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爺さんがiMacで綴った回想録・・

▼先見塾熊本でMacの画面の動きに見入る塾生
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 今日は先見塾山鹿の2回目の研修会であった。塾生は最新のMacBook Proを購入したので、筆者のMacオペレートの様子をiPadとシンクロさせて、その画面を見せながら、解説していった。

 今回のテーマは、「マイコン、オフコン、パソコンの歴史とOS戦争・・・」、「原点となったタイポグラフィ」、「RGBのフルカラーは何故1677万色?」、「ブラインドタッチとショートカットキー」などの講義を行いながら、Macを自在に操る面白さを体験してもらった。

 塾生曰く、「ブラインドタッチのコツが少し掴めたようです。また、何となくですが賢いツールとして如何に活用するかが重要であるかということがよく分かりました。」と、以前より、かなり思考回路にカンフル剤を自ら打ち込んだように感じた次第。

 オフィスに戻り、塾生の嬉しい言葉を思い出しながらデータを整理していた時に、たまたま、4年前に他界した父(享年八十六歳)の回想録のデータが飛び出してきた。父は法曹の道を歩んできた厳しい人物だったが、ちょうど還暦を迎えた頃に、筆者がワープロを教え、更に、八十歳になった時にiMacをプレゼントして、それで自叙伝を書き綴るように(実は認知症予防の為の秘策)勧めたのだった。

 たまたま他のデータを整理している中で、Pagesのデータ「終戦前夜の満蒙」というタイトルが出てきたので、早速開いて読んでみた。他界した後に、父のiMacから全データを筆者のHDに移行していたことを完璧忘れており、今回初めて文章データの一部を開いて見ることになった。

 父の趣味は剣道、居合、カメラ、そして釣り。昭和20年代からドイツ製のライカを保有し、時にはアグファカラーフィルムで撮影していたようだった。その影響もあるのか、筆者の趣味の一つがカメラであり、似てない親子でも似ているところが出てくるのかと、再認識した次第。

 諄いようだが、先見塾生の嬉しい言葉で、埋もれていたデータが飛び出してきたので、何とも不思議な気持ちになり、生きている間に、もう少し親孝行をしておけば良かったと・・・。

▼筆者の趣味に火をつけた2台のカメラ
左からNikon f4s/1990年入手、Nikon D1/1999年入手

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▼居合をする父(片山流星野派)昭和30年頃
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▼iMacで書き綴られた回想録の一部

<終戦前夜の満蒙>

(1)不肖私は、来年1月1日で八十六歳となる。既に先輩の多くは他界し、戦争を知る人も殆どなく、現在の生活に気を取られていると思うので、我が想い出のつもりで、太平洋終戦前夜の一コマついて一筆書き綴ることにした。

(2)鹿本中学(旧制)卒業後、南方への夢を押さえ難く、大東亜錬成院に入院し(当時の外務省は大東亜省と改称していた)、官立のため全部官費ではあったが、同錬成院では大変厳しく教練された記憶がある。また、仲の良い同期に俳優の故 南原宏治がいた。

 ※Wikipedia→https://ja.wikipedia.org/wiki/Link  で「南原宏治」で検索してください

 昭和二十年当時、東京や横浜の大空襲を経験し、既に日本の敗戦を予感していた。特に東京の場合は、当時警視庁を辞め日本製紙に勤務していた叔父が板橋区に住んでいたので、内蒙古(現在のモンゴル共和国)へ行く前に、挨拶のために叔父宅を訪ねたところ、東京は焼け野原となり、叔父宅も焼けて無くなってしまっていた。

 都電のレールは飴状に打ち曲げられ、地面は米軍機B-29の絨毯爆撃によるクレーターの様な無数の大きな穴があちこちに開いており、残っていたのは大金庫、土蔵くらいで、公共交通機関などは完全に機能せず、結局、叔父の勤務先のある銀座人形町まで歩いて行くことにした。生憎、叔父は出張中との事。会うこともなく、水道管がポツンと立っているばかりであった。

(3)昭和二十年四月(今思えば、終戦4ヶ月前のことである)、いよいよ内蒙古へ向けて出発する日が来た。現地へ行くにも、当時海上は大変危険な状況であり、特に南方への派遣は困難となり、結局、私は蒙古派遣に決まったと聞いた。

 同院生の先輩たちは南方へ行けたが、私は山口県仙先港から海路で朝鮮半島へ、そして陸路で朝鮮から満州を経て中国北京へ行き、それから汽車に乗り込み、蒙古(内蒙古)へ行くルートを採った。

 しかし、列車に乗り込んだのは良いが、途中、長城線(万里の長城)の南口で汽車が脱線され、八路軍の襲撃を受けたのだった。北京近郊でこのような事では、はやり戦場へ足を運んだのだと確信したのだった。

(4)内蒙古の首都は張家口で、そこは内地のような空襲も無く別天地であった。到着早々に大使に挨拶に出向いた。そこで、現地の武道大会があるとの事。剣道をしていたという理由で、急遽その大会に出場することになった。いつの間にか、大会で勝ち抜いてしまい、更に全国剣道大会出場のために大同へ行くことになる。

 それから、チャハルの張北に行き、国立興蒙中学校に席をおいて、我々の任務にあたることになった。同年八月になり、現地のオボ祭りを初めて見ることになった。蒙古相撲や少年競馬などの色んな催しがあり、大勢の父兄たちが応援に駆けつけた。

 また、現地の学校では風土病が発生していたので、薬を取りに張家口まで出張しなければならなくなった。 その時、同院同期である北村が見学に来たので、ついでに留守を頼み、私独りで張家口へ向かった。

(5)そして、忘れもしない八月九日。ソ連軍が来襲してきた。私が席をおいていた国立興蒙中学校は、ノモンハン事件のあったハルハ河の南西近くのチャハル明安旗にあった。日頃から有事に備えて、銃や刀は装備していたものの、張家口へ出張の為に来ていたので、軽装そのものであった。

 張家口には約2万人近くの日本人が住んでおり、男は全てソ連軍の襲撃に備えて守りについていた。私は同中学校の風土病に効く薬を届けなければならない。その為に現地入りしていたのだが、もたもたしている訳には行かない。

 途中、幸運にも張北に赴任していた錬成院同期に遭遇し、必要な銃や弾薬を受け取り、同期が「行くな、危ないぞ!」と言って止めるにも関わらず、やっとの事、彼を説得をして、トンコンというゴーストタウンのような部落まで北上することにした。

 命を落とすかも知れない危険極まりない出張となったが、そこで内蒙古大使館調査課に赴任していた同院の児玉先輩の自宅にお世話になり、温かくもてなして貰ったことを今でも鮮明に覚えている。後に同先輩は公安に拉致されたようだが、後日釈放された。

(6)トンコンでは、国境警備の日本兵がトラックで逃げてきており、 その他特務機関の何名かも逃げてきていたが、正白旗にいる錬成院同期の橋本とも偶然の再会があった。

 とても私たちの装備では勝てる相手ではない。やはり、兵隊が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う様では、日本も終わりだと思わざる得ない状況であった。 そうしている内に、同年八月十五日の天皇の玉音放送が短波ラジオで入り、皆腰を抜かした様に座り込んでしまった事を思い出す。

(7)同期の橋本の話では、明安旗にはソ連軍が入り込んで来て、とても行けそうにない。よって、現地から無事に引っ返す方法を模索したが、ソ連の機械化部隊を避ける為には、馬が一番良いとの結論に至った。

 一番目の馬には独身の女史、二番目の馬に橋本、そして、しんがりとして私が馬に乗り、正白旗まで行くことにした。しかし、途中で不運にも橋本が落馬し、意識不明の重体となった。彼を助けるために、何とか正白旗のトラックを借りて、トンコンまで連れて帰るために、道なき平原や山河を越えて、張家口を目指したのだった。

 飲まず食わずが続き、それも何日かかったのか全く記憶にないが、途中、八路軍と交戦状態となり、残念ながら随行の松本一等兵が犠牲になってしまった。既に敗戦し、終戦を迎えているにも関わらず、そこで戦死して帰らぬ人となった松本一等兵。可哀想に思えてならなかった。

 戦闘の状況は書けば長くなるので、後日機会があれば書き綴るつもりでいる。・・・その後、同期の橋本は、手負いの傷も完治して、無事帰国を果たしたのだった。

(8)留守を頼んだ北村や数名の日本人の安否が、ずっと気になっていた。しかし、張家口に到着したらソ連の飛行機が上空を舞い、そこには日本人の姿を全く見ることが出来なかった。児玉先輩の安否も気になった。不在かも知れないと思いつつ、自宅を訪ねることにした。

 先輩の自宅の戸を叩くと、先輩の姿がそこにあった。「西田が帰って来るのを待っていたよ。」と開口一番に言って頂いた。大変有り難いことであった。そこで、話し合いの結果、私は児玉先輩と生きて帰国の道を選ばず、現地に残留することを決意したのだった。

 現地では、同年八月末まで中国人が惣菜など、沢山の食料を届けてくれた。八路軍も大変紳士的ではあったが、同年九月二十日頃に日本人残留者が収容されている某収容所に連れて行かれる事を聞かされた。

 そして・・・収容所に入るや否や、延安では支那事変当時から逃亡していた日本人が多数が居たのだった。なかなか居づらい状況ではあったが、話によると、明安旗の日本人は、着の身着のまま、同年十二月中旬頃まで収容所へ転がり込んで来たのだが、最終的には日本人の男たちは全員、ウランバートルへ連れて行かれたとの事だった。

 私は、満州、北支、順化、玉田などと、 更に満州の難民も加わり何日も歩かされのだが、それから数ヶ月後に承徳で米軍に発見され、運良く救出された。よって、昭和二十一年八月に長崎県佐世保港に上陸したのだった。生きて帰るつもりはなかったが、日本国土を踏んでも、まだ実感が湧いてこなかった。

 それから郷里へ戻ることになるが、熊本県鹿本町(現在の山鹿市鹿本町石渕)の実家の庭に足を踏み入れると、縁側に座っていた母が、内蒙古で既に死んだと思った私を見て、幽霊と思い腰を抜かし絶句した事を思い出す。

 戦後は、検察の道を選び、平成2年に退官した。正義感を傾注した四十数年が一気に過ぎて行った。それから七年ほど民間企業の顧問を経て、現在に至っている訳だが・・・戦後、幸運にも生きて帰り、それから検察の職責を全うし、妻を早く亡くしたものの、現在老後を楽しめると言う事は、全てにおいて、ただただ先輩、同期、後輩のお陰であると思っている。・・・感謝の外はない。


平成24年3月20日
西 田  壽


▼昭和30年頃のカラー写真(カメラ:ライカ)
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▼昭和30年頃のモノクローム写真(カメラ:ライカ)
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  • posted by Chikao Nishida at 2017/7/3 02:54 am

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