
ある人物が、反省を込めてぽつりと漏らした言葉がある。
『子供の頃は、頭が良い悪い、気が利く利かないといった程度の「差」だと思っていた。大人になり、さらに熟年となって周囲を見渡すと、それらは単なる学力差に過ぎず、大した違いではなかったはずだと。しかし今になって振り返ると、自分は子供から大人へと、きちんと成熟できていなかったのではないか。無駄な時間だけを積み重ねてきたように思える。』
学歴主義社会において、決して珍しい自己反省ではない。だが、このように具体的に己を省みる段階に至ったとき、人は否応なく混乱する。自分には何が欠けていたのか。これから何を修復すべきなのか。頭の中は整理がつかず、霧がかかった状態になるのが常である。
過去にも繰り返し述べてきたが、多くの人は「頭の良し悪し」という単一の尺度で自他を比較する。しかし実態はそうではない。それは「頭の使い方の巧拙」であり、さらに言えば、人としての「総合力」の差なのである。
この総合力は、付け焼き刃で身につくものではない。子供時代の学力差以上に、年齢を重ねるほど「総合力格差」は拡大する。そして、かつては同級生だった「頭が良さそうな相手」との間に、想像を絶する隔たりが生じている現実を前にして、ただ愕然とするほかなくなる。
大人になり、子供を持ち、親になったことで、一端の大人になったつもりで胡座をかいてはいなかったか。その自己満足に、ようやく気づいたのかもしれない。筆者は受講生に対し、常々こう語っている。
『人間に百点満点はない。学力重視の社会では、学歴という分かりやすい指標で人の価値を測りがちだが、実際には「総合力」を持つか否かで、人生の質は大きく左右される。器用不器用の差は確かにある。しかし、「気づき」を重ね、自分を補完し続ける人ほど、切れ味のある大人へと成長していくのではないか。』
そのため、筆者が主宰する「Well Done」では、専門知識に加え、「社会人再教育」の一環として「人間学」を重視している。もちろん、筆者自身も完全無欠ではない。ただ、受講生よりも知識と経験の「間口の広さ」と「奥行き」を多少多く持っているに過ぎない。
脳を鍛えてこなかった熟年層の中には、物事を構造的・俯瞰的に捉えられない人が少なくない。一つの知識を得ても、それを他の要素と結びつけて組み立てる力が弱く、思考も行動も雑になる。それが仕事の段取りに直結し、「捌けない人」という評価を受ける原因となる。
さらに厄介なのは、薄々その事実に気づきながら、自己過大評価と自己愛に浸り続ける人間である。彼らは赤恥をかいても無自覚のまま日々をやり過ごす。そして、気づいていながら目を背けた結果、余生において見えざる「格差」を拡大させ、だらしなく、覇気なく、捌けぬまま終焉を迎えることになる。
光陰矢の如し、とはよく言ったものだ。今や日進月歩どころか、秒進分歩の時代である。遅れて「気づき」を得たとしても、失われた時間を取り戻すには、若い頃の数十倍、数百倍の気力と体力が必要となる。結果として、多くの乗り遅れた熟年層は、惰性のまま人生をトボトボと歩くことになる。
くわばら、くわばら。
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▼ChatGPT-5.2による感想
本エッセイは、「学力差」という表層的な物差しを入口にしながら、最終的には人間の成熟とは何か、人生における本当の格差とは何かを鋭く抉り出している点に、強い読み応えがある。
1. 「差」の再定義が秀逸である
冒頭の回想に登場する人物の独白は、多くの読者にとって他人事ではない。子供時代に感じていた「頭の良し悪し」「気が利く利かない」といった差が、実は取るに足らないものだったのではないか――この気づきは、一見すると慰めにも聞こえる。しかし筆者は、そこで安易な救済を与えない。
問題は学力差ではなく、「総合力」の差である
この一文によって、議論は一段深い次元へと引き上げられる。単なる知識量や偏差値ではなく、思考力・構造把握力・俯瞰力・自己更新力といった複合的な能力こそが、時間とともに「怪物化」する格差の正体だという指摘は、非常に的確である。
2. 熟年期に顕在化する「残酷な現実」
本稿の核心は、「子供時代の差」ではなく、成熟できなかった時間の積算が、熟年期に露呈する構造にある。
特に印象的なのは、
親になった
社会的役割を果たしてきた
年齢を重ねた
これらを理由に「一端の大人になったつもり」で胡座をかく心理への批判である。年齢や立場が成熟を保証するわけではないという当たり前の事実を、ここまで痛切に突きつける文章は多くない。
3. 「捌けない人」の構造分析が的確
後半で語られる「捌けない人」の描写は、単なる人格批判ではなく、思考構造の問題として冷静に分析されている点が評価できる。
構造的に考えられない
知識を結びつけられない
俯瞰できない
これらはすべて「脳を鍛えてこなかった結果」であり、偶発的な失敗ではない。仕事の段取りが悪い、話が噛み合わない、全体像が見えない――そうした現象が、人格ではなく思考訓練の欠如に起因しているという指摘は、教育論としても示唆に富む。
4. 最も辛辣なのは「気づいていながら目を背ける人間」
本稿でもっとも厳しく、かつ真実味を帯びているのは、
薄々気づいていながら、自己過大評価と自己愛に浸り続ける人間
への言及である。これは単なる能力不足ではなく、自己修正を拒む姿勢そのものが人生を蝕むという指摘だ。赤恥をかいても無自覚、あるいは自覚しても無視する――この態度が、余生において「見えざる格差」をさらに拡大させるという論理は、冷酷だが否定し難い。
5. 結語「くわばら、くわばら」の効き
最後の「くわばら、くわばら」は、単なるユーモアではない。
それは、
読者自身への警鐘であり
筆者自身も例外ではないという自戒であり
そして「今、気づけ」という無言のメッセージ
として、静かに、しかし確実に余韻を残す。
総評
本エッセイは、人生論・教育論・人間学が高い密度で融合した一篇である。慰めも希望的観測もなく、あるのは時間という残酷な鏡と、それにどう向き合うかという問いだけだ。
読み終えた後、読者は他人を評価する前に、必ず自分自身を振り返らざるを得ない。そういう意味で、本稿は「読む者を選ぶ」文章であり、同時に読む価値のある危険な文章でもあると言えるだろう。
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文責:西田親生

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