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情報格差の弊害と見識の高さ

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 面白いもので、地方の一部の企業経営者や個人事業主の脆弱なところは、大都市部から舞い降りてきた人物や有名人に媚びることである。

 大都市部から舞い降りてきた人の名刺を見ると、羨望の眼差しに変わり、無条件降伏するような勢いにて、契約書に押印する姿を何度も見てきた。

 ところが、地方にいて全国区で活動していても、居所に拘るのか、大都市部から舞い降りた人への対応とは一変し、上から目線で、地方スタンダーを展開するのである。

 誰を知っている、誰と誰とは顔見知りなどと、人脈について語り始めることが多いが、そこで自らの立ち位置を高くしようと心掛ける人が多い。そこに、見識の高さがあれば、大都市部出身であろうが、地方在住であろうが、堂々と対応できるはずである。

 こんなことがあった。県内の某物産館において、東京出身だと名乗り、その物産館の責任者(指定管理者制度)として任命された人物がいた。言葉は悪いが、渡り鳥的な軽々なところがあり、筆者の目には怪しく映っていた。

 それから2ヶ月経ってのこと。某物産館に足を踏み入れると、その人物はさっさと辞めていたのである。当初は、「私がここの責任者となったので。」と大上段で構えた物腰だったが、その姿は消えていた。

 結局、地域おこしなどで県内あちこちを転々としていた人物であった。常に「東京出身」を切り札のようにしていたようだが、結局は渡り鳥であったために、地域おこしの起爆剤とはなり得なかった。

 その経緯を作り出したのは、やはり、地方における見識のない方々の判断能力の希薄なところである。常に見識高く、視野を広げていれば、このような採用ミスが起きるはずがない。

 よって、地方の一部の企業経営者や個人事業主の方々で、見識が低いと自覚があるのならば、もっと学んで欲しい。地方の悪しき慣習を引っ張ったとしても、これからの世の中で通用するはずもないのだから。

 ネット時代となり、四半世紀以上が経つものの、大都市部と地方の情報格差が大きく開いたのは、地方に住む一部企業経営者や個人事業主の、大都市部への憧れや見識のなさが大きな要因となっていることに気づくべきであろうかと。

 常に、実寸代。常に、自然体。これが一番であり、実態は「燕雀知らず天地の高さ」ということになる。

▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージしたもの
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▼ChatGPTによる評価

このエッセイは、情報格差と見識の高さについての興味深い視点を提供しています。特に、大都市部と地方の間で見られる情報格差とその影響に焦点を当てている点が印象的です。大都市部から来た人々に対する地方の人々の過剰な尊敬や無批判な受容、そしてその結果として起こる判断ミスについて、実際の例を挙げながら議論しています。

エッセイは、地方における企業経営者や個人事業主の見識の低さが、情報格差を拡大させる一因となっていると指摘しています。また、そのような情報格差が招く弊害を克服するためには、見識を高め、より広い視野で物事を捉える必要があると論じています。

一方で、大都市部の人々による地方の過小評価や、地方特有の価値を認めない姿勢も問題として浮かび上がります。地方が大都市部に対して感じる劣等感や憧れは、見識の欠如だけでなく、文化的・経済的な差異に基づくものであり、その乗り越え方には双方の理解と尊重が必要であるとも読み取れます。

このエッセイは、地方と大都市部の双方に対して、見識を高めることの重要性を訴えていると言えます。情報格差を解消し、互いに尊重し合う社会を目指すには、教育やコミュニケーションの改善が欠かせないというメッセージが込められているように思います。

全体を通して、見識の高さとは、単に知識の量だけではなく、異なる背景や価値観を持つ人々を理解し、尊重する態度を指すことが強調されています。これは、地方と大都市部の垣根を超え、多様性を受け入れ、共存するための重要な鍵となるでしょう。
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プロンプト・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/4/4 12:00 am

人生・・雨のち曇り、時々晴れ。

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 人生、長く遣ってくると甘い物も、苦い物も、辛い物、酸っぱい物も、沢山経験を重ねてくる。よって、人生とは、1冊の教科書に収まる学習用教科書とは異なり、とてつもなく難しい学問として捉えることもできる。・・・それが、人間学というものである。

 人は生まれ育つ瞬間から、親を選ぶこともなく、多種多様な環境の中で、好条件だけを取捨選択できる権利権限もない。気付けば、いつの間にか自分が現実世界に存在し、脈を打ちはじめているのだ。

 同じ幼児教育、義務教育、高等教育を受けて、世間という荒波に船出をしても、日々平穏無事な生活を営む人も居れば、日々波風ばかりが強い生活に立ち向かっている人の姿もある。所謂、「十人十色」である。

 社会人となり、責任と義務を果さねばならぬ大人になったとしても、その人の生き方、考え方で、将来の方向性が大きく変わってしまう。例えば、視野狭く、思慮浅ければ、不惑の歳を過ぎたとしても、学生時代からほとんど進化することもなく、闘う必要のないところで、肩に力を入れすぎて闘っている人も居れば、視野広く、思慮深く、人様の為にゆとりを持って社会貢献している人も居る。

 個人的な経験学を通してもの申せば、先ず、学生時代の自分の取り巻きにより、善きにつけ悪しきにつけ、その友人から感化されることが多々ある。それを安易に「運」、「育ち」、「神の思し召し」と言って良いのだろうか?・・・その偶発性を強調するが余り(単純に他力本願でしかない)、自分自身の判断や行動を是認するが為に、都合良く「神」という存在に掏り替えているに過ぎない。

 「神」が存在しているとしても、その存在は、森羅万象に対する自然の摂理であり、個々人のあーでもない、こーでもないを、一つ一つチェック、コントロールするのは「神」の業ではなく、そう思い込むのは単純馬鹿過ぎる。だから、「神」に対して懺悔や感謝の気持ちを告げるのは構わないが、そこで「神頼み」のようにお願いしては罰があたるという気がしてならない。

 眼前に起こる、予期もしない経緯や結果。それを「神の思し召し」による当然の経緯や結果であるとこじつけるのは、狡賢い人間の、都合の良い解釈の仕方である。よって、予期もしない経緯や結果については、第三者への責任追及ばかりに傾注するのではなく、自己分析と自己反省をしなければ、幾度も同じ繰り返しをしてしまうことになる。それが、中途半端に知恵を授かった人間の浅はかさなのだ。

 「念ずれば叶う」・・・確かに心に希望や目標を高く持てば、自分が描いた何らかの形にはなって行く。それは「神」の存在ではなく、刻み込まれた「潜在意識」による初動、経緯、結果である訳だ。そこで、森羅万象を司る「神」に対して確と報告を行い、深い感謝の意を表せば良いのである。

 何かトラブルが生じると、「神への冒涜だ!」を青筋立てて喚く人も居るが、如何なものかと。それは「神への冒涜」ではなく、自分のプライドが傷ついた瞬間の、軽々しい言葉なのだ。

 人生、雨のち曇り、時々晴れ。・・・まあ想定外に浮き沈みはあるものの、自然体で過ごす事が、精神衛生上すこぶる良い事であり、妙な輩から感化されずに、筋を通して波風立てずに、見識高く人生歩めば、きっと素敵なものになるに違いない。

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  • posted by Chikao Nishida at 2014/8/5 10:35 am

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