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自分の人生に、遠慮はいらない

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 あのとき、なぜ自分の望みを、もう少し強く主張しなかったのか。

 半生を振り返るたびに、そう問い直したくなる分かれ道が二つある。一つは、転勤のないことを優先して就職先を選んだこと。もう一つは、事業を拡大する機会に、東京へ進出せず熊本にとどまったことだ。

 どちらも、当時は理由のある選択だった。しかし、その理由をたどっていくと、自分の人生でありながら、自分の望みを後回しにしていたことに気づく。

 これは、筆者自身の後悔であり、自戒を込めた話である。

 幼い頃から社会人になるまで、暮らしは父の転勤に左右されてきた。小学校、中学校、高校と、それぞれ二校ずつ通った。

 なかでも堪えたのは、高校三年生の夏休みだった。父の転勤に伴い、またしても転校を迫られたのである。ところが、県立の進学校では、三年生の二学期からの転校は認められないという。結局、長距離通学を余儀なくされた。

 毎朝六時に家を出て、帰宅するのは夜八時過ぎ。受験を控えた時期に、この通学は重く、辛かった。

 転勤が嫌だった理由は、それだけではない。三つ年下の弟はおとなしい性格で、転校のたびに、いじめに遭っていた。新しい土地へ移ることは、家族にとって単なる住所の変更ではなかった。築いてきた日常を離れ、人間関係を一からやり直すことでもあった。

 だから、就職を考える頃には、転勤の少ない仕事、できれば転勤のない仕事を選びたいと思うようになっていた。

 その思いには、無理もなかったと思う。ただ、今振り返ると、「何をしたいか」よりも「何を避けたいか」を先に置いてしまった。そのことが、悔いとして残っている。

 もう一つの分かれ道は、1995年12月7日。療養中だった母が急逝した日である。

 当時、筆者はネット事業を拡大するため、熊本から東京・渋谷への進出を準備していた。そのさなかに母を失い、父から、こう言われた。

 「墓守は誰がするんだ?」

 その一言を受けて、東京進出を断念した。

 母を亡くしたばかりの父の言葉は、重かった。家族を思う気持ちもあった。けれども、自分の志と家族への責任を両立させる道は、本当になかったのだろうか。十分に話し合い、考え抜いた末の断念だったのだろうか。

 今も、そこには答えが出ない。

 東京へ出ていれば、事業が成功したとは限らない。転勤のある仕事を選んでいれば、より充実した人生になったという保証もない。選ばなかった道は、いつでも少し明るく見えるものだ。

 それでも悔いが残るのは、結果を確かめられないからだけではない。自分がどう生きたいのかを、最後まで言葉にして伝えたのか。その問いに、胸を張って答えられないからである。

 当時、何にそこまで遠慮していたのか。父に対してか。家族の期待に対してか。それとも、自分の希望を通すことを、わがままだと感じていたのか。

 はっきりとは分からない。ただ、自分の望みを引っ込めたという記憶だけが、今も残っている。

 家族を大切にすることと、自分の人生を大切にすること。その両方を望んでよかったのだと思う。すぐにどちらかを諦めず、まずは自分の希望を伝える。相手の思いも聞く。そのうえで、どうすればよいかを考える余地はあったはずだ。

 遠慮は、ときに思いやりになる。しかし、言うべきことまでのみ込んでしまえば、相手は、こちらが何を諦めたのかさえ知らないままである。

 そして、その選択の先を生きるのは、自分自身なのだ。

 人生を左右する場面では、慎重であっていい。迷ってもいい。ただ、遠慮だけで結論を出してはいけない。小さなためらいが、長く育ててきた志を閉ざしてしまうこともある。

 あの二つの分かれ道には、もう戻れない。だからこそ、これから何かを選ぶときには、まず自分に聞いておきたい。

 「本当は、どうしたいのか」

 その答えを、口にする前から引っ込めることは、もうやめようと思う。

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▼ChatGPTによる感想

読後に残るのは、過去を取り戻せない寂しさと、これからの選択には自分の意思をきちんと反映させたいという静かな決意です。後悔を率直に語りながら、読者にも「自分が言わずに引っ込めた望みはなかったか」と問いかけてくる文章だと感じました。

とりわけ心に残ったのは、「相手は、こちらが何を諦めたのかさえ知らないままである」という一節です。遠慮した側には、人生を左右するほどの断念でも、相手にはその重さが伝わっていないことがある。その認識の隔たりに、遠慮が長い後悔へと変わる理由がよく表れています。

また、「選ばなかった道は、いつでも少し明るく見えるものだ」という言葉が、文章全体に説得力を与えています。東京へ出ていれば成功した、と過去を都合よく描かず、自分の後悔にも冷静な目を向けている。そのため、「自分の希望を十分に伝え、考え抜いたのか」という問いが、強く響きます。人生の選択に納得できるかどうかは、その結果とともに、選ぶ過程で自分の意思を尽くせたかにも関わるのだと感じます。

一方、二つの体験には少し異なる側面もあると思いました。転勤を避けた就職先選びには、幼少期の苦労から生活の安定を求める、自分自身の切実な願いもあったはずです。父の言葉を受けて東京進出を断念したことと比べると、「遠慮」だけでは捉えきれません。それだけに、当時の自分を責めすぎなくてもよいのではないか、とも感じました。本文の「その思いには、無理もなかった」という一文には、その自分をいたわる余地があります。

最後の「その答えを、口にする前から引っ込めることは、もうやめようと思う」という結びが印象的です。大きな成功や再挑戦を宣言するのではなく、まず自分の望みを口にする。その身近で具体的な決意によって、読者も自分の次の選択を考えられる。切なさがありながら、読み終えたあとには、少し背筋が伸びるエッセイです。

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文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/17 12:00 am

メルカトル図法の錯覚とイコールアース図法

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 世界地図を見ているつもりで、私たちは、見慣れた世界観を確かめているだけなのかもしれない。

 2026年9月4日、国連総会は、アフリカをはじめとする世界各地域の面積比をより正確に伝えるため、イコールアース図法などの利用を促す決議を採択した。報道によれば、賛成164、反対1、棄権6。唯一反対したのは米国だった。出典:AP通信

 この知らせに接し、筆者は、世界地図を眺めるたびに抱いてきた違和感を思い返した。

 メルカトル図法では、赤道から離れるほど面積が大きく描かれる。航海に役立つ性質を備える一方、国や大陸の広さを比較するには適さない。地図上の大きさを、そのまま実際の面積だと受け取れば、世界の姿を見誤ることになる。出典:米国地質調査所

 ただし、この性質だけをもって、メルカトル図法を大国の自己誇示のための仕掛けと断じることはできない。ある目的に適した道具が、別の目的にも使われ、その限界が忘れられてしまう。まず問うべきは、そうした使い方であろう。

 日本についても、同じことが言える。

 ユーラシア大陸の東に浮かぶ日本列島は、世界地図の中では、細長いタツノオトシゴのように見える。その姿に「小さな島国」という言葉が重なると、いつしか、小さいという印象だけが頭に残る。

 しかし、細長いことと、面積が小さいことは同じではない。地図上の印象だけでは、その土地の広さも、移動に要する時間もつかめない。九州の距離感をそのまま北海道に持ち込めば、旅程を見誤ることがあるだろう。見慣れた尺度は、知らない土地でも通用するとは限らない。

 イコールアース図法は、こうした思い込みを見直す手掛かりになる。国や大陸の面積比を保つことで、私たちが頭の中に描いてきた世界との隔たりを示してくれる。

 もっとも、これも万能の地図ではない。球面を平面に広げる以上、何らかの歪みは避けられない。面積を正しく表す地図でも、形や距離のすべてが正確になるわけではない。出典:米国地質調査所

 だからこそ、新しい地図を手にしたときにも、何が正しく表され、何が歪んでいるのかを知る必要がある。「正しい地図」という言葉に安心しきってしまえば、見慣れた一枚を疑わなかった頃に戻ってしまう。

 そして、面積とは別に、もう一つ考えたいことがある。世界地図の中心を、どこに置くかという問題である。

 日本を中央に置けば、日本は世界の真ん中に見える。ヨーロッパを中央に置けば、日本は東の端に寄る。地球上の位置は変わらないのに、紙の上では、中心にも周縁にもなる。

 そもそも、丸い地球に東の端はない。「極東」とは、ある場所から見た呼び名である。その呼び名を使うとき、私たちは誰の視点に立っているのだろうか。

 イコールアース図法によって面積の歪みが正されても、地図の端に描かれた土地を、世界の片隅だと感じる習慣までは消えない。面積をどう表すかと、どこを中心に見るか。その二つを問い直して初めて、地図を読む視野は広がる。

 今回、米国が唯一反対したことには、筆者も疑問を抱く。しかし、その一票から「小さな国などどうでもよいと思っている」と内心まで決めつければ、偏見を批判する自分自身の言葉が、別の偏見を帯びてしまう。

 日本が思っていたほど小さくないと気づくことには意味がある。だが、そこで満足してよいのだろうか。「実は大きい」と示せなければ尊重されないのなら、国の価値を面積で測る物差しは、何も変わっていない。

 広い国にも、狭い国にも、人が暮らしている。それぞれに歴史があり、日々の営みがある。地図上で占める面積によって、その暮らしの重みが変わるはずはない。

 地図の歪みは、計算で補正できる。まなざしの歪みは、自分の見方を疑うことからしか補正できない。

 新しい世界地図を前に、筆者は日本の大きさを確かめるだけで終わりたくない。これまで小さく見えたために、目を留めずにいた国の名を、一つ読んでみたい。

※ヘッダー画像は、ChatGPTが記事を読み生成したもの

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▼ChatGPTによる感想

読後に残るのは、世界地図の形よりも、それを見る自分の視線への問いです。身近な地図を入り口に、知識の限界、視点の偏り、他者への敬意へと考察が深まっていく。その展開に、静かな読み応えを感じました。

とりわけ印象的なのは、「そもそも、丸い地球に東の端はない」という一文です。当たり前の事実なのに、「極東」という呼び名と並べられると、見慣れた世界の配置が揺らぎます。誰かにとっての中心や周縁を、いつの間にか世界共通の位置づけとして受け入れていなかったか。読者自身の言葉の使い方にまで、問いが届きます。

文章の説得力を支えているのは、批判を自分にも向ける姿勢です。米国の反対に疑問を抱きながら、その内心までは決めつけない。この節度によって、「偏見をなくしたい」という主張が、書き手自身の態度として示されています。

そして、思想的に最も深いのは、「『実は大きい』と示せなければ尊重されないのなら」というくだりでしょう。日本の広さを再発見する喜びの先で、広さを尊重の条件にしてよいのかと立ち止まる。ここで読者は、自国への評価を改めるだけでなく、自分が他国を評価する物差しそのものを点検することになります。

結びの「国の名を、一つ読んでみたい」も心に残ります。大きな理念を、小さく具体的な行動に落とし込んでいるからです。知らなかった国の名を読む。そのささやかな行為に、そこに暮らす人々へ関心を向ける第一歩が見えます。

一方、中盤の図法の限界を説明する部分は、やや丁寧さが重なり、思索の流れが緩む印象もあります。そこが少し引き締まれば、後半の問いはさらに鮮明に響くでしょう。

読み終えて、地図を開き直したくなりました。自分がこれまで、どこを見て、どこを見過ごしていたのか。それを確かめたくなるエッセイです。
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文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/8 12:00 am

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