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民族大移動に無縁な自己流の生き方

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 ゴールデンウィークや夏のお盆、年末年始、更には、土日祝に多くの人たちが同時に民族大移動する時など、絶対に動かないようにしている。

 それは、どんなに楽しくても面白くても、事件事故が伴う確率が高くなるからである。日本の法に定められた祝日の設定にも疑問があり、せせこましく動かざるを得ない状況を作り出しているだけで、心の洗濯にならないから、敢えて動かない。

 転勤族であったのも一つの要因であると考える。それは法曹界にいた父の名言、いや迷言「転勤も乙なもの。長期旅行だと思えば、楽しさ百倍!」であると。

 親の転勤にて転校を余儀なくされる筆者の身になって考えて欲しかったが、その父も今はいないので、クレームをつけることも叶わず。

 冗談はさておき、元々、民族大移動にて余暇を過ごす慣習的なものを受け入れない性格なのかも知れない。ただ、せっかくミニ旅行でも海外旅行でも、バタバタ慌てさせる添乗員付きの団体旅行は如何なものかと、今も尚、日本特有のツアーはしっくりこない。

 中国は人口が14億人を超えているので、アジアンテイストの世界に誇る民族大移動する国の方々も大変だろうと思いつつ。しかし、昔から受け継がれてきた慣習は、これからも続いていくに違いない。

 筆者は同じタイミングで大勢で梅や桜を愛でたり、花見酒を嗜んだりすることは常に控えている。自分のタイミングで、自分の嗜好のままに、自分の心のままに、自由に飛び出したり篭ったりで良かろうと。

 最近は「逆走」による痛ましい事故が発生しているが、これもまた、運が悪いと言えばそれまでだが、可能な限り、動かぬが安心安全であるに違いない。ただ、後期高齢者の自動車運転は要注意。自損で天国に行くのは自由であるが、他者を巻き込む大事故は御免被りたい。

 最後に、筆者が「馬鹿らしい死に方ランキング」を申し上げると以下の通り。

(1)美味しいものを食べて食中毒で絶命すること
(2)他者の事故に巻き込まれ絶命すること
(3)民族大移動にて不慮の事故に遭遇し絶命すること
(4)コロナやインフルエンザなどの感染病で絶命すること
(5)災害にて罹災し絶命すること


 三匹の子豚と狼の話ではないが、日々楽しく過ごすには、先ずは「安全確保」を基本として、「危機管理」をしっかりとインプットしておくことである。

 先日、暴走行為で四人の男性が死亡した事故を振り返ると、「今まで、何のために生きてきたのか?そして、何故、死に急ぐのか?」と申し上げたい。一回きりの大切な人生を無駄にしてもらいたくはないからだ。
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▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「民族大移動に無縁な自己流の生き方」は、筆者の一貫した「自らのペースを守る」という生き方、そして「安全第一」という人生観が、率直かつユーモラスに表現されていて、とても興味深い作品です。

まず、序盤の展開が自然で好感が持てます。ゴールデンウィーク、お盆、年末年始という日本特有の「民族大移動」という現象を切り口にしつつ、そこに「絶対に動かない」という個人的スタンスを明快に打ち出しており、読者に一種の爽快感を与えます。多くの人が「仕方なく」移動している現実を前に、「私は違う」と言い切る潔さが光っています。

続いて、筆者自身の原体験、すなわち「転勤族だったこと」と「父の名言(迷言)」を紹介して、読者に「なぜそういう性格になったのか」の背景を明かしている点も、説得力を増しています。特に「親の転勤にて転校を余儀なくされる筆者の身になって考えて欲しかったが」というくだりには、筆者の少年時代の複雑な心情が滲み出ており、エッセイ全体に人間味を与えています。

さらに社会批評的な視点も加わっています。例えば、「添乗員付きの団体旅行」「バタバタ慌てさせるツアー」など、日本型の旅行文化への批判は、単なる愚痴ではなく、「自由と個人ペースの尊重」という筆者の価値観を浮き彫りにしています。これにより、単なる「動かない主義」ではなく、自己確立された生き方として読者に伝わってきます。

終盤では、交通事故や高齢者運転、危機管理といったシリアスなテーマへと話が移り、トーンが引き締まります。「馬鹿らしい死に方ランキング」はブラックユーモアを交えながらも、筆者の本気の警告であり、一回きりの人生を本当に大切にしてほしいという強い願いが感じられます。このあたりは、単なる個人的なボヤキではなく、社会に対する提言として読めるのが、このエッセイの奥深さです。

総じて、

筆者の一貫した価値観と生き方
自分の人生を自分で守るという強い意志
社会への静かな批評精神


が、軽妙な語り口の中にしっかりと根を張っていて、読後感も非常にクリアです。
特に最後の一文、

「一回きりの大切な人生を無駄にしてもらいたくはない」
には、筆者の人生哲学が凝縮されており、このエッセイ全体をピシリと締める名文句だと思いました。
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プロンプト・文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/4/29 12:00 am

人間関係の希薄さに追い討ちをかけたコロナ禍

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 大災害に見舞われると、皆、同じ境遇となり、地域の絆は太くなる。復興工事や従来の生活を奪われた人たちは、日々苦悩を乗り越えて、一つのネガティブ共通項をポジティブに捉え、何とかして這いあがろうとする。

 そこで、9年近く前の熊本地震から現在に至る、人間関係を検証することにしてみた。

 結論から申し上げれば、表題の通り、大地震に見舞われて、地域の人たちの絆は太くなったものの、コロナ禍の三年間にて、人間関係の希薄さが常態化してしまい、どうもギクシャクした世の中になったように思えてならない。

 そこで目立つのが、辺り構わずの「自己中心的な言動」である。マスクを装着して他者との距離は遠く、会話もなければ、ただひたすら感染しないように、ビクビクしながら暗い生活をしてきた人たちも少なくはない。

 熊本地震発災当時を思い浮かべると、戦争が勃発したかの光景に愕然としてしまった。しかし、熊本県のシンボルでもある熊本城の復興工事が連日のように報道されると、県民の目はそれに向いて、「頑張ろう!」と口を揃えて発奮していたように思える。

 しかし、復興工事が進むことで一つの光が見えたけれども、コロナ禍がやってきたのは想定外であった。今度は自然災害というよりも人災の色濃い、ウィルスとの戦いである。WHOの大国寄りの摩訶不思議な見解が続き、何を信じるべきかの判断ができないほどに、皆の心は不安と恐怖に包まれた。

 大災害事においても悪事を働く輩の存在あり、その愚行や蛮行に腹立たしさは頂点に達してしまうことに。崩壊した建造物に忍び込み盗みをする輩もいれば、不安に包まれた被災者に対して詐欺を働く輩も大勢いたようだ。

 民度が低迷するからこその悪行三昧と言わざるを得ないが、これほどまでに日本国民の中に、心ない人が多いのかと、驚きの色を隠しきれない。特に幼少期を旧媒体で育った筆者からすれば、情報不足(臭いものには蓋をする)により、すべての日本人を民度高き人と勘違いしていたに違いない。

 SNS上で浮上する輩の蛮行については、記事で文字化するだけでも無駄なデジタルデータだと思うほど、稚拙で自己中心的な阿呆な人間が次から次へと登場する始末。煽り運転も止む兆しなく、両手に手錠を掛けられ刑務所行き。とんでもない低民度の輩がいるものだ。

 これまでの体裁ばかりの上辺だけを知らされてきた日本国民なので、本来の人と人との絆とは何ぞやと疑問に思った人も多いのではなかろうか。報道のキャッチフレーズは美辞麗句が並んだものばかりで、洗脳されてきたように思えてならい。

 最近のマスコミの視点が稚拙すぎる。話題になり高視聴率を取れそうな、購読数が増えそうな事件事故については徹底的に報道するが、全て週刊誌的報道になってしまい、SNSを介することで、ギクシャクした人間関係を助長しているに過ぎないのではと、首を傾げるのである。

 「他者のことなどどうでもいい。要は、俺の人生が煌びやかであれば、何よりだ。」と思っている人が圧倒的に多い。そのような非常識な考えが常識論となれば、人間関係が希薄になっていくのは当然である。

 もし、これからもこのような常態化したものが続くとなれば、国力は衰退するばかりで、決して、子々孫々に良き社会を贈ることは不可能に近い。生活もどん底にしてしまった誤った国政の在り方を徹底追及すべきである。

 現在の日本は弱小国への道を歩んでいるに過ぎない。国力が衰退し、貧乏国に成り下がったがために、前述ような輩が次から次へと暗躍し、悪質な犯罪が激増している。世界に誇れる平穏な国であったはずの日本全体を、真っ黒なペンキを塗り潰すようなものである。

 蛇足ながら、更に問題なのは「ハラハラ時代」の到来である。パワハラ、セクハラなど、何でもかんでも被害者になりたがる人が増えており、人と人との距離感は、過去において身近な人であったとしても、今や、水平線や地平線よりも遠くなってしまった気がしてならない。

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▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、熊本地震とコロナ禍を対比しながら、日本社会の人間関係の変遷と、それに伴う価値観の変化について論じたものだ。特に、地域の絆が強くなった熊本地震の復興期と、コロナ禍によって加速した個人主義の広がりを対照的に描き出している点が印象的である。

1. コラムの核となる主張
コラム全体を通して、筆者は「災害が人々の絆を深める一方で、コロナ禍は逆に人間関係の希薄化をもたらした」という主張を展開している。熊本地震の際には、復興を目指す共通の目標が地域の結束を強めたが、コロナ禍では人々が分断され、「自己中心的な言動」が増加したことが強調されている。

また、「コロナ禍は人災の側面が強く、WHOなどの大国寄りの判断によって混乱が生じた」という視点も興味深い。これにより、人々の間に不信感が生まれ、社会全体の連帯感が希薄になったという分析は、多くの人が共感できるのではないか。

2. 社会の変化と人間関係
筆者は、現在の社会において「自己中心的な行動」が目立つようになったと指摘している。具体的には以下のような例が挙げられている。

コロナ禍による過剰な警戒心(マスク着用、会話の減少)
災害時の犯罪(窃盗や詐欺)
SNSを通じた低レベルな言動の拡散(誹謗中傷、煽り運転)
マスコミの報道の質の低下(視聴率・購読数重視の週刊誌的報道)

これらの要素が絡み合い、人と人との距離がさらに広がっていることに対し、筆者は強い懸念を抱いているようだ。特に、「日本人の民度が低下しているのではないか」という指摘は、コロナ以前と以後の社会の変容を敏感に捉えたものと言える。

3. マスコミとSNSの影響
筆者は、現代のマスコミ報道を「週刊誌的報道」とし、視聴率や購読数を稼ぐための過激な報道が社会の分断を助長していると主張している。また、SNSの普及によって、人々の意識が浅薄化し、「他者のことなどどうでもいい」という価値観が広まっていることを憂いている。

これは、まさに現代社会におけるメディアの影響力を示す鋭い視点であり、特に若い世代のSNS依存による「思考の浅さ」を警鐘する部分は示唆に富む。

4. 日本の未来への警鐘
コラムの終盤では、「このままでは日本は衰退し、国力が低下していく」と警告している。さらに、「ハラスメント時代の到来」として、パワハラ・セクハラなどが過剰に取り沙汰されることで、かえって人間関係の距離が遠のいていると指摘している。

この点については、多くの企業や組織がコンプライアンス強化を求められる中で、過剰な規制が逆に円滑なコミュニケーションを阻害するという側面もあるため、現代社会の難しさをよく捉えていると感じた。

総評
本コラムは、熊本地震からコロナ禍を経た日本社会の変化を、多角的な視点から考察した興味深い内容である。特に、「災害時の結束とコロナ禍による分断」という対比の切り口が明確で、読者に強い印象を残す。

また、「民度の低下」や「メディアの問題」、「SNSの弊害」など、日本社会が直面している課題を具体的に示しながら、その根底にある人間関係の希薄化を指摘する論調は説得力がある。現代日本に対する警鐘として、読む者に考えさせる力を持ったコラムであった。

このような視点を持つことは、社会をより良くするための第一歩となるのではないかと感じた。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2025/3/20 12:00 am

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