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街並みや道沿いに、看板広告は必要か!?

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 最近、久しぶりに熊本市内の道をあちこち車で走り回っていると、街並みや道沿いに大きな看板が目立って仕方ない。それも統一感のないものばかりで、異様な景色に見えてしまったのである。

 それから、熊本市内の東バイパスを通っていると、次から次に大きな看板が覆い被さるように現れる。はて、今の時代、このような大きな看板が本当に必要なのかと、少々、首を傾げてしまった。

 観光地に行けば、これまた看板広告が、花に例えれば八重桜のように道路沿いに鈴なりとなっている。

 これが日本らしいと海外からの観光客には物珍しく楽しいものだと言う。残念ながら、美しい景観とは言い難い。また、電線も埋設していないとなれば、蜘蛛の巣の中に、看板が入り乱れているようで、目がチカチカしてしまう。

 それから田舎に足を運ぶと、民家の壁に、昔取り付けられた錆びた金属製の看板が残っている。「〇〇〇〇綿」とか「たばこ」とか、風情がないとは言えず、懐かしさもあり、ぷっと吹き出し笑いとなってしまう。

 大阪の道頓堀に行けば、ご存知の通り、電飾広告が犇めき合っており、大阪らしい景観を創り出している。見方を変えれば、立派なアートでもあり、また、胡散臭くもあり。このアンバランスさが印象深い。

 しかし、ヨーロッパの古都を訪ねると、新都心ではビルの壁面のビル名やロゴなどはあるものの、日本のような派手な看板が密集したところは皆無である。電線なども埋設してあり、風通しの良い、写真であれば抜けの良い撮像例を見ているようで心地よい。

 現在、超高速通信の時代となり、インターネットも我々庶民生活に欠かせないものとなっている。この環境下で、昔ながらのでっかい看板広告が必要なのか否かを自問自答したのであった。

 あるビルの高所壁面には大型ビジョンを設置して、道路T字路突き当たりで停止する車から動画が垣間見れるようになっている。また、市内の繁華街に行けば、夜は電飾看板が歩道に星が降るほどに掲げてある。

 筆者は、看板広告を反対はしないが、余りに美観を損ねるようならば、統一感を持たせた看板に切り替えるなり、観光立県を目指すのならば、都市計画においては、風致地区を指定し、景観を美しくすることに尽力願いたい。

 今の時代、スマホはほとんどの人たちに不可欠なツールとなっている訳で、これまでの大きな看板広告などよりも、QR-CODEやAR(Augmented Reality/拡張現実)などを多用して、時代に合致したシンプルなものになれば、風通しが良く、見晴らしの素敵な街並みになりはしないかという気持ちもある。

 時には、電話やファックスにて、詐欺的な広告勧誘もあるようで、このような看板広告がこれからの時代に必要なのか否か。バス停のベンチ背もたれの広告、市電や列車内での看板広告やチラシ・ポスターなど、本当に必要なのか否か・・・。

 日本ならではの看板広告の慣習は、これからも延々と続くのだろうか。アーケード街の各店の前にある立て看板も、酔っ払いが蹴飛ばし壊すこともしばしば。何となく昔ながらの看板広告を見ながら、再び、自問自答を繰り返すのである。

 何はともあれ、景観の素晴らしい都市計画は、シンプルが一番である。熊本市の場合は、昔から道路行政がお粗末なために直線道路が少なく、スネイキーな道路や一方通行の箇所が多すぎる。

 道路が曲がりくねっていると、風通しは悪くなるのは当然であり、見通しも悪く、景観も抜けの悪い絵面となってしまう。そこに、不揃いの大きな看板が犇めき合い、どうしても息苦しい街の雰囲気となり、雑然としたものになってしまうのである。

▼ChatGPT(生成AI)による評価

このエッセイは看板広告に関する独自の視点を示しており、興味深いテーマに取り組んでいます。以下にいくつかの評価ポイントを挙げてみます。

1. 見出しと構成: エッセイの見出しは具体的であり、読者に関心を引くものです。また、構成も明確で、段落ごとに異なる観点に焦点を当てています。この構造は読みやすさを促進しており、論理的な展開があります。

2. 具体的な例と描写: 著者は具体的な場所や状況を挙げ、それに対する感想や意見を述べています。例えば、熊本市内や道頓堀、田舎など、様々な状況を通して、看板広告の存在に対する異なる視点を提示しています。

3. 論点の整理: 看板広告の必要性や美観を損ねないための提案についての論点が整理されています。例えば、観光立県の視点や都市計画の重要性、現代のテクノロジーの活用など、幅広い視点から問題を考えています。

4. 個人的な意見: 筆者の個人的な意見や感情が文章に反映されており、これが読者との共感を生む要因となっています。例えば、「ぷっと吹き出し笑いとなってしまう」など、筆者の感情が文章に表れています。

5. 言語と表現: 言葉の選び方や表現が適切で、読者が筆者の意図を理解しやすくなっています。また、比喩やメタファーを活用して、具体的な情景を読者に伝えています。

総括: このエッセイは興味深いテーマに対して独自の視点でアプローチしており、読者に考えさせる要素が多く含まれています。また、論理的な構造や具体的な例、個人的な感情の表現がうまく調和しています。
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写真・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/1/16 12:00 am

曖昧な表現が多い文章は、ツッコミどころ満載!・・・唐突なる『依頼書』について。

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 数日前に、面識のない方から『依頼書』が届いた。

 あくまでも、その方を揶揄するものではない。『依頼書』であるからには、その内容が筆者へ正確に伝わる必要があり、筆者はその依頼内容を十二分に把握した上で、判断を下さねばならない。

 先ず驚いたことは、重要な文書であるべきが、会話調の表現があちこちに目立ち、やや違和感を持たざるを得ず、その方の本音がどこにあるのか、どの程度深く考えているのかなど、読めば読むほど、ツッコミどころが満載となった。

 開封早々に違和感を覚えたのは、『御連絡・御依頼』というタイトルである。この場合は、『○○○○○依頼について』というように、アイキャッチ良く、読む側にダイレクトに本旨が伝わるタイトルを付けるべきである。

 次に、(1)『まずもって』、(2)『つもり』、(3)『おそらく』、(4)『かもしれない』、(5)『連絡差し上げました』、(6)『ご提示をさせていただきたく考えております』などの表現には、首を傾げてしまうばかり。

 理由は、以下の通り。

 (1)は『先ず』で宜しかろうと。(2)は曖昧な気持ちの表れとして受け止めざるを得ない。(3)、(4)などの『推論』は『依頼書』の中では不要である。(5)は冒頭で書くべきもので、本文後半に書くべきものではない。(6)は長ったらしく読むに耐えない。

 決して、この『依頼書』を頭から否定し、小馬鹿にして読んでいる訳ではない。しっかりと、自分自身の頭の解析装置を使って、自らの読解力の訓練並びに自己診断しながら拝読していることをご理解願いたい。

 中でも、相手に対して遣ってはならない禁句は、(2)『つもり』である。『○○○するつもりはありません』ではなく、断言する必要がありはしないか。よって、『○○○することはありません』と書くべきだ。

 上述のように、相手に『真意』を伝えるべき大切な『依頼書』であれば、全てに『確証』をもって『断言』しなければ、折角届いた重要な『依頼書』に対して、筆者はその文意を鵜呑みにすることはできない。

 『依頼書』や『企画書』などは、思いの外、容易に書けるものではない。自戒を込めての話だが、特に面識のない方へ『依頼書』などの書簡を送付する場合は、アイキャッチ宜しく、理路整然とダイレクトに、且つ、シンプルに書くことが必要だ。

 今回、唐突なる『依頼書』を拝読し、日頃の自分自身の文章に対しても考えさせられ、非常に勉強になった。

CHIE2022


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写真・書・文責:西田親生

                   

  • posted by Chikao Nishida at 2022/11/14 12:00 am

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