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視野狭窄と「自分スタンダード」

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凹み

 世の中は広く深く、有能な人たちが無数に存在する。長期にわたり自分なりの行動パターンでスタンダードを固めてしまうと、それが世の中に十分通用すると勘違いしてしまう人が少なくない。

 有能な人とは、学歴が高いからでも、年季が入っているからでもない。常に自分を客観視し、幾度も分厚い壁にぶつかり、それを打ち砕いてきたからこそ、強固な軸を持ち、プロフェッショナルへの階段を登り、人として大きく成長しているのだ。

 一方、視野の狭い人は、太平洋に浮かぶ木の葉のような小さな世界で自己過大評価に酔いしれ、地域や分野の中で胡座をかき、自信過剰のレールを突っ走っている。そのため、未知の事象に遭遇すると、自分が胡麻粒のように小さく見え、すっかり凹んでしまうのである。

開眼

 「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がある。可愛い子にあえて厳しい経験を積ませ、辛い体験を通して人間的に成長してほしいという願いが込められている。県外に出た人間は郷里を、海外に出た人間は日本を、より深く理解できるようになる。これは、貴重な体験を通して視野狭窄の壁を破り、開眼した証左である。

燕雀、蛙

 「燕雀知らず天地の高さ」という言葉は、「井の中の蛙大海を知らず」と同義である。地方の胡散臭い独特なスタンダードは、広大な世界を知らぬがゆえに形作られたものだ。

 無能なのに自信過剰であったり、無力なのに戦国武将のごとく最強を気取る人が少なくない。個人主義を利己主義と取り違えたり、他者の実績を理解せず軽視したり、優れた策を安直に愚策と断じたりする。自らが赤恥をかいていることに気づかないまま。

愚問

 あるイギリス人女性がFacebook動画で、日本人の奇妙な言動を揶揄していた。例えば「なぜ鼻が高いと言うの?」「なぜ色白いねと言うの?」といった質問に、彼女は首をかしげる。

 単一民族国家ゆえの素朴な疑問かもしれないが、多様性の観点から見れば、これは愚問であり、外国人には理解しがたいものとなる。

おもてなし

 外国人に過剰に優しく接する日本人。海外を知らないがゆえに、お人好しの対応を「美徳」と思い込む。

 しかし、同じ人間である以上、観光客に過剰なおもてなしをする必要はない。我々が海外を訪れても、特別な施しを受けることはほとんどない。欲しいものは自分の金で買い、不要なものは見向きもしない。トラブルがあれば、自らの正当性を主張する。それが世界の常識だ。

平和ボケ

 元首相暗殺事件では、警護の不備が大きな問題となった。米国の元シークレットサービス関係者は断言する。「プロの警護者は自らの命を盾にして対象を守る。それが責務である」と。

 しかし、多くの日本人は「この程度で十分」と勝手に決めつけ、空気を読んで安堵してしまう悪癖を持つ。今回の大失態は、その典型であり、断じて許されるものではない。

剣道

 日本の剣道と韓国の剣道の違いは「勝つための執念」にある。日本の剣道は正統で美しいが、韓国の剣道は連続技で突進し、勝利のためには手段を選ばない。
 海外ではルールを多少逸脱しても勝ちに執着する文化がある。特に独裁国家では勝者への褒美が異常に大きく、その欲望がさらに勝利への執念を駆り立てている。

侵略

 ウクライナ危機では、ロシア軍の残虐行為に世界が震撼した。だが、それはロシア人にとって「当たり前の戦争観」であり、人道的批判など耳に入らない。
 歴史を歪曲してでも残虐行為を正当化し、占領を進める。それが「狂った帝国ロシアイズム」に他ならない。

無知集団

 海外は、我々の想像を遥かに超える落差を持つ。にもかかわらず、この狭い日本では「燕雀知らず天地の高さ」と揶揄されるほど、無知な人が多く存在する。
 筆者はレクチャーで「自分スタンダードはグローバルスタンダードに通用しない」と繰り返し訴えている。しかし心に響く人はわずかだ。
 結局、多くの人は「自分スタンダード」を曲げることなく、楽な道を選ぶ。「可愛い子には旅をさせよ」ではなく、「可愛い子には楽をさせよ」にすり替え、視野狭窄のまま人生を終える人が多い。結果として、上位層から「無知集団」と見下されるのも当然である。


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写真・文責:西田親生

               

  • posted by Chikao Nishida at 2022/7/17 12:00 am

自己満足ばかりを求め、墓穴を掘る。

▼記事と写真は関係ありません

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 最近は、刃物を使った殺傷事件が横行し、それも、一度そのような事件が発生すると「これだ!」と思って、連鎖的に犯罪が急増する傾向があるようだ。何かに対する苛立ちや、自暴自棄となり孤立した挙句の脳内爆発。我々常人としては、理解に苦しむところである。

 このような蛮行に至る要因は様々であるとは思いつつ、極論であるけれども、幼少期の育ちや躾、教育、更には両親や祖父母からの愛情の欠落ではないかと推察する次第。筆者自身も幼少期を思い起こせば、現在でも理解に苦しむような周囲の言動が記憶に刻まれている。

 ただ、家庭的には「悪さをすれば、厳罰に処す!」ような厳しい家庭であったために、社会悪への一線を越えることを考えたこともなく、実際行動に移したこともなかった。しかし、自分の心の中では何度か水爆級の憤りを覚えたこともあり、社会人となり、当時の是非を考えるに至っている。

 現代社会は「いじめ」のオンパレードのような醜い社会。しかしながら、「いじめ」も昔から存在しているもので、それを社会悪として取り上げるようになったのは、この三十数年ほど前だったと記憶する。筆者は「いじめ」の対象者になりにくい性格だったけれども、一度だけその対象になったことがあった。

 それは、同級生や幼友達との歪な関係ではなく、担任教師Kからのダイレクト、且つ、公然とした「いじめ」に遭遇したのであった。その教師Kが、「君の1歳年下の従兄弟は勤勉家で人の言うことを良く聞くが、君は根性も皮肉れ腐っているし、どうしようもない!」が口癖だった。

 授業中に筆者の後ろに近づき、「これは三年苔というんだよ。首周りが汚れまくっている!」と、クラス中に聞こえるような声で、筆者の襟を指差して嘲笑していた教師K。今でも、その人物の言動を許すことはないが、逆に、「可哀想な人物」の一人として記憶の箱に封印している。

 このように「いじめ」の最先端にて暴言を放っている教師Kもいたのだから、子供の筆者としては対抗策を講じることは、我慢以外できなかった。当時は、手のひらビンタや細い棒(ネブチと言っていた)の愛の鞭など日常茶飯事の時代。或る高校の柔道教師が2度も生徒の鼓膜を破ったという事件も起きた。勿論、その柔道教師は左遷であるが辞職には至らなかった。

 また、最近「私は負けると泣きじゃくるほど悔しいんです!」というコメントを頂いたことがあった。これは、近年で話題にもなっている「アンガーマネジメント」に通ずるものであり、自分の心をコントロールできない不器用さが、そのまま激昂となって現れるものではないかと思われる。

 プライドの高い人ほど、この激昂はエベレスト山のブリザードのように激しい。「負けて泣くより、勝って泣け!」または「負けて泣きじゃくるより、超えて泣け!」と物申したい。人生は終焉まで「学習」である。発展途上の若き成人は、これから幾重ものエベレストのような、気が遠くなるような山々を縦走しなければならない。

 一昨年だったか、「私は瞬間湯沸かし器のようにキレるタイプです!」と言い放った某企業の社長がいた。このタイプは、負けず嫌いもさることながら、根幹の部分は、自信喪失(社内降格を2度経験)及び父親からのDV、そして家庭内離婚が全てを物語っているように思えてならない。つまり、自ら信頼できる対象者がいないのである。

 自信過剰の人間は、或る時、とんでもない失態を曝け出し、想定外の降格処分なり解雇なりに直面する。自分以外の人々を全て否定し、我こそがお山の大将と思い込んでいるのである。我が身勝手持論が理想であり、他のサジェッションなどには耳を傾けず、誤ったベクトルにて暴走、爆走を繰り返す。

 更には、視野狭窄という資質も要因の一つであり、実務書ばかりに傾倒しているあまり、「私は文豪なるものの本を読んだことがありません!」と豪語する。だったら、ハリセンボンのような毎日を送るのは当然だが、時折、石坂洋次郎の純愛小説でも読んでみれば、凡人の心の動きが分かるというものだ。

 何についても「偏り過ぎ」は、人生をネガティブな方向へと引き摺り降ろす危険性が無きにしも非ず。世の中の鳥瞰図をしっかりとマクロで捉え、更に、自分に欠落している分野なりジャンルなりを、勇気を持ってこっそりミクロ的に垣間見るのも、視野狭窄解消の秘策であると考えられる。

 テレビの向こう側では「◯○評論家」という人物が、滑舌良くバルカン砲のように喋っている。自分では妙な人物であるとは思っていないだろうが、論旨を分析すると、どこかに「稚拙」さが沢山転がっている。以前、公金を無駄遣いした知事さんあたりも、同様であると受け止めている次第。

 何はともあれ、自分自身の背中を客観視できない人たちは、知らぬところで、数知れずの「赤恥」をかいている。今回の日本大学の大騒動も然り。2歩も、3歩も引いてみれば、「稚拙な子供集団」であると、世の中に映っているに違いない。関わっている人間は全てが「守銭奴」であり、教育分野には不似合いな人物であった訳だ。

 欲目で見れば、処世術に長けており、差別化の軍師であったのかも知れないが、自分自身と近しい周囲のみの「幸」を追求しては、そのまた周囲は迷惑千万であるばかり。誰しもその環境下において「幸」を感じることはない。ただ「惰性」で現在に至っているだけの話である。よって、「惰性」を黙認してきたところが、お山の大将への忖度重視の「稚拙な子供集団」である証となる。

 前述の「瞬間湯沸かし器のような人間」は、自信過剰ではあるが、その以前の「忖度主義」の社内構造にもあたふたしていた。自分が世話になった人物を表では忖度し、裏では凌駕のために「○○ボンクラ」の集団を指揮してきた暴君だと、毎日のように誹謗中傷を繰り返し投げ掛けた。

 以前、「猿の惑星のような社内」と記事にて書き込んだことがあったが、まさしく、現代社会の見えざる会社の裏側。ほとんどと言っても過言ではないほど、「猿の惑星のような企業」がわんさと存在している。勿論、先日の自民党総裁選の経緯を振り返れば「猿の惑星のような人物」も数人暗躍していたのも記憶に新しいところである。

 畢竟、自分の心を如何にコントロールできるかが「鍵」となるが、筆者も含めて、そのコントロールは容易いものではない。だから、失態もあり、失言もある訳だ。まあ、ポジティブに捉えれば、「人間らしくていいんじゃない!?」と言いたいけれども、世の中の人たちを不幸のどん底に貶める行為だけは、絶対に無縁な人生であるべき。

 自己満足ばかりを求め、他人を巻き込み、あちこちでヘドロを撒き散らかしては、世のため人のためになりはしない。


▼美しい花を愛でて、心に安寧を!
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写真・文責:西田親生

                           

  • posted by Chikao Nishida at 2021/12/13 12:00 am

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