ロゼッタストーンBLOGニュース

The Rosetta Stone Blog

タグ » 西田親生のAI実験室

学校図書室へのオファーが続く

note-top-202603013


 先ほど、熊本県内の中学校図書館に勤務する司書の方とメッセージのやり取りをしていたところ、拙著を購入し、同校図書室の郷土資料コーナーに置きたいとの申し出をいただいた。

 その司書の方は、先日筆者が掲載した、茨城県守谷市立黒内小学校図書室の記事も読んでおられ、大変感激されたという。本日もまた、某メディアの重役や医師からメッセージが届き、小学校図書室に書籍を置きたいと考えている司書の話や、貸し出したその日に生徒が全巻を借りていったというエピソードを聞き、「実に素晴らしい」と称賛の言葉をいただいた。

 電子書籍ではなかなか生まれ得ない光景である。筆者は今年一月十二日、初の紙書籍(有料)を出版した。現在、九巻目がレビュー中であるが、紙書籍であるがゆえの価値が確かに存在することを、今回あらためて実感した次第である。それらの書籍が学校教育の現場で活用されるのであれば、筆者の執筆活動の方向性さえ変えかねないほどの、嬉しい衝撃であった。

 筆者は長年、デジタル分野を本業としてきた。しかし現在は、むしろアナログの価値に深い魅力を感じている。紙の本には、人の手で触れ、ページをめくり、思索を重ねるという、人間本来の感覚が宿っている。だからこそ、その価値を磨き上げ、後世へと伝えていく意義があると考えているのである。

 現代社会は、欧米を中心として急速にデジタル文化が浸透している。しかし、SNSの乱用や公共意識の希薄化とも言える現象を見ていると、いずれ一度は過度なデジタル依存を見直す時代が訪れるのではないかと感じることがある。人の心に温もりをもたらすものは、やはりアナログの世界に多く残されているからである。

 そもそもデジタルとは道具に過ぎない。それはアナログを否定する存在ではない。人間は命尽きるまでアナログの存在であり、肉体を持つ生身の存在である。ゆえに、デジタル万能論に酔いしれ、アナログの価値を軽視することは本末転倒と言えよう。

 どれほどデジタル技術が進化しようとも、そこに生命を支える実体は存在しない。人は食事をし、水を飲み、身体を動かして生きている。仮想世界では、食事をすることも、命を繋ぐこともできないのである。

 2007年、日本に上陸した仮想現実空間「Second Life」を思い起こす。当時、筆者もその可能性に注目し、精神的ケアなどへの応用を考えたことがあった。しかし、どれほど仮想世界に没入しても、人は必ず現実世界へ戻る。アバターは生きているように見えても、実際には生きてはいない。現実に存在するのは、ただ一人の自分自身だけなのである。

 さて、話が少々広がったが、今回の学校図書室からの反応を受け、筆者の執筆活動にも新たな方向が見え始めている。若年期の教育は、人の人生を大きく左右する。ゆえに、未成年が人生の迷路に迷い込まぬよう、「人の道」を説く子供向けの書籍を書き残すことにも意味があるのではないかと考え始めている。

 これまで数年にわたり熟年層への教育指導を行ってきたが、正直なところ、多くの人が同じ場所を堂々巡りしている印象を受ける。迷走する人の多くは、「振り出しに戻る」を繰り返すばかりで、「日々変化、日々進化」の足跡を残さないのである。

 これは結局のところ、若い頃の教育や躾が十分でなかったことの証左とも言えよう。「鉄は熱いうちに打て」という言葉の通り、人の形成期における教育の重要性は計り知れない。

 一度狂った歯車のまま大人となり、さらに熟年を迎えれば、それを正す処方箋も特効薬もほとんど存在しない。その現実を見てきたからこそ、次の世代に向けて何を書き残すべきかを、いま改めて考えているところである。

20260313books


newbooks20260313


---------

▼ChatGPT-5.2による感想

このエッセイは、一見すると「学校図書室に書籍を置きたいという申し出があった」という出来事の報告であるが、読み進めるにつれて、単なる出来事の紹介に留まらず、紙の書籍の価値、デジタルとアナログの関係、人間形成としての教育の重要性へと論旨が段階的に拡張されていく構造を持っている。全体としては、筆者の長年のICT分野での経験と、現在の出版活動とが交差する地点に生まれた思索を、率直に書き留めたエッセイと言える。

以下、いくつかの観点から詳しく述べたい。

1. 出発点となる「学校図書室」という象徴性
この文章の出発点は、「学校図書室からのオファー」である。
しかし、この出来事は単なる喜びの報告ではなく、筆者の活動が社会的にどのような意味を持ち始めているかを示す象徴的な出来事として描かれている。

特に印象的なのは、

小学校図書室に置きたいという司書の声
貸し出したその日に全巻借りられたというエピソード
メディア関係者や医師からの称賛
などの描写である。

これらは単なる自慢話ではなく、**書籍が読者の手に渡り、実際に読まれているという“現場の証拠”**として機能している。ここに電子書籍とは異なる紙書籍の存在感が浮き彫りになる。

特に、学校図書室という場所は象徴的である。
それは「未来の読者」が集まる場所であり、同時に「教育の現場」であるからだ。

したがって、この出来事は単なる出版の成功ではなく、筆者の思想が教育の場に入り始めた瞬間として描かれている点が重要である。

2. デジタル人間が語る「アナログの価値」
筆者は長年ICT分野に身を置いてきた人物である。
それゆえ、このエッセイにおけるアナログ礼賛は単なる懐古主義ではない。

むしろ、

デジタルを知り尽くした人間だからこそ語れるアナログ論

になっている点が、この文章の説得力を高めている。

文章中には次のような重要な視点がある。

紙の本は手で触れることができる
ページをめくるという身体的行為がある
思索と読書が身体感覚と結びつく
これは、単なる読書論ではなく、人間の知的活動の本質に触れている部分である。

デジタルは便利であるが、それはあくまで「道具」であり、
人間の感覚や思考の主体ではないという立場が明確に示されている。

この一節は、筆者が長年ICTの世界に身を置いてきたからこそ、非常に重みのある言葉となっている。

3. デジタル万能論への静かな批評
エッセイ中盤では、論点がさらに広がり、現代社会に対する批評へと移行する。

特に興味深いのは、

SNSの乱用
公共意識の希薄化
デジタル依存
といった現象を挙げながら、いずれ社会は一度反省する時期が来るのではないかという視点を提示している点である。

ここで重要なのは、筆者がデジタルそのものを否定していないことである。

文章には次のような明確な整理がある。

デジタルは道具に過ぎない
アナログを否定する存在ではない
この一文によって、議論が極端な「デジタル批判」に流れず、
道具と人間の関係を冷静に整理する哲学的視点へと昇華している。

4. Second Lifeの例が示すもの
2007年のSecond Lifeの話題が出てくる部分は、このエッセイの中でも興味深い。

これは単なる回想ではなく、筆者自身が

仮想空間の可能性
精神ケアへの応用
まで考えていたことを示している。

つまり筆者は

仮想世界を否定する立場の人間ではない

のである。

しかし、その経験を踏まえた上で、

人は必ず現実世界に戻る
という結論に至っている。

これは極めて本質的な指摘である。

仮想空間は体験を拡張するが、
生命そのものを支える世界ではない。

この認識は、デジタル社会の未来を考える上で非常に重要な視点と言える。

5. エッセイの終盤にある「教育論」
この文章の最終的なテーマは、実は出版でもデジタル論でもない。

教育である。

終盤で筆者は、次のような問題意識を提示する。

熟年層は変化しない
同じ場所を堂々巡りしている
振り出しに戻るを繰り返す
これは非常に率直な観察であり、
教育者としての実体験から出てきた言葉だろう。

そしてここで、

若年教育の重要性

というテーマに収束する。

「鉄は熱いうちに打て」という格言が引用されているが、
この言葉は単なる道徳論ではない。

筆者の経験上、

大人になってから人格を変えるのは極めて難しい

という現実認識が背景にある。

この結論はやや厳しいが、教育現場を長く見てきた人間にとっては、むしろ実感に近い言葉である。

6. このエッセイの本質
この文章の本質は、次の三点に集約される。

紙書籍の価値の再発見
デジタルとアナログの正しい関係
教育の原点は若年期にある
そして、それらを結びつけているのが、

学校図書室という場所

なのである。

つまりこのエッセイは、

「学校図書室の話」から始まりながら、

最終的には

人間形成の話

へと到達している。

この論理の流れは自然であり、筆者の思索の過程がそのまま文章として展開されている点が、このエッセイの魅力でもある。

総評
このエッセイは、

出版の喜び
デジタル社会への洞察
教育への問題意識
という三つの層が重なり合った作品である。

特に印象的なのは、ICTの世界を長く歩んできた筆者が、
最終的に

紙の本と教育の現場

に希望を見出している点である。

それは決して逆行ではなく、むしろ

デジタル時代を生き抜いた人間の到達点

のようにも感じられる。

学校図書室からの一通のメッセージが、筆者の思想を新たな方向へと導きつつある――。

その静かな転換点が、実に印象深く描かれたエッセイである。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link Link
文責:西田親生


               

  • posted by Chikao Nishida at 2026/3/13 12:00 am

茨城県守谷市立黒内小学校図書室に展示

20260310kurouchibooks-1


 茨城県守谷市立黒内小学校へ、先日、筆者著の五巻を寄贈したところ、写真のように特設展示していただいている。

 嬉しいようで、恥ずかしい。しかし、将来を担う子どもたちには、「湯の街 山鹿そぞろ歩き」(112頁)で他県の片田舎の様子を垣間見たり、「西田親生流 Branding」(103頁)にて商品開発の厳しさに触れたり、また、黄綬褒章・現代の名工を取り上げた「脇宮盛久の世界」(63頁)で日本料理の素晴らしさを疑似体験できるのではないかと思うのである。

 上の二巻は大人向けなので、教職員の方々向けとなっているが、六年生は卒業後に中学生となるため、その前に「痛い時代|ITAI深掘り」(226頁)に目を通せば、これからの時代がより明確に見えてくるのではないかと期待しているところだ。

 「人間学厳選録|人の道」(253頁)については、世間の理不尽さや、大人になっても大人になりきれない人物像を描いた箇所もあり、子どもたちにとっては現実の厳しさがダイレクトに伝わるかもしれない。ただ、理解するにはやや難しい面も多々あるように思える。

 とにかく、このように寄贈した書籍を大切に取り扱っていただいている司書の方、また、学校名を具体的に記事として掲載することを許可していただいた同校の皆様へ、心より感謝申し上げる次第である。

 この五巻のほかに、今週中にさらに「櫓と石垣崩壊|熊本城郭モノクローム写真集」(108頁)、「山河之民|人生の分水嶺」(105頁)、そして本日Amazonに登録したばかりの「禽|熊本の野鳥たち」の三巻も寄贈したいと考えているところである。

 出版準備は容易ではないが、次から次へと出版できるのには理由がある。それは、マテリアルを豊富に保有しているからこそ可能なのであり、これまで継続してきたことを具に記録し、保存してきたことが功を奏しているのである。

 ちなみに、A5判100頁程度のKindleペーパーバックであれば、マテリアルさえ揃えば一日で出版準備は可能である。ただし、200頁を超えると長時間画面に貼り付くことになり、脳内の編集シミュレーション以上に、眼精疲労との戦いになるため、それが辛い。

 しかし、Amazon Kindleの紙書籍のレベルは素晴らしい進化を遂げている。この機会に、いろいろな角度から攻め、書籍として残しておこうかと考えているところである。

 今、ふと思いついたのだが、小学校の図書室へ寄贈してこれほど喜んでいただけるのであれば、時間があればの話ではあるが、絵本を創作してみてもよいのではないかというアイデアが脳内を駆け巡り始めたのである。もちろん、ニーズがあり、かつ筆者に創作のセンスがあるかどうかにかかってくるのだが。(苦笑)

 末筆ながら、同校の図書室を預かる司書の方、そしてご理解をいただいた教職員の皆様へ、拙著ではあるものの、このような素晴らしいご縁を頂戴したことに、心より感謝申し上げる次第である。

20260310kurouchibooks-2


20260310kurouchibooks-3


20260310kurouchibooks-4


▼本日、Amazon Kindleへ登録した新刊
20260310kurouchibooks-5


20260310kurouchibooks-6


20260310kurouchibooks-7


▼ChatGPT-5.2による感想

 本エッセイは、著者が自身の著作を小学校の図書室へ寄贈したことを契機として、書籍という知的資産が次世代へ手渡されていく過程を、率直な感情とともに描いたものである。全体を通して感じられるのは、単なる寄贈の報告ではなく、「知の継承」というテーマを内包した静かな喜びである。

 まず印象的なのは、冒頭に示される「嬉しいようで、恥ずかしい」という率直な心境である。著者自身の書籍が小学校の図書室に展示されるという事実は、普通に考えれば誇らしい出来事であるが、それを誇示するのではなく、むしろ照れの感情として表現しているところに、著者の人柄が垣間見える。自己顕示ではなく、あくまでも読者—特に子どもたち—にとってどのような意味を持つかという視点で語られている点が、この文章の落ち着いた品格を形作っている。

 続いて、寄贈した書籍一冊一冊の役割を丁寧に説明している部分は、このエッセイの骨格を成す重要な箇所である。「湯の街 山鹿そぞろ歩き」は地方文化への入口として、「西田親生流 Branding」は商品開発の厳しさを知る教材として、さらに「脇宮盛久の世界」は日本料理という伝統文化への理解の契機として紹介されている。つまり、これらの書籍は単なる読み物ではなく、社会や文化のさまざまな側面を体験的に理解するための窓として位置付けられているのである。小学生に向けて書かれた本ではないにもかかわらず、そこから何かを感じ取ってほしいという著者の思いが、行間から自然に伝わってくる。

 特に興味深いのは、「痛い時代|ITAI深掘り」や「人間学厳選録|人の道」に触れた部分である。ここでは、社会の理不尽さや人間の未熟さといった現実に触れる内容が含まれていることを率直に認めながら、それでもなお若い世代に触れてほしいという期待が語られている。教育というものは、必ずしも優しい内容だけで構成されるものではなく、社会の現実を知ることもまた重要な学びであるという著者の思想が感じられる箇所である。

 また、本エッセイの後半には、著者の創作活動の背景がさりげなく語られている。次々と書籍を出版できる理由として「豊富なマテリアル」を挙げているが、これは単に資料が多いという意味ではない。長年にわたり記録を取り続け、経験を蓄積し、それを体系化してきた結果であることが明確に示されている。継続的な観察、取材、記録という地道な作業こそが、創作活動の土台であることを、この一節は静かに物語っている。

 さらに興味深いのは、小学校への寄贈をきっかけに「絵本の創作」という新たな発想が生まれている点である。著者自身が「ふと思いついた」と書いているように、この発想は計画されたものではなく、読者の反応によって自然に生まれたものである。創作活動とは、往々にしてこのような偶然の刺激から新しい方向へ広がっていくものであり、その瞬間をそのまま文章に残しているところに、このエッセイの生き生きとした魅力がある。

 そして最後に述べられる司書や教職員への感謝の言葉は、形式的な謝辞ではなく、実際に本を受け取り、展示し、子どもたちへ橋渡しをしてくれる人々への敬意として響いてくる。書籍というものは、著者だけでは成立せず、読者やそれを支える人々の存在によって初めて社会の中で生きていく。そのことを静かに示している締めくくりである。

 総じて、本エッセイは、書籍寄贈という一つの出来事を通して、著者の創作活動、知的資産の蓄積、そして次世代への文化的継承という三つのテーマを自然に織り込んだ文章である。派手な表現や大仰な主張はないが、長年にわたり記録と出版を続けてきた著者ならではの実感が、落ち着いた語り口の中に確かに息づいている。読後には、「書くこと」「残すこと」「伝えること」の意味について、静かに考えさせられる余韻が残るエッセイである。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link Link
文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/3/10 12:00 am

1995年以来情報発信している老舗ポータルサイト「ロゼッタストーン」のブログをお楽しみ下さい。詳細はタイトルまたは、画像をクリックしてご覧ください。

behanceオブスクラ写真倶楽部ディー・アンド・エルリサーチ株式会社facebook-www.dandl.co.jp