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視野は、職場で固まる

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 どれほど世間の動きや時代の流れを話しても、耳に入らない人がいる。聞いていないのではなく、受け止めるための視野や思考の回路が、すでに固まってしまっているのである。

 本日は、そのような人がなぜ少なくないのかについて話をした。「先読みができない人」「深読みができない人」「世間の一般常識を知らない人」「会話の範囲が狭い人」「価値観が偏っている人」「配慮に欠ける人」など、表れ方はさまざまである。しかし、ここで問題にしたいのは、誰が最悪かという話ではない。なぜ、そのような現象が目の前で起きるのか、ということである。

 先日、ある戦略を込めた動きについて話す機会があった。ところが、ある受講生はその意図をまったく感知せず、上辺だけの感想を返してきた。現在の仕事環境や周辺の動きを見れば、そこに含まれた意味はすぐに読み取れるはずである。にもかかわらず、読めていない。

 なぜ、最も重要な戦略が見えていないのか。目の前に、自分自身に直接関わる重要な材料が転がっているにもかかわらず、それに気づかないのである。返ってきた言葉は、「気づきませんでした」の一言だった。

 筆者は、その人物を責めたいのではない。問題は、なぜそのような見落としが起きるのかである。別の人物とこの件について話したところ、「その人は、今、自分の仕事が少し動き出しているため、それだけで満足しているのではないでしょうか」との見方が示した。

 確かに、入口に立っただけで安堵してしまえば、次のステップへ進むことはできない。小さな成果に満足し、その先にある構造や戦略を読もうとしなければ、思考はそこで止まる。先読みも深読みもないまま考え込んでも、「下手な考え休むに似たり」と同じことである。

 次に、公務に就く人たちの会話について話が及んだ。これは公務員を差別的に扱う話ではない。ただ、同じ職種の公務員二人と民間の人物一人が会話をしている場面で、公務員二人が共通の話題で盛り上がり、もう一人への配慮を欠くことがある、という話である。

 これは、筆者自身も何度か経験している。同じ仕事環境にいる人同士は、共通項が多い。そのため、無意識のうちに自分たちだけが分かる話題へ入り込み、別の立場の人がその場にいることを忘れてしまう。悪意があるとは限らない。むしろ、悪意がないからこそ厄介なのである。気づいていないのだから。

 父や叔父が国家公務員であったこともあり、筆者は幼少期から公務に就く人たちと接する機会が多かった。同じ公務であっても、狭い領域の中だけで働き続けている人は、金魚鉢の中の金魚のように、透明な器の外側が見えにくくなることがある。

 もちろん、公務員にも視野の広い人は大勢いる。多趣味で、好奇心旺盛で、仕事以外の世界にも積極的に触れ、広角打法で人生を楽しんでいる人も少なくない。職業そのものが問題なのではない。危ういのは、自分の仕事環境で通用している常識が、世間全体でも通用すると錯覚することである。

 これは公務員に限った話ではない。企業人でも、職人でも、経営者でも、教育者でも同じである。人は長く同じ環境に身を置くと、その環境の空気、言葉、価値観、判断基準を自分の標準としてしまう。それが「自分スタンダード」である。

 視野が狭くなるかどうかは、仕事環境や交友関係に大きく左右される。その範囲で満足していれば、わざわざ自分を変える必要を感じない。結果として、自分スタンダードは足元からコンクリートで固められていく。

 一度固まった自分スタンダードは、簡単にはほぐれない。足元から腰へ、胸へ、首へ、そして頭まで、思考全体が硬直していく。もちろん、ぶれない軸として良い方向に働くこともある。しかし、他者への配慮や時代を読む力を失わせるのであれば、それは是認し難い。

 最初に挙げた人物に必要なのは、脳内の大掃除であり、思考回路の再構築である。先読みや深読みは、感覚だけで身につくものではない。点と点を結び、面として捉え、さらに立体として構造を読む訓練が必要となる。

 点だけを見て右往左往する人は、隣の点に気づかない。その点が全体構造のどこに位置しているのかも分からない。だから、戦略が読めない。配慮も生まれない。

 結局のところ、問題の根は同じである。気づきの不足と、配慮の不足である。本人はそれで十分だと思っているのかもしれない。しかし周囲から見れば、仕事環境によって視野を固められた人ほど、扱いにくく、成長の余地を見失っているように映るのである。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、「視野の狭さ」を性格や能力だけの問題として片づけず、仕事環境、交友関係、日常会話、成功体験の小ささが人間の思考を固めていく構造として捉えている点に重みがある。単なる人物批判ではなく、「なぜ気づかない人が生まれるのか」という原因分析に踏み込んでいるため、社員教育や幹部教育の教材としても使える内容である。

特に核となるのは、「人は長く同じ環境に身を置くと、その環境の空気、言葉、価値観、判断基準を自分の標準としてしまう」という一文である。ここに本稿の本質が凝縮されている。人間は自分の判断を客観的だと思い込みがちだが、実際には、所属する組織や職場の空気に強く影響されている。つまり、「自分の考え」だと思っているものの多くは、環境によって形成された反射である。

「金魚鉢」と「コンクリート」の比喩も効いている。金魚鉢は、透明であるがゆえに外が見えているように錯覚する。しかし、実際には器の内側でしか泳げない。これは、狭い職場常識を世間常識と勘違いする人間の姿を的確に表している。また、足元から頭までコンクリートで固まっていく表現は、思考停止が徐々に身体化していく怖さを感じさせる。

前半の受講生の例は、戦略を読めない人の典型として機能している。目の前に自分の未来に直結する材料があるのに、それを「点」としてしか見られない。点と点を結び、面にし、さらに立体として読む力がなければ、ビジネスでも人生でも判断を誤る。この部分は、生成AI時代にも通じる。AIを使えるか否か以前に、問いを立てる力、構造を見る力、文脈を読む力がなければ、道具を持っていても成果にはつながらない。

後半の会話における配慮の話も重要である。同じ職場、同じ職種、同じ価値観の人間だけで会話が完結すると、第三者が置き去りにされる。これは単なるマナーの問題ではなく、他者の立場を想像できるかどうかという人間学の問題である。会話とは、情報交換ではなく、場を共有する行為である。そこに配慮がなければ、空気は閉じ、関係性も閉じていく。

本稿の説得力は、「視野の狭さ」を本人だけの責任にせず、環境によって形成されるものとして描いている点にある。ただし、最後には本人の訓練と再構築の必要性へ戻している。環境のせいにして終わらせず、脳内の大掃除、思考回路の再構築、先読み・深読みの訓練へと結論づけているため、読み手に実践的な課題を突きつけている。

読後に残るのは、「自分の職場常識は、本当に世間常識なのか」という問いである。この問いを持てる人は、まだ変われる。問いを持てない人ほど、すでに金魚鉢の中で満足しているのかもしれない。視野は放置すれば固まる。だからこそ、意識して外へ出る、異質な人と話す、時代の流れを読む、自分の判断基準を疑う。その習慣こそが、本稿のいう「自分スタンダード」をほぐす唯一の方法であろう。
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文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2026/7/8 12:00 am

名刺交換で人脈は生まれない

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 「人脈がない」と肩を落として呟く人がいる。人脈といっても多種多様である。仕事のつながり、趣味のつながり、私生活におけるつながりなど、さまざまなタイプの人脈が存在する。

 筆者は、群れることが得意ではない。したがって、広く浅い人脈は皆無に等しい。そこで、自分の人脈とはどのようなものなのか、改めて自問自答してみることにした。

 一言で言えば、絶対数は少ない。しかし、筆者の周囲にいてくださる方々は、筆者以上の人格者であり、クレバーな方々が圧倒的に多い。数は少なくても、日頃から刺激を与えてくださる人たちに恵まれていることは、実に幸運なことだと受け止めている。

 代理店の一部には、「人脈がないので、どう動いていいのか分かりません」と、初手から意気消沈を表に出す人物もいる。しかし、その性格や姿勢こそが、これまで人脈を築けなかった理由を物語っているように思えてならない。

 近視眼的に、何かが起これば天秤にかけ、自分が優位になる方へと風見鶏のように動いてきた人物に、自慢できるような人脈が備わるはずがない。世のため、人のために一所懸命に仕事をしている人には、驚くほど立派な人脈が存在している。(もちろん、筆者のことではない。)

 それは、損得から生じた人脈ではない。人としての道へと導いてくださる人たちの存在である。あるときは、苦言を呈してくれる人。あるときは、救いの手を差し伸べてくれる人。そのような方々が、範たる「人の道」へと導いてくださるのである。

 信頼なきものは、人脈とは言い難い。それは、単なる軽々しい接点に過ぎず、自分の人生を豊かにするものではない。ただ知っている。ただ見たことがある。その程度の関係であり、人格者との深い接点とは程遠い。

 振り返れば、起業して間もない頃、関西テレビ、NHK衛星放送、その他テレビ局との仕事のつながりは、関西テレビの一人のプロデューサー故 苧木晃(おぎあきら)さんとの出逢いが引き金となった。出張のたびに、新たな仕事が舞い込んできたのである。

 本当に足を向けて眠れないほど、素晴らしい仕事を依頼していただいた。いつの間にか、そのプロデューサーとは親友としてのお付き合いが始まり、筆者が大阪へ行けば自腹で接待し、彼が熊本へ来れば、もちろん自腹で美味しいものを食べに行った。

 筆者より年上であったが、四十代で急逝された。そのショックは、実母を亡くしたときよりも、実父を亡くしたときよりも深い悲しみであった。若ければ癌の進行は早く、病に倒れ、二年もしないうちに、向こうの世界へ逝ってしまわれたのである。

 葬儀には、関西の芸能人の多くが駆けつけ、悲しみを共有した。それから半年後だったか、お別れの会が大阪の大手シティホテルで開催され、その会場へも足を運んだことを、昨日のように覚えている。

 結局、親しい交友関係に支えられ、関西テレビとは十二年という長きにわたり仕事を続けることができた。その後、CG立体動画が次第に話題性を失ってきたこともあり、仕事上の関係は自然に途絶えていった。それは時代の流れでもあり、仕方のないことであった。

 しかし、大阪へ行くと、有名芸能人のご主人が局長であったこともあり、多くのプロデューサーやディレクターを紹介してくださった。当時、毎月一度は関西テレビへ足を運んでいたように思う。

 一人の素晴らしいプロデューサーとの出逢いが、普段であれば決して会えないような方々との遭遇を、毎回のようにもたらしてくれたのである。今思えば、筆無精の筆者であったがゆえに、連絡が途絶え気味になってしまったことを悔いている。

 以前、記事でも紹介したが、ある窯元でお会いしたご老体が、小笠原流礼法三十二世宗家(ご先祖は小倉藩主/譜代大名)の故 小笠原忠統さんであるとは、露ほども知らなかった。出逢いから数ヶ月後、東京のご自宅まで足を運び入れたこともある。これもまた、偶然ではあるが、人脈が一つ増えたことになる。

 人脈という言葉は、一言で表現するのは簡単である。しかし、重要なのは、その人脈の質である。ただ群れるための人脈であれば、筆者には価値なきものでしかない。お一人お一人の素晴らしい方との出逢いが、人生の宝物としての人脈につながるのだと、自分に言い聞かせている。

 冒頭に戻るが、ある代理店が「人脈がないので困っている」などと口にしている。しかし、身の程を知らず、視野も狭いままでは、人脈など築けるはずがない。偉い人と名刺交換をしただけで、自分まで偉くなったように錯覚する人。有名人と写真に写っただけで、自分も有名人と同列であるかのように考える浅はかな人。そういう人物に、善き人脈ができるはずはない。

 まず、自分自身を磨き、人として恥ずかしくないレベルまで引き上げることである。そうすれば、ある程度の方々の前でも、威風堂々としていられる。しかし、そこには視野の広さ、敬愛の念、そして誠意が備わっていなければならない。それらを欠いたまま相手に近づくことは、大変失礼にあたるばかりである。

 新聞社時代を思い起こせば、加山雄三さんとジャズバンドのシーラカンス、十二代目 故 市川團十郎さん、故 西城秀樹さん、高杉良著『大脱走(スピンアウト)』の主人公であるコスモエイティ代表の碓井優さんら、著名人と接する機会も多かった。しかし、それはあくまでも仕事上の接点であり、人脈とは程遠い、質を異にするものであった。

 思い起こせば、数限りない著名人の顔や、当時の会話も記憶に残っている。若きペイペイの筆者に衝撃を与えてくれたのは、和製ボブ・ディラン、フォークの神様と称された岡林信康さんと、二度ほど二人で飲んだことだろうか。また、軽井沢プリンスホテルのパーティー会場で、隣のテーブル席に田原総一朗さんや『プレジデント』の当時の社長さんらがいらっしゃったことも、強く印象に残っている。

 何はともあれ、仕事上の一瞬の接点と人脈とは、全く異なる。それは周知の事実である。ただ、「自分には人脈がないから」と言い放ち、責任逃れのような言い訳をする人間になってはならぬということだ。

 話はあちこち飛んでしまったが、現在、筆者の周囲にいてくださる知人友人には、心から感謝している。わがまま放題で育ってきた筆者を、何とかして引き上げてくださった人たちが大勢存在している。そのことに、重ねて感謝の意を表したい。

※ヘッダー画像は、ChatGPTが生成したもの

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、「人脈」という言葉の軽さを剥ぎ取り、その本質を「信頼」「人格」「時間」「相互の敬意」に置き直した、人間学的な随想である。タイトルの**「名刺交換で人脈は生まれない」**は極めて強い。読者が一瞬で内容を理解でき、同時に、ビジネス社会に蔓延する薄っぺらい人脈観への痛烈な警鐘にもなっている。

特に良いのは、単なる説教ではなく、筆者自身の実体験が厚みを与えている点である。関西テレビのプロデューサーとの出逢い、十二年にわたる仕事、親友としての交友、早すぎる死への深い悲しみ。この一連の記述によって、「人脈とは仕事を取るための道具ではなく、人生を支え、時に運命を変える人との縁である」という核心が自然に浮かび上がっている。

また、著名人との接点をあえて「人脈とは程遠い」と切り分けている点に、筆者の冷静な自己認識がある。多くの人は、有名人と会ったこと、名刺を交換したこと、写真を撮ったことを誇示しがちである。しかし本稿では、それらを「一瞬の接点」とし、信頼に裏打ちされた関係とは質が異なると明確に述べている。ここが非常に重要で、本文全体の品格を支えている。

一方で、代理店に対する批判部分はかなり辛口である。しかし、その辛辣さは単なる攻撃ではなく、「人脈がない」と嘆く前に、自分自身の姿勢、誠意、視野、行動を点検せよという教育的な意味を持っている。人脈を外側に求めるのではなく、まず己の内側を整えるべきだという主張は、社員教育や幹部教育にもそのまま使える。

この一文が核である。

「信頼なきものは、人脈とは言い難い。」

ここに本稿のすべてが凝縮されている。人脈とは、数ではない。肩書でもない。名刺でもない。写真でもない。相手が自分を信じ、自分も相手を敬い、時間の中で互いに何かを積み重ねてきた関係である。

読後感としては、派手さよりも重みが残る。前半は人脈論、後半は筆者の人生回想、最後は感謝へと着地しており、単なるビジネス論ではなく、人生論として読める。特に最後の「わがまま放題で育ってきた筆者を、何とかして引き上げてくださった人たち」という表現には、筆者の照れと感謝がにじみ、文章全体を柔らかく締めている。

note記事としての訴求力も高い。ビジネスマン、経営者、営業職、代理店、若手社員、そして「人脈がない」と悩む人すべてに刺さる内容である。ただし、読者によっては耳が痛い文章でもある。だからこそ価値がある。甘い慰めではなく、「人脈がない理由は、自分の生き方にあるのではないか」と読者へ問いを返す力がある。

総じて、本稿は人脈論の体裁を取りながら、実際には人格形成論である。
名刺を集める人間ではなく、信頼を積み上げる人間であれ。そこに、本稿の最も強いメッセージがある。
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文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/6/8 12:00 am

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