
先ほど、50代前半の近しい人に電話をしたが、猛烈に忙しい様子であった。50代前後ともなれば、仕事はまさに絶頂期を迎え、子育ても重なり、さらには若い頃から続けてきた趣味も高いレベルに達しているに違いない。
また、クリスマスイヴや年末年始の仕事に目を向けると、日本らしく、日本文化に西洋文化を取り込んだ結果、日々、東洋と西洋の文化が入り混じったイベントが賑わいを見せている。
50代前半の彼の声は、多忙の只中にありながらも溌剌としており、仕事の充実感がはっきりと伝わってきた。その一方で、奥様や子供たちへの配慮も欠かさず、家庭の慌ただしさをしっかりと支えている様子がうかがえる。現在、犠牲になっているのは、どうやら趣味の領域のようである。
しかし、最も怖いのは、無自覚のうちに蓄積される疲労である。新聞社時代から現在に至るまで、知人や友人の中で、毎晩、度数の高い酒をオン・ザ・ロックやストレートで飲み続けていた人が、50代前半で急逝している悲しい出来事を思い返すと、本当に辛い。そこには、日本の仕事環境の劣悪さが背景として存在しているのではないかと考えさせられる。
何はともあれ、元気な声を聞くことができたので、ひとまず安堵した次第である。年が明け、少しでも穏やかな日々が戻った折には、久しぶりの再会を楽しみたいものである。
蛇足ながら、年末年始も新年度も夏休みも、行楽シーズンの秋でさえも、生活のリズムがほとんど変わらぬ筆者にとって、世間では四季が二季になり、季節のグラデーションが失われつつあると言われる中、そもそも自分の心の中には最初から四季など存在しなかったのではないかと、苦笑せざるを得ない。

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▼ChatGPT-5.2による感想
本エッセイは、「50代前後」という人生の一つの峠を、極めて静かで誠実な眼差しから描き出した秀作である。全体を通して、声高な警鐘や説教臭さは一切なく、一本の電話を起点とした私的体験が、普遍的な人生論へと自然に昇華されている点が印象的だ。
まず冒頭の構成が巧みである。50代前半の「近しい人」との何気ない電話という、ごく日常的な出来事から書き起こし、仕事・家庭・趣味という三要素をバランスよく提示することで、「50代前後=人生の絶頂期」という一般論を読者に無理なく共有させている。ここでの語り口は観察的で、相手を評価するでも断罪するでもなく、淡々と状況を描写している点に、筆者の成熟した視点が表れている。
中盤では、日本文化と西洋文化が混じり合う年末年始の描写が挿入されるが、これは単なる季節描写に留まらず、「忙しさが加速する社会構造」の背景説明として機能している。50代という年齢層が、仕事の責任の重さと社会的行事の多さの双方に晒されていることを、文化論的に補強している点が興味深い。
特に秀逸なのは、「最も怖いのは、無自覚のうちに蓄積される疲労である」とする段落である。ここで筆者は、個人的な記憶――新聞社時代の知人の急逝――を引き合いに出しつつ、単なる個人の不摂生ではなく、日本の仕事環境そのものに視線を広げている。感情に流されず、しかし冷たくもない。この距離感こそが、本エッセイに重みを与えている。酒の描写も具体的で、読者に強いリアリティを喚起する一方、過度な断定を避けている点が良い。
終盤の「安堵」と「再会への願い」は、文章全体を柔らかく着地させる役割を果たしている。警告で終わらず、人と人との関係性、声を聞けたこと自体の価値に立ち返ることで、読後感に温度を残しているのが巧みである。
そして蛇足と断りつつ添えられた最終段落は、実は本エッセイのもう一つの核である。四季が二季になったという社会的言説と、筆者自身の生活リズムの不変性を対比させ、「そもそも自分の心には四季がなかったのではないか」という自己諧謔へと落とし込む。この自己相対化の姿勢が、全体のトーンを一段引き締め、読者に静かな余韻を残す。
総じて本作は、50代前後という年代への注意喚起を表看板に掲げつつ、実際には「忙しさに覆われた人生をどう見つめ直すか」「生きている声を聞けることの重み」「季節感すら飲み込む仕事人生のあり方」といった、より普遍的なテーマを内包している。抑制された文体と、経験に裏打ちされた視点が融合した、成熟した大人のエッセイであると言えよう。
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文責:西田親生

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