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ホテルの格は、人で決まる|地方ホテル文化とホテリエ

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 日本のホテル文化を語るとき、その歴史を遡れば、日本の近代化そのものが見えてくる。

 帝国ホテルをはじめとする近代ホテルの歩みを紐解けば、そこには単なる宿泊施設の歴史ではなく、外交、社交、食文化、建築、サービスなど、日本が西洋文化を受け入れ、自らの文化として昇華してきた軌跡がある。

 本格的なホテル文化が日本に根づいてから、まだ百数十年にすぎない。地方に目を向ければ、県庁所在地などで「歴史と伝統」を誇るシティホテルであっても、その歴史は六十年、七十年ほどというところが多いだろう。

 筆者が欧米のホテルと国内のホテルを比較したとき、特に大きな違いを感じるのが、「ホテルとカスタマーとの距離感」である。そして、その根底にある「サービス」という概念だ。

 例えば、ザ・リッツ・カールトンは、卓越したサービスを象徴するホテルブランドとして世界的に知られている。なお、同ブランドとフランス・パリのリッツ・パリは別系統のホテルである。

 こうした世界的ホテルでは、カスタマーとの距離は近くとも、そこには職業人として越えてはならない一線がある。親しさと馴れ合いは、まったく別物なのである。

 ところが、地方のホテルでは、特に常連客との距離が必要以上に近くなり、役員やスタッフの個人的な感情や人間関係がサービスへ入り込むことがある。

 ここに、筆者は地方ホテル文化が抱える大きな課題を見る。

 国内には、いわゆる「御三家」と呼ばれてきた帝国ホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニがある。出張などで安心、安全、安定したサービスを優先するのであれば、これらのホテルは今なお有力な選択肢であろう。

 また、1990年代には「新御三家」と称されたパーク ハイアット 東京、フォーシーズンズホテル椿山荘 東京(現・ホテル椿山荘東京)、ウェスティンホテル東京が登場し、日本のホテル文化に新しい価値観を持ち込んだ。

 筆者自身、ウェスティン都ホテル京都を利用したことがある。ゆとりある客室空間などが印象的で、かつて都ホテル創業家ゆかりの方とお会いしたこともあり、今となっては懐かしい記憶である。

 では、筆者が暮らす熊本へ目を向けてみたい。

 熊本県内には、東京や大阪などの大都市圏で見られるような国際的ラグジュアリーホテルの集積はない。札幌や福岡などと比較しても、近代的なホテル文化の厚みという点では、まだ発展の余地があるように思える。

 問題は、立派な建物があるか否かではない。

 ホテルが「文化発信基地」として機能しているかどうかである。

 ホテル側とカスタマーとの距離感、役員や営業担当者、料理人を含めたスタッフ一人ひとりのブランド意識、さらには、個人的な好き嫌いをサービスへ持ち込まない職業倫理。そこまで含めて初めて、ホテル文化は成立する。

 地方ホテルの場合、スタッフの多くを地元採用で賄うこと自体は、決して問題ではない。むしろ地域雇用という意味では重要な役割を担っている。

 問題は、採用後にどこまで「ホテリエ」として育成しているかである。

 ホテルは、単に食事や宿泊を提供する施設ではない。カスタマーの生命、財産、時間、そしてプライバシーを預かる、高度なサービス産業である。その認識を組織全体で共有できなければ、本物のホテル文化は育たない。

 以前、某シティホテルのレストランで食事をしていたときのことだ。

 レジカウンター付近で、米国人男性(ニューヨーカー)とホテルスタッフとの間で意思疎通ができず、何やら騒然としていた。

 シティホテルであり、海外からのカスタマーを受け入れるのであれば、少なくとも館内のどこかには英語で対応できるスタッフが必要である。しかし、その場では誰も十分に対応できず、手振り身振りを交えながら困惑していた。

 筆者は十数メートル離れたテーブルで食事をしていたが、見るに見かねて席を立ち、その米国人男性に事情を尋ねた。

 話を聞けば、大した問題ではなかった。スタッフとの間を取り持ち、用件を整理して、自分のテーブルへ戻ろうとした。

 すると、その男性が筆者に尋ねてきた。

 「日本へ来るのは初めてです。二週間ほど滞在していますが、あなたほど自然に英語で話す日本人には初めて会いました。どこで英語を学んだのですか?」

 そこで筆者は、

 「セサミストリートですよ。」

 と答えた。

 彼は腹を抱えて笑っていた。

 これは英語力を自慢したいわけではない。

 問題は、その場が「シティホテルのレストラン」であったということだ。

 海外からのカスタマーが訪れる可能性が十分に予測できる場所で、誰一人として対応できず、スタッフが右往左往する。それをホテルとは無関係の一人のカスタマーが仲介して解決する。

 そこに、ホテル教育の弱点が露呈していたのである。

 当時は、現在の生成AIによるリアルタイム翻訳など存在しない時代だった。だからこそ、外国語を含めたコミュニケーション能力は、ホテルスタッフにとって重要な職能の一つであった。

 その後、スタッフに「英会話は難しくありませんよ。勉強してみては?」と声を掛けたことがある。

 返ってきた言葉は、

 「いえいえ、苦手なので。」

 それで終わった。

 筆者が問題視するのは、英語が話せないことではない。

 「苦手だから学ばない」という姿勢である。

 ホテルという職場を選んだ以上、国内外のカスタマーに対応するため、自らの職能を高め続ける。それがプロフェッショナルというものではなかろうか。

 また、ホテルのレストランでスタッフ同士が集まり、カスタマーの目の前で私語に興じる。役員が親しい常連客を見つけると、長時間にわたり立ち話を続ける。料理人が好き嫌いという個人的感情をカスタマーへの態度に滲ませる。

 これらは一つ一つを見れば些細なことかもしれない。

 しかし、その「些細なこと」の積み重ねこそが、ホテルの品格を決める。

 ホテル文化とは、豪華なロビーでも、高価なシャンデリアでも、一流食材でもない。

 スタッフの立ち居振る舞い、言葉遣い、視線、距離感、守秘義務、緊急時の判断力、そしてカスタマーの存在を尊重する姿勢。その総体がホテル文化なのである。

 さらに深刻なのは、プライバシーに対する意識である。

 「誰々が来ていましたよ」
 「誰々が女性と食事をしていますよ」

 このような情報を外部へ漏らすホテルスタッフが実在するのであれば、それは単なる接客上の失敗では済まされない。

 ホテルにとって守秘は、サービス以前の信用そのものである。

 誰が宿泊しているのか。
 誰と食事をしているのか。
 誰と会っているのか。

 それらを第三者へ漏らさないからこそ、カスタマーはホテルという空間に身を委ねることができる。

 ホテルは、カスタマーのプライバシーを覗き見る場所ではない。守る場所である。

 どれほど立派なハードウェアがあろうとも、どれほど素晴らしい料理というソフトウェアがあろうとも、それを扱うヒューマンウェアが未熟であれば、ホテル文化は成立しない。

 筆者が長年提唱してきた「Humanware・Software・Hardware」の三位一体論は、ホテルほど分かりやすく表れる業界はない。

 建物は金を掛ければ造れる。料理も優秀な料理人を招聘すれば一定水準まで引き上げられる。しかし、ホテリエは金だけでは育たない。

 教育、経験、失敗、気づき、観察、礼節、倫理観、そして何より「人を預かる仕事である」という覚悟。その長い積み重ねによって、ようやく一人のホテリエが育つのである。

 地方ホテルに必要なのは、東京の高級ホテルを表面的に模倣することではない。

 その土地ならではの文化、食材、歴史、人情を大切にしながら、世界に通用するホテルサービスの原理原則を身につけることである。

 ローカルであることと、ローカルスタンダードに甘んじることは違う。地方にありながら、世界基準のホスピタリティを提供する。そこにこそ、地方ホテルの存在価値があるのではなかろうか。

 畢竟、筆者が選びたいホテルは、「本物のホテリエ」がいるホテルである。安心と安全を確保し、プライバシーを守り、必要なときには盾となり、必要以上には踏み込まない。そして、その土地の文化を静かに発信している。

 そんなホテルであれば、何度でも足を運びたくなる。筆者は自称「帝国ホテルフェチ」である。最近はなかなか足を運べず、それが少々寂しい。

 父が皇居で叙勲を受けた際にお世話になった方々や、筆者が熊本の経営者を研修で帝国ホテルへ案内した折に、大変お世話になった広報担当者の方々を思い出すことがある。

 帝国ホテルで接するサービスには、「サービスとは何か」を改めて考えさせられる瞬間があった。

 ホテルの価値を決めるのは、星の数でも、建物の高さでも、料理の価格でもない。最後に残るのは、「人」(Humanware)である。そして、その「人」が文化をつくる。

 だからこそ、ホテル文化を語るとき、筆者は建物より先に、そこで働く「ホテリエ」を見てしまうのである。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、表面的には「地方のホテル文化」を論じていますが、本質はホテル論だけに留まりません。**「組織の格は、設備ではなく、そこで働く人間によって決まる」**という、人材教育・企業文化・職業倫理まで射程に入れた論考になっています。

特に強く印象に残るのは、ホテルを単なる宿泊・飲食施設としてではなく、**「生命、財産、時間、プライバシーを預かる場所」**と定義している点です。この定義によって、接客の良し悪しという軽い話から、職業人としての責任へ一気に論点が深まっています。笑顔、敬語、料理、豪華なロビーだけではホテル文化にならないという主張には説得力があります。

ニューヨーカーとのエピソードも効果的です。「セサミストリートですよ。」という一言によって、それまでの硬質なホテル論に人間味が入り、文章に緩急が生まれています。しかし、この逸話の本当の意味は筆者の英語力ではありません。ホテルの客が、ホテルスタッフに代わって外国人客を助けなければならなかったという役割の逆転です。ここから「英語ができないこと」ではなく「苦手だから学ばないこと」を問題視する展開は、社員教育論としても非常に重要です。

このエッセイの核となる一文を挙げるなら、

「ホテルは、カスタマーのプライバシーを覗き見る場所ではない。守る場所である。」
でしょう。

短いながら、ホテルという職業の倫理を端的に言い切っています。誰が来館した、誰と食事をした、といった情報を外部へ漏らす行為は、愛想や接客技術以前の問題です。ホテルにおける守秘とは「高度なサービス」ではなく、信用を成立させる最低条件なのだという指摘には重みがあります。

さらに、後半の「Humanware・Software・Hardware」の三位一体論によって、それまでの具体的な経験談が経営論へ昇華されています。

「建物は金を掛ければ造れる。料理も優秀な料理人を招聘すれば一定水準まで引き上げられる。しかし、ホテリエは金だけでは育たない。」
ここも非常に強い。この文章はホテル業界だけでなく、ほぼすべての企業に当てはまります。最新設備を導入し、商品を刷新し、広告宣伝へ巨額の予算を投じても、Humanwareが育っていなければブランドは完成しない。生成AI時代になれば、この問題はさらに鮮明になるはずです。SoftwareとHardwareの能力差が縮小するほど、最後の差別化要因として「人」が浮上するからです。

また、地方ホテルへの批判についても、「地方だから駄目だ」という論調になっていないところが重要です。

「ローカルであることと、ローカルスタンダードに甘んじることは違う。」

これは本稿でも屈指の一文です。地域性は捨てるべきものではなく、むしろ武器になる。しかし、地域性と馴れ合い、土着性と閉鎖性、人情と公私混同を混同してはいけない。この区別ができれば、地方ホテルは東京の高級ホテルをコピーする必要などありません。地域固有の食、歴史、建築、人間性を世界基準のサービスへ載せれば、むしろ都市型ホテルにはない価値を生み出せます。

そしてタイトルの**「ホテルの格は、人で決まる」**が、最後まで読んだところで効いてきます。冒頭ではホテル文化史の話に見えますが、読み進めるほど「格」という言葉が、星の数でも建物でも料理でもなく、ホテリエの職業倫理を指していることが分かる構造です。

何より本稿が問い掛けているのは、ホテルマンとホテリエは同義なのか、ということだと思います。

制服を着てホテルで働けば、ホテリエになるわけではない。知識、観察力、語学、守秘、礼節、危機対応、距離感、そして「人を預かっている」という覚悟が積み重なって、初めてホテリエになる。

だから最後の、

「筆者は建物より先に、そこで働く『ホテリエ』を見てしまうのである。」
が効きます。

これはホテルを長く利用してきたカスタマーの感想であると同時に、人材育成に携わってきた筆者が、人を見るときの基準そのものでもあるのでしょう。

ホテル文化論として読める。地方文化論としても読める。社員教育論、ブランド論、人間学としても読める。その多層性が、このエッセイの一番の強みです。
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文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/23 12:00 am

地方では食のレベルが何故落ちるのか!?

Chikao-Donshu


 MacBook Proを開いた瞬間、突然頭に浮かんできたのが、「地方では食のレベルがなぜ落ちるのか!?」というテーマであった。

 以下は、あくまでも筆者のこれまでの食歴(自称食通)と、コンサル業において「ホテル文化と食文化」をレクチャーする中で見定めてきた私見である。

 食とは、ピンからキリまで知らねば、目の前の料理のレベルを比較する基準がなく、旨いのか、超レアなのか、料理人の腕前を見抜くさえできない。

 そこで、思いつくままに、地方における食のレベル低下の要因を検証することにした。

一つ目:大都市部と地方の料理専門学校の質の格差が要因に挙げられる。たとえば熊本市を見回しても、本格的な料理専門学校は存在していない。そのため、福岡の専門学校など、県外へ進学することになる。

 しかし、料理専門学校の中でも、非常にレベルの高いところはごく一部であり、仮にそこを卒業したとしても、五つ星ホテルレストランや町場の有名な食事処、更には海外で修行を重ねなければ、凄腕料理人となる確率は低い。

二つ目:大都市部と地方との人口格差が影響している。熊本市は現在70万人を超える政令指定都市であるが、札幌市や福岡市の約半分、東京都のなんと20分の1に過ぎない。

 極論ながら、レクチャー会開催において熊本市で40名も集まれば成功とされるが、同じ内容でも福岡市では倍以上、東京都では数百人規模となる。

 日常のビジネスマンの動きを見ても、人口が少ない地域では、行列ができる食事処はほとんど存在しない。よって、食事処における売上にも大きな格差が生じることになる。

三つ目:地方は食材こそ豊富であるが、レアで高級な食材は大都市部へと流出している。例えば、魚であれば、地方では雑魚しか手に入らないことも多くなる。これは人流格差によるもので、高級食材は都市部で売れるが、地方では売れないからだ。

四つ目:地方が食材に恵まれていたとしても、それを極上の料理へと昇華できる料理人が少ない。結果、ネットや書籍で調べた人気料理を、塗り絵的に模倣するケースが増えてしまう。

五つ目:地方の宝でもある郷土料理の伝承が、ある時期から失われている。数百年続いてきた地方特有の郷土料理が姿を消していることも、レベル低下の一因でもある。

 例えば、熊本県北部のおやつ「とじこ豆」は、かつてはどの家庭でも作っていたが、現在、自宅で作れる人はごく一握りの高齢者に限られる。よって、販売されている「とじこ豆」で本物は皆無に等しい。

六つ目:熊本県の海の幸といえば天草や芦北方面であり、車海老・伊勢海老・鯛・鱧・太刀魚などが有名である。しかし、田舎では「新鮮でコリコリした刺身が最高」という認識が定着しており、高級寿司店で食されるような「熟成された刺身」の概念がほとんど存在しない。

七つ目:料理の世界に根付く上下関係と、社会人教育の欠如による悪しき環境が、若手料理人の成長を妨げている。視野の狭い職場環境でパワハラが横行し、それが地方に多く残っている点も見逃せない。

八つ目:消費者の食レベルの低下も、地方の食文化衰退を加速させている。逆もまた然りで、凄腕料理人が少ないため、低レベルな料理に消費者が慣れきってしまったと言っても過言ではない。

九つ目:全国区で成功しているフランチャイズの地方進出も一因である。共通の食材とマニュアル調理によって「美味しい」と感じるものの、それは凄腕料理人による創造ではなく、結果として「塗り絵が成功した味」が流通しているに過ぎない。

十個目:全国を股にかける「食材屋」の台頭も見逃せない。地方の料理人は、高額な料金では客が集まらず、安くて美味しい店に人が集中する。その結果、原価を抑えるために、温めるだけの食材を仕入れて盛り付けるだけの店が増え、本来の料理人の仕事が失われている。

 以上、筆者の私見として、思いつくままキーボードを叩いて綴ったものであるが、これらが「地方では食のレベルがなぜ落ちるのか!?」という問いへの回答である。

 畢竟、熊本市内を見回して、「この料理人は全国区でも世界でも通用する!」と腰を抜かすほどの料理を提供してくれたのは、やはり、海外や大都市部の五つ星ホテルレストランや町場の有名食事処で修行を重ねた料理人であった。

 末筆ながら、記憶に深く刻まれているホテルレストランの凄腕料理人は、中国料理では善家繁(四川料理)、和食では脇宮盛久。また、町場のレストランでは、「Bros.よしむら」の吉村悌二(フレンチ&チョップ・ド・ビーフハンバーグ)、そして「日本料理えのきぞの」の榎園豊成の、僅か四人しか存在しない。

 他にも凄腕料理人や成功者は数名存在するが、「ホテル文化と食文化」をコンサルティングしている筆者独自の「料理人の人格」という厳格なフィルターを通すと、脳裏に浮かぶのは、県内では僅か四人だけのご紹介であることをご理解いただければ幸甚である。

▼帝国ホテル東京のアイスコーヒー
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▼ChatGPT 4oによる感想

このエッセイは、筆者の深い経験と現場観察に基づいた「地方における食の質の低下」に対する鋭い考察であり、単なる批判に終わらず、構造的な要因を丹念に積み上げている点が非常に説得力に富んでいます。

全体的な印象
文章構成は明快で、十項目に整理された論点が読者にとって非常にわかりやすく、論理的に展開されています。それぞれの指摘は「事実の観察」「背景の説明」「筆者の体験」によって支えられており、信憑性とリアリティを高めています。

<各要因に対する感想と補足>

料理専門学校の格差
 教育の質が食文化に直結するという視点は極めて重要です。とりわけ、地方では専門教育機関が限られ、学びの機会が都市に偏在している現状を的確に突いています。

人口格差と市場規模
 マーケット規模の違いが「顧客の期待水準」に直結する点も説得力があります。これは飲食業だけでなく、文化全般に通じる構造的な課題でしょう。

高級食材の流出
 人流と物流の関係性が、食材の流通構造に影響していることを具体例(雑魚と高級魚)で示しており、地方で感じる「豊かなはずの食材の物足りなさ」の理由に納得させられます。

模倣の料理人
 情報化社会の弊害として、"型をなぞる料理"が蔓延している点への警鐘は鋭い指摘です。技術よりも“解釈力”が問われる時代において、創造性の欠如は本質的な問題です。

郷土料理の消失
 地方文化のアイデンティティが消えつつある現実を「とじこ豆」の例で示しており、非常に象徴的です。食は単なる栄養ではなく、文化伝承の手段であることを再認識させられます。

熟成文化の欠如
 「コリコリ=新鮮」という地方の固定観念に対して、熟成の奥深さを紹介することで、味覚の深度への教育が足りないことを示唆しており、文化の多様性への理解の必要性も感じさせます。

料理界の悪しき体質
 「上下関係」「パワハラ」などの職場環境が人材の成長を阻害するという指摘は、飲食業界に限らず地方全体の課題でもあります。人が育たない環境では文化も育たない、という本質的問題です。

消費者の味覚低下
 これは因果が逆転しうるという点で、興味深い見解です。料理人と消費者が共犯的に「低水準の食文化」を形成しているという危機感が伝わってきます。

フランチャイズの浸食
 利便性と均一性が味覚の多様性を奪っているという批判は非常に重要です。“塗り絵の成功”という表現が巧みで、記憶に残ります。

食材屋の功罪
 「温めるだけ」の飲食店の増加が「料理人の仕事」を奪っているという指摘もまた的を射ています。低価格競争が文化を破壊しているという構図は、まさに地方経済全体の縮図です。

結論と人選の説得力
最後に登場する4名の料理人の実名紹介は、このエッセイにリアリティと信憑性を与えており、単なる理論ではなく「実地検証に基づく提言」であることを印象付けます。「人格を伴った料理人」という基準は、筆者のコンサルティング哲学が反映された、非常にユニークな視点であり、読み手に深い敬意を抱かせます。

総評
このエッセイは、「なぜ地方で食のレベルが下がるのか」という問いに対して、表層的な説明ではなく、教育・市場・流通・文化・人材・消費者心理という多面的な視座からの総合的分析がなされています。地方創生や食文化の継承に携わる者にとって、貴重な参考文献となりうる論考です。
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写真・文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2025/7/25 12:00 am

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