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私情を絡める経営者は、経営者に非ず。

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 特に、雇われの身分にて代表権を得た経営者が、私情を絡めて経営に向かえば、それまでの企業イメージが一変する可能性がある。

 以前、こういうことがあった。何十年も挨拶状が送ってきていた企業から、急に年賀も挨拶状などの書簡も、全く送られて来なくなったのである。

 理由は、代表権を得た経営者(余所者)がこれまでの履歴を度外視し、旧体制側を全面否定して、身勝手な行動により、挨拶状のリストを私情を絡めて改竄したのである。

 それがサービス業の企業となれば、とんでもない失態であり、僅か数年の代表権を行使して旧体制側の履歴を無視するとは、その企業の歴史と伝統を愚弄することに繋がってしまう。本末転倒と言うしかない。

 特に、地方の中小企業でこのような事態が発生すると、企業改革が全く別次元で動き出し、その地域に根差したものを否定するために、その結末は言わずもがな。必ず、愚行に及んだ代表者や加担した人物に降り掛かる。

 自らの背中を客観視できず、自己愛に溢れた経営者は、自らの挙動不審、公正中立の欠落、偏った思考を見誤り、数十年に及び勝ち取ってきた「社会的信頼」を崩壊への途へと導いてしまう。

 このように恥ずかしさの境界線を逸脱した経営者は身勝手なもので、特に非情なる経営者、私情を絡める経営者は、自らの好き嫌いや興味あるなしにてよって動き、その企業全体を大局的に見ることができない。

 如何に企業の代表者と雖も、その企業の代表であり、外界では公人でもなく一般人である。「職位を取れば唯の人」、社内のみに通用するだけの「無価値な職位」である訳だ。

 それを、対外的にも自らが偉人になったかのように思い込む、稚拙な雇われ経営者も少なくはない。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を忘れ、自らが突出して有能な経営者になったと思い込むところは、失笑でしかない。

 代表権を得るということは、絶大なる実権を握るというものではなく、絶大なる重責を背負うことになる。

 そこで、重責を忘れてしまい、傲慢な振る舞いの日々で、社員へは上から目線、言葉遣いも汚く荒々しくしていると、背後には社員の気配は皆無となってしまう。これもまた、世の常である。

 私情を絡めた人事異動、対外交渉、企業戦略など、すべてが歪(いびつ)なものとなり、気づけば、後戻りができないほどに信頼を失墜してしまうのがオチとなり、失敗だらけの道化師になってしまう。

 更に、私情を絡めた代表者及び幹部の「密談」が多い企業は、コンセンサスが取れず、社員間情報共有も徹底されず、常に「疑惑の念」に包まれた磨りガラスの向こうの経営陣の姿が見え隠れするばかり。

 畢竟、代表権を得た経営者は、「ガラス張りの環境づくり」が先決だ。「密談」をなくし、中立公正を守り、全てを威風堂々と語り、中間管理職やその他社員の信頼の厚い経営者として歩むことが重要だ。

 しかし、その代表権を得た経営者が過去において、傲慢や不義理などの失態の繰り返しを長きに亘り行っていたとすれば、本物の信頼を得るには、これまでの数倍、数十倍の懺悔と自己改革に努めなければ、微々たる信頼さえも戻っては来ない。

 部下の心に傷を残すような暴言やあるまじき裏切り行為などが過去にあれば、信頼を寄せる部下の存在は皆無となるのは当然のことである。

 「企業の代表者だから人格者である。」は、全く通用しないのが世の常であり、大抵の場合、その企業イメージとは裏腹に、腹黒い輩が代表権を得ているケースも少なくはない。従って、経営バトンタッチの時に、必ず大騒動がつきものとなる訳だ。

 経営者の鑑となるには、「人格」、「敬愛の念」を尊び、人を人として扱い、皆が羨望の眼差しで見るような経営者像でなくては、壁の裏側で失笑されるだけの話となってしまう。

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  • posted by Chikao Nishida at 2023/6/28 12:00 am

苦手意識克服は、心から好きになることだ。好きにならなきゃ、何だって貫徹できるはずがない。

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 自らが好まぬものを無理して遣っていても、円滑に事が運び、目標を達成することなんぞ、夢のまた夢となる。

 仕事となれば、好むと好まざるとに関わらず、早期達成しなければならない。それは担当者としての責務であり、出来て当たり前のこと。達成しなければ能無し落ちこぼれのレッテルを貼られるだけである。

 何故できないのか!?それは、仕事内容を好き嫌いで決めてしまうからである。それはプロとは言えない。仕事内容を選り好みするくらいならば、初手から上司に相談し、配置転換を願い出ることだ。

 人でも仕事でも物でも、皆同じこと。心から好きにならねば、何事も動かず、何一つ貫徹しない。プロ意識の欠落と言うか、だらし無いと言うか、情けないと言うか、実に大人気ない。

 しかし、言葉巧みに、言い訳三昧にて逃げることもできないことはない。ただ、それは積極姿勢に欠け、仕事放棄と見做されるのみ。一度「遣る!」と口に出したのであれば、全て貫徹せよ。遣り終えてこそ、信頼のおける人間と言える。

 だらだらと時間稼ぎで逃げ回る、自分の背中を恥ずかしいと思わぬ人間は、外面良くても魅力はない。そこで、何事にも好奇心を持ち挑戦すれば、苦手意識も吹っ飛んでしまい、全てが好循環に転ぶようになる。

 目標達成の本当の喜びを知らぬから、日々変化のない、進化のない事をちまちまと遣っている。子供でも、一つ目標がクリア出来ねば、恥をかかぬよう、何とか出来るまで歯を食いしばる。大人には、その根性や執念がない。

 鉄棒で逆上がりができないと、周りから笑われる。何度も何度も挑戦して逆上がりができると、周囲は大喝采となる。それが、達成時の喜びだ。だらしの無い大人は、鉄棒にぶら下がったまま、それ以上に努力をせず、地上にポトリと落ちてしまう。

 若さの素晴らしさは、チャレンジ精神が溢れ出ているところだ。その若き頃のチャレンジ精神を忘れず、日々努力を積み重ねている大人は素晴らしい。狭い領域で狭い了見にてボケッとしている大人には、残念ながら、それが理解できない。

 何と無様な人間であろうか。滑舌悪く、覇気もなく、ただただ言い訳ばかりを考える大人たち。よって、謝罪を要する記者会見では、切れ味の悪い言い訳しか聞いた事がない。恥を知れと、声を大にして物申したくもなる。

 今回の熊本県南の私立高校暴力事件も然り。本当にスポーツが好きで、生徒が自分の子供のように大好きで、指導することが天職のような本物のプロであるならば、あのような無様な記者会見を行うことはない。

 最後の最後に尻尾を出して、逃げ場を失い、苦し紛れに学校全体のイメージダウンに火を注ぐのだから、指導者、教育者としてばかりではなく、人間として失格だと言わざるを得ない。暴言や暴力で弱者を抑え込むのは、蛮行としか言いようがない。実に残念なことである。


▼スズメバチと薔薇の花(熊本県農業公園)
SUZUMEBACHI


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  • posted by Chikao Nishida at 2022/5/21 12:00 am

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