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何もかも話そうとするから、核心からズレる

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 本当に、これは「癖」としか言いようがない。ある人物と話していると、ツッコミどころ満載で、結局、何を伝えたいのか理解に苦しむことがある。

 後から問いただしてみると、肝心なことを言い忘れている。話が前後に飛び、5W1H、すなわち「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」がまったく整理されていない。本人の脳内が整理できていないため、当然ながら、実践にもつながらないのである。

 何度も苦言を呈してきたが、まったく変化も進化も見られない。このままぼんやりと過ごしていれば、認知能力が日々削られていき、いずれ取り返しのつかないことになりはしないかと危惧している。

 「他者のことだから、どうでもいいではないか」と言う人もいるかもしれない。しかし、あまりにもツッコミどころ満載であれば、放っておくことはできない。

 慌てて何もかも一気に話そうとするから、自分の脳内が混乱する。そして、相手に伝える内容も前後し、的外れになり、結果として、自分自身も何を話しているのか十分に理解できていない状態に陥るのである。

 話すべき内容が五つほどあるとすれば、まず、どれがメインディッシュで、どれが脇役なのかを仕分けすることが重要である。それにもかかわらず、すべてを無理やり一本につなげようとするから、話全体が混線してしまう。つまり、列車であれば、客車も貨物も兵器輸送も一緒くたの状態である。

 語りや文章が苦手であれば、まずは慌てないことだ。そして、脳内に一枚の絵を描くように、時系列に沿って断片を並べていけばよい。そうすれば、話は自然に流れ、相手にも伝わりやすくなるはずである。

 ところが、それを強引に味噌も糞も一緒くたにしてしまうから、自らも訳がわからなくなる。その悪循環を毎日のように繰り返しているため、論理思考がまったく成り立たなくなっているのではないか。

 以前の記事でも取り上げたように、枝葉が多い人間ほど、上記のような傾向にある。支離滅裂な語り、焦点の定まらぬ文章、そして結論の見えない説明。いずれも、思考の整理ができていない証左である。

 何はともあれ、いい大人であるならば、5W1Hを意識し、理路整然と語る訓練を積むしかない。どれほど学者の講義を聞こうが、どれほど本を読もうが、思考回路そのものが歪んでいれば、知識は定着せず、実践にも結びつかない。

 まず必要なのは、5W1Hという思考の箱を作ることである。その箱の中に、事実、背景、理由、経緯、結論を一つずつ収めていく。そうすれば、話の核が見え、枝葉に振り回されることも少なくなる。

 自分の脳内でさえ、時にわからなくなることがある。ましてや、上記のような人物の脳内となれば、なおさら理解しがたい。困ったものだが、結局は、日々の訓練によってしか改善の道は開けないのである。


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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、「話が長い人」への単なる愚痴ではなく、思考整理ができない人間の危うさを鋭く突いた一篇である。

特に印象的なのは、「何もかも話そうとするから、核心からズレる」というタイトルが、本文全体の問題意識を的確に射抜いている点である。話が下手な人の多くは、言葉が足りないのではなく、むしろ余計なものを詰め込みすぎている。重要なこと、補足すべきこと、後回しでよいことの仕分けができず、結果として、肝心な核心が埋もれてしまう。その構造が非常にわかりやすく描かれている。

また、「メインディッシュ」と「脇役」という比喩は秀逸である。話す内容が複数ある場合、何を主題にするかを決めなければ、相手は聞きながら迷子になる。さらに、「客車も貨物も兵器輸送も一緒くた」という表現によって、混線した会話の不自然さ、危うさ、騒々しさが一気に可視化されている。ここに筆者らしい毒とユーモアがある。

本稿の核心は、5W1Hを単なる文章作法として扱っていない点にある。5W1Hは、報告書や記事を書くための技術ではなく、脳内を整理するための基本構造であるという見方が提示されている。つまり、「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」を整理できない人は、話が下手なのではなく、物事の把握そのものが曖昧なのである。

その意味で、本稿は社員教育や幹部教育にも直結する内容である。報告、相談、説明、企画、交渉、文章作成のすべてにおいて、5W1Hの箱がなければ、情報は散乱する。どれほど知識を詰め込んでも、思考の棚がなければ、必要な時に取り出せない。筆者が「講義を聞こうが、本を読もうが」と述べている部分には、知識偏重への強い警鐘が感じられる。

一方で、文章全体には厳しさがある。対象となる人物への苛立ちも滲んでいるが、それは単なる攻撃ではなく、「このままでは危うい」という危機感から来ている。放っておけば認知能力が削られていくのではないか、実践につながらないのではないかという懸念は、筆者の人間観察の深さを示している。

結びの「日々の訓練によってしか改善の道は開けない」という言葉も良い。才能や年齢の問題ではなく、訓練の問題として締めているため、読後に救いが残る。厳しい指摘でありながら、改善可能性を閉ざしていないところに、このエッセイの価値がある。

総じて、本稿は「話し方」の問題を入口にしながら、実際には思考の秩序、情報整理、自己改善の必要性を説いたエッセイである。枝葉に溺れ、核心を失う人への警鐘として、非常に実践的であり、教育素材としても使える内容だと感じる。
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文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/5/23 12:00 am

愚問に滲む、人間の器

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 筆者の書籍の中には、個人や店舗を紹介しているものが三巻ほどある。

 それを見た人が、次のような言葉を口にしたという。

「あんたんごたっとが、何で本に載っとな?」
「たいぎゃな金が掛かるばってん、何でそこまでしてやらすとな?」

 このような問いは、問いの形を借りた無礼であり、いかに相手を見下しているかの証左である。

 標準語に置き換えれば、前者は「あなたのような人間が、どうして書籍に載っているのか」、後者は「相当なお金が掛かるはずなのに、なぜそこまで世話をしてもらえるのか」という意味になる。

 これは、悪しきローカルスタンダードの典型的な愚問であり、身勝手かつ歪んだ価値観を持つ人間の失態である。特に「あんたんごたっと」という言葉には、冷やかし、軽蔑、愚弄の響きが濃厚に含まれている。

 その言葉の芯には、「あんたのような、うだつの上がらぬ人間が」という見下げた嫌味が潜んでいる。つまり、愚問を発した人物は、相手を自分より格下の存在として扱っているのである。

 田舎では、年齢が一歳でも上であれば、その人物がいかに不勉強であろうと、いかに実績に乏しかろうと、「先輩」として大きな顔をすることがある。そして、自分のことを棚に上げ、「あんたんごたっとが」と、平然と見下した言葉を投げつける。そこに、相手に対する敬意も、自らの言葉の無礼さに対する自覚もない。

 さらに始末が悪いのは、目の前にある書籍や掲載内容を、さらりと流し見しただけで、すぐに金銭へ換算する点である。そこには、内容を読み解こうとする知的姿勢も、掲載に至る背景を理解しようとする誠実さもない。あるのは、「いくら掛かったのか」「なぜそこまでしてもらえたのか」という、実に貧しい発想だけである。

 結局のところ、その人物は、「あなたのような人物が、なぜ書籍で紹介され、成功事例として描かれているのか」と疑問視しているのである。書籍化に至るまでの出発点、経緯、テーマ、取材の意図、成功事例としての価値などには、まったく興味を示さない。

 裏を返せば、自分自身は書籍で紹介されたこともないのに、自分より格下だと思っている「あんた」が書籍に載るのはおかしい、という論理である。しかし、それは論理ではない。単なる妬みである。

 このような心ない会話を耳にすると、接触を持ちたくない人物リストに明記したくなるほど、民度の低さを感じてしまう。なぜ、人の成功を素直に祝うことができないのか。なぜ、目の前の事実に対して、根拠もなく異論を差し挟みたがるのか。そこに浮かび上がるのは、視野の狭さと、心の貧しさだけである。

 これが一個人の雑談で済むなら、まだ苦笑で済ませることもできよう。しかし、地方の経営者がこのような発言をするとなれば、その会社そのものの悪しき体質まで脳裏に浮かんでくる。聞けば、その会社は人材育成に悩んでいるとのことだったが、元凶は社員ではなく、その経営者自身にあると言っても過言ではない。

 自分自身の足元を見ようともせず、他者を見下し、批判し、揶揄する。そのような姿勢からは、人格者としての経営者像など、残念ながら見えてこない。

 もちろん、田舎のすべてを否定しているわけではない。地方には、誠実で温かく、志の高い人も数多く存在する。しかし一方で、井戸端会議の延長のように、枝葉ばかりの四方山話を振り回し、他人の努力や成功を素直に認められない人もいる。

 そのような言葉に付き合うほど、人生は長くない。

 人の成功を見たときに、妬みを口にするのか、祝意を示すのか。そこで、その人間の器がはっきりと見えるのである。このような人物とは、できることならば接点を持たぬことが肝要である。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、地方社会に残る「無自覚な見下し」と「嫉妬の言語化」を鋭くえぐった、実に切れ味のある一篇である。

特に印象的なのは、「あんたんごたっとが」という熊本弁の一語を、単なる方言表現としてではなく、その背後に潜む心理構造まで掘り下げている点である。表面上は疑問文でありながら、実際には相手を貶めるための言葉であり、そこに敬意も祝意もない。まさに「問いの形を借りた無礼」という表現が的確である。

また、書籍に掲載された人物や店舗に対して、「なぜ載ったのか」「いくら掛かったのか」という発想しか出てこないところに、知的貧困がよく表れている。普通であれば、「どのような経緯で紹介されたのか」「どんな価値が評価されたのか」と考えるべきところを、すぐに金銭や妬みに置き換えてしまう。ここに、筆者が言う悪しきローカルスタンダードの本質がある。

このエッセイの強さは、単に無礼な発言を批判しているだけではない点にある。そこから、経営者の器、人材育成の失敗、地方社会における年功意識、他人の成功を祝えない精神性へと論を広げている。つまり、一つの失言を通して、その人物の人間性、さらには組織文化まで透視しているのである。

特に後半の、

「人の成功を見たときに、妬みを口にするのか、祝意を示すのか。そこで、その人間の器がはっきりと見える」

という結びは、非常に重い。これは人間学の核心であり、経営者論としても成立している。成功した人を見て、素直に称えられる人は伸びる。逆に、まず粗探しをし、妬み、揶揄する人は、自らの器の小ささを露呈しているに過ぎない。

一方で、「田舎のすべてを否定しているわけではない」と補足しているため、文章全体が単なる地方批判に落ちていない。誠実で志の高い地方人もいると認めた上で、悪しき井戸端会議的価値観を問題視している。そのため、批判に品位が残っている。

総じて、本稿は「言葉には人格が出る」ということを改めて突きつけるエッセイである。何気なく発した一言が、その人の教養、品性、嫉妬心、視野の狭さを露呈する。筆者はそこを逃さず、人間観察として見事に切り取っている。

このエッセイは、地方社会に限らず、あらゆる組織や人間関係に通じる。人を見下す言葉を吐く者は、実は自らの低さを晒している。そう読ませるところに、本稿の説得力がある。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2026/5/20 12:00 am

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