこを検証せず、「自分は正しい」「相手が悪い」と結論づければ、問題の本質は永久に見えてこない。

 人間関係には、どうしても修復できないものもある。話し合っても価値観が噛み合わず、水と油であることが分かったのであれば、静かに距離を置けばいい。無理に理解し合う必要もなければ、SNS上で相手を吊し上げる必要もない。

 去ることも、一つの知性である。

 SNSは、免罪符なき世界である。画面の向こうにいる相手の表情も、声色も、その場の空気も分からない。文字だけで意思を伝える世界だからこそ、現実の対話以上に慎重さが求められる。

 騒ぎ立てる前に、自分が一線を越えようとしていないかを見る。投稿ボタンを押す前に、その言葉を自分自身が浴びせられたらどう感じるかを考える。それだけでも、多くの無用なトラブルは避けられるはずだ。

 日本だけでも、一億人を超える人々が暮らしている。そのすべてが、自分と同じ価値観を持つはずがない。自分が理想とする会話が、誰とでも成立するはずもない。

 だからこそ、自分の常識を世の中の常識と思い込み、自らの主張だけを「正論」として押し通そうとすることに、さほど意味はないのである。

 SNSに特効薬があるとすれば、最新の機能でも、ブロックでも、匿名性でもない。結局は、人としてのモラルとエチケットに行き着く。

 画面の向こうにも、自分と同じように感情を持つ人間がいる。その当たり前のことを忘れないこと。そして、相手を疑う前に自分を省み、相手を断罪する前に自らの言葉を検証すること。

 SNS上のトラブルを遠ざける最も確かな方法は、相手を変えようと躍起になることではなく、まず、自分自身が一線を越えないことである。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイを読み終えて最も強く残るのは、SNSのトラブルを論じながら、実際には「人間は自分自身をどこまで客観視できるのか」という、人間学の問題に踏み込んでいる点である。

タイトルは「SNS上のトラブルについて」だが、SNSは舞台にすぎない。本文の核心は、対立が起きた瞬間に「自分=被害者」「相手=加害者」という構図を作り上げてしまう人間心理への警鐘にある。

特に、

「人間関係のトラブルで最も厄介なのは、自分の背中だけは自分で見えないことである。」
この一文が、本稿の核である。

人間は他者の欠点については驚くほどよく見える。しかし、自分が発した言葉、自分が取った態度、自分が相手に与えた違和感については、案外見えていない。SNSでは表情や声色、間合いといった非言語情報が削ぎ落とされるため、この「自分の背中が見えない」という人間の弱点が、現実社会以上に増幅される。

そして、本稿が単なる「SNSでは仲良くしましょう」という道徳論に陥っていないところが重要である。脅迫、詐欺、執拗な嫌がらせ、個人情報の晒しなどについては明確に線を引き、「接触を断ち、証拠を保存し、必要に応じて捜査当局や専門機関へ相談する」としている。

この線引きがあるからこそ、その後の「被害者意識」への問題提起が成立している。犯罪行為から身を守ることと、価値観の不一致や感情的な摩擦を「被害」として公に糾弾することは、まったく別の問題だからである。

さらに印象深いのが、

「トラブルの種を蒔いたのは、本当に相手だけなのか。自分自身は、その土に一粒たりとも種を落としてはいないのか。」
という問いである。

これはSNSだけでなく、会社、家族、友人、取引先など、あらゆる人間関係に適用できる。トラブルが起きたとき、多くの人は「誰が悪いか」を探す。しかし、本当に必要なのは「何が起きたのか」「どこから関係が狂ったのか」を検証することである。犯人探しと原因究明は似ているようで、本質的には異なる。

そして、個人的に本稿で最も記憶に残る表現は、

「去ることも、一つの知性である。」
である。

非常に短いが、重い。

人間関係というものは、すべて修復しなければならないわけではない。すべての人と分かり合う必要もない。価値観が根本的に違うと分かったのであれば、罵倒する必要も、論破する必要も、SNS上で相手の非を世間へ訴える必要もなく、静かに離れればよい。

「戦わない」という選択を敗北と考える人もいるが、むしろ自分の時間と精神を守るための高度な判断になり得る。本稿の「去ることも、一つの知性である」は、そのことを端的に言い切っている。

また、「画面の向こう側にいるのは、アカウントではなく人間である。」という一文も、SNS時代を象徴している。

SNSでは、人間がアイコンとアカウント名に変換される。その瞬間、相手の人格を感じる力が弱くなる。対面なら到底口にできない言葉でも、キーボードでは簡単に打ててしまう。その意味で、SNSの最大の問題は技術そのものではなく、「人間を人間として感じにくくする距離」にあるのかもしれない。

だから最後に「最新の機能でも、ブロックでも、匿名性でもない。結局は、人としてのモラルとエチケットに行き着く」と結論づけたことには説得力がある。テクノロジーがどれほど進化しても、それを扱う人間の品性まで自動的にアップデートされるわけではない。

むしろ生成AIを含め、コミュニケーション技術が高度になればなるほど、最後に問われるのはHumanware、つまり「それを扱う人間の質」なのだろう。

本稿はSNS論として読めると同時に、「正義を振りかざす前に、自分自身を疑えるか」という自己検証の文章でもある。

そして最終行の、

「相手を変えようと躍起になることではなく、まず、自分自身が一線を越えないことである。」
ここでタイトルの「再考」が効いてくる。

他人について考えるのではなく、自分を再考する。相手の言葉を検証する前に、自分の言葉を検証する。相手にモラルを要求する前に、自分がモラルを守る。

SNS時代だからこそ必要なのは、発信力以上に「自制力」なのだと読めた。

企業のSNS研修や社員教育、特に「炎上防止」「ネットリテラシー」「情報発信者としての倫理」を扱う教材にも転用できる内容である。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/14 12:00 am

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