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親を取るか、仕事を取るか!?・・・我が半生における最大の采配ミス。

chikaonishida20220224


 1995年にインターネット事業を本格化する決断を下した。まだ、国内ではホームページを持つ企業は1000社あるかないかの、インターネット黎明期である。

 日本経済新聞社が初の全国インターネット参加企業のURLを収めた書籍を出版した。勿論、そこには当社サイトも掲載されていたが、まだまだ、インターネット自体が何物なのか、懐疑的に見る人の方が圧倒的に多かった。

 例えば、サイトの名称も色々で、毎日新聞社のサイトは『ジャムジャム』、リクルート社のサイトは『ミックスジュース』といった具合である。因みに、当社は『The Rosetta Stone』としていた。

 NTTも現在のようにOCNなど存在せず、クラスCのレベルにて、インターネットの動向を静観していたように思えてならない。

 当社へ、既に、東京の大手旅行社や某航空会社システム関連から打診が来ていた。よって、1996年の年明けには熊本から東京進出を図り、渋谷を拠点にインターネット事業をより本格化の準備をしていたのである。

 1995年12月5日、熊本市内にある当時のニュースカイホテル(現在のANAクラウンプラザホテル熊本ニュースカイ)にて、大々的にインターネット講演会が催され、そこで筆者も講演者三人の一人として、話をさせて頂いた。

 数百人集まったインターネット講演会。講演終了後に、何故か胸騒ぎがしてならない。実は、母が糖尿病の合併症にて腎臓を悪くし、2ヶ月半ほど入院中であった。

 インターネット事業本格化の動きのために多忙を極め、一度も入院中の母を見舞っていなかった。ところが、この日だけはどうもモヤモヤしており、胸中に鉛の玉があるように息苦しかった。

 よって、午後8時前に、母の入院先の病院へ足を運び、様子を伺うことにした。部屋に入ると、憔悴しきった母の姿が眼前にあった。父の話では、回復に向かっているとのことだったが、真逆の様子に愕然とした。

 筆者が風邪気味と聞いて、母が渡してくれたのが『うがい薬』。何とも、入院患者が見舞いにきた人間へ薬を渡すなんぞ、聞いたことがない。それから母に挨拶をして、オフィスへ向かった。しかし、帰社しても胸騒ぎが収まることはなかった。

 翌日のことである。あまりに気になるので、昼過ぎに病院へ電話を掛け、母と話すことができた。僅か数十秒しか話せなかったが、電話を切る間際に、母曰く「死ぬとは思わないけど、立っているのが辛いので、電話切りますよ。インターネット事業頑張ってね!」と。プツッと電話の切れる音がした。

 次第に胸騒ぎはより強くなって行く。そして12月7日の深夜午前0時半頃に病院から連絡が入り、母の容体が悪化し、瀕死の状態であると言う。残念ながら、筆者の胸騒ぎが的中したようだ。

 病室へ駆けつけると、母の口や鼻には管が差し込まれ、既に意識不明の状態に陥っていた。何度か声を掛けても、母は微動だにしない。ただ、不思議だったのは、瞑っている眼から涙が滲み出てきたのである。

 もしかすると、筆者の声が聞こえているのかも知れない。痛かろう、苦しかろうと思いつつ、声を掛けることを止めることはなかった。しかしながら、午前3時半過ぎに心電図の波形が止まり、ピーッという音とともに、担当医の「ご臨終です」の一言が聞こえてきた。

 前置きが長くなったけれども、本日のお題はこれからとなる。

 翌年1996年にインターネット事業の拠点を東京渋谷に移転する予定が、この母の死で、どうすべきかに迷いが生じてきたのであった。

 父曰く、「墓守は誰がするんだ!?」と聞かれると、「渋谷で遣るから、お父さん遣ってよ!」とは言い難い。それから一週間ほど考え込んだ末に、拠点を東京へ移すことを諦め、熊本市内でインターネット事業を継続することを決断したのである。

 それは、今思えば、母の最後の言葉である「インターネット事業頑張ってね!」を裏切ることになったのかと、今も尚、悔いばかりが残る、当時の決断。

 今だからこそ言えることだが、母を思い、父を思い、自らの意志で事業展開をしつつある中で、分水嶺に立たされ、決断したことが裏目に出たように思えてならない。

 しかし、その当時の筆者の決断が正しかったのか否かは、筆者本人でさえも判断できない。

 ただ、若い方々がこれから起業する上で、いろんな障壁があったり、不慮の事故などで支障が出てくる可能性も無きにしも非ず。しかしながら、今の筆者が言えることは、『全てを払い除けてでも、夢実現に向けて爆走せよ!』と申し上げたいのである。

 『たられば』の世界ながら、1995年以来継続中であるインターネット事業ではあるが、筆者の半生における、最大の采配ミスであったと感じている。

 何故ならば、Yahoo Japanもライブドアも、本格始動は1996年7月1日以降だったと記憶している。黎明期であるが故に、当時のインターネット事業成功の可能性は絶大なるものであったに違いない。

 末筆ながら、母から貰った赤いキャップの『うがい薬』は、27年の歳月を経て、今も尚、洗面所のボックスの中で生きている。


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文責:西田親生

                                       

  • posted by Chikao Nishida at 2022/10/25 12:00 am
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