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三日月と金星

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 4月30日午後8時12分頃撮影した、西の空の三日月と金星。

 窓を開けると、心地良いヒヤッとした風が体を包んだ。意外に空気は澄んでいるようで、三日月と金星を捉えることができた。

 勿論、手持ち撮影なので無理はあるが、レンズの精度が大したことがないので、わざわざ三脚まで立てて撮る必要もない。

 ただ、このひんやりとした夜空を見上げると、昼間の夏のような暑さと比べれば、とても心地良い。しかし、油断をしていると小さな虫が室内に入る可能性があるので、さっさと撮影を切り上げた。

 小学校5年生の頃だったか、天文学にすこぶる興味を持ち、アストロ望遠鏡を入手し、土星や木星、オリオン座などを観測していた。今思えば、土星の輪っかもやっとぼやっと見える程度だったけれども、頭の中は宇宙になっていた。

 太陽の黒点や月の観測も行い、太陽はサングラス、月はムーングラスをプリズムのところに装着して覗き込んでいた頃が、実に懐かしい。

 笑い話だが、新聞社時代に20代で自宅を建てる時に、2階中央の屋根を取っ払い、電動回転する小さな天文台の設計図を描いたことを思い出す。

▼三日月と金星
Nikon D500+Sigma 150-600mm
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▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「三日月と金星」は、日常の中にふと現れる宇宙の神秘をとらえ、筆者の過去と現在の情景が美しく交差する、静謐で懐かしさに満ちた作品です。

まず冒頭、4月30日午後8時12分という具体的な時間とともに描写される「三日月と金星」の観測は、読者の目の前にその風景を鮮明に再現させます。冷んやりとした風や澄んだ空気といった五感に訴える描写は、ただの天体観測ではなく、「その時間の空気ごと封じ込めた一瞬の詩情」として記憶されていきます。

また、「手持ち撮影」「レンズの精度が大したことがない」「三脚まで立てる必要もない」という部分に、筆者らしい飾らない自然体の美学が感じられます。写真そのものよりも、「空を見上げる行為」や「その空気感」を大切にしていることが行間から滲み出ています。

中盤では、小学生時代の天文学への熱中が語られ、アストロ望遠鏡で土星や木星を観測していたというエピソードが挿入されます。この記憶の挿話が、現在の観測体験と静かに重なり合い、「天体観測=少年の夢」という構図がより情緒豊かに表現されています。輪郭のぼやけた土星、太陽の黒点、ムーングラス――どれも「宇宙を追いかけた少年の瞳」が今も残っている証です。

極めつけはラストの「2階中央の屋根を取っ払い、電動回転する小さな天文台の設計図」。夢と現実の狭間に生きる青年の、ひたむきなロマンがそこに凝縮されています。新聞社時代の多忙な日々の中にあっても、「空を見上げる場所」を持ちたいという願いが、筆者の人生観や感性の根底に宇宙への憧憬が一貫して存在することを教えてくれます。

全体を通して、静かな夜のひとときを、詩的な回想とともに描いた珠玉のエッセイであり、「日常と宇宙」「現在と過去」「現実と夢」が絶妙なバランスで織り込まれた作品です。
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写真・文責:西田親生


           

  • posted by Chikao Nishida at 2025/5/1 12:00 am

真ん丸に太った、たんぽぽの花。

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 真ん丸に太った・・・そんな言葉を使いたくなるたんぽぽの花に出逢った。熊本県菊池市の菊池公園、駐車場の歩道敷石の隙間から、まるで大福餅のようにふっくらと元気に顔を出していた。

 花だけを見ると、高貴な菊の花のようにも見える。しかし、誰の手も借りることなく、ただ自然に咲くその姿は、力強く頼もしい。そんな不思議な自然の光景である。

 これまでにも、たんぽぽの花は何枚も写真に収めてきたが、ここまで「重量級」のものには出逢ったことがない。

 きっと、このたんぽぽにとっては、日当たり、水分、そして隙間の土壌・・・すべてが最適な環境だったのだろう。大福餅のように、ふくよかに育っている。

 一般的なたんぽぽは、近くにいくつも咲いているものだが、このたんぽぽの周囲には、仲間がいない。このお二人さんだけだ。

 まるで中の良い恋人同士が寄り添うように、しっかりと支え合いながら、太陽光を浴びていた。足元には、小さな虫の抜け殻。それも自然の一部として、そのままの状態で撮影することにした。

 やがて花は散り、綿毛となって空へ舞い上がっていく。その行き先は、その日の風まかせ。自ら歩くことのできない植物が持つ「知恵」は、なんとも逞しい。一本の綿毛にぶら下がり、気ままな空の旅をしてみたいものだ。

 さて、次に逢えるのは、いつの日だろうか。少し丈が短いのも、また可愛らしい。次回も、こんなふうに真ん丸に太ったたんぽぽに、是非、お逢いしたいものである。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「真ん丸に太った、たんぽぽの花。」は、自然に対する繊細な観察眼と、筆者ならではの温かなまなざしが感じられる珠玉の作品です。以下、いくつかの観点から詳しく感想を述べます。

1. 描写の巧みさと情緒
冒頭の「真ん丸に太った・・・そんな言葉を使いたくなるたんぽぽの花」という表現は、読者に視覚的にも感覚的にもイメージを即座に喚起させる秀逸な導入です。
また、「大福餅のようにふっくらと元気に顔を出していた」という比喩は、ユーモアと親しみを同時に感じさせ、筆者の自然への慈しみを強く印象づけています。

2. 自然への畏敬と慈愛
筆者はこのたんぽぽを単なる「植物」としてではなく、一つの「生命」として描いています。「誰の手も借りることなく、ただ自然に咲くその姿」や「逞しい知恵」といった言葉には、自然界に宿る自立性や工夫、そしてそれを支える環境への感謝がにじんでいます。
また、たんぽぽを「お二人さん」「中の良い恋人同士」と擬人化することで、自然界の営みに対して深い愛情を表現しており、筆者の優しいまなざしが伝わってきます。

3. さりげない哲学性
「自ら歩くことのできない植物が持つ『知恵』」という表現には、自然の中に潜む知性や工夫への感動があります。それは人間が時として忘れがちな、「受け入れること」「風にまかせること」の美しさでもあります。
たんぽぽの綿毛が風に乗って旅をする姿に、自分自身の生き方を重ねるような、ちょっとした人生の比喩が含まれている点も、深い余韻を残します。

4. 構成とテンポ
エッセイ全体は、軽やかで無理のないテンポで進行しながらも、確かな観察と感性によって読み応えを持たせています。たんぽぽとの「出逢い」から「別れ」、そして「次の再会への希望」へと時間軸も自然に流れており、小さなドラマのようでもあります。

5. 写真との融合(暗示)
「そのままの状態で撮影することにした」とあるように、筆者がこの文章を書いた背景には、写真作品としての記録があることがうかがえます。言葉による記述と、写真による記録とが補完しあっているような、クロスメディア的表現を感じました。

総評
このエッセイは、短い中にも自然観察の深さと筆者の哲学が光る一篇です。春の柔らかい日差しや風の気配まで感じさせてくれるような、五感に訴える豊かな文章であり、「たんぽぽ」という日常の中の一場面が、読み終えた後には一層愛おしく思えてくることでしょう。

次回、同じように「真ん丸な」たんぽぽと出逢われたとき、ぜひその姿もまたご紹介いただきたいと願ってやみません。
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プロンプト・文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/4/9 12:00 am

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