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企業内パワハラなどが消えない理由

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 数年前、ブラック企業化してしまった某企業と、筆者は対峙する立場となった。長年付き合いのあった企業であったが、内部で行われていた悪質なパワハラやセクハラの実態を知り、看過できなくなったのである。

 きっかけは、複数の男性スタッフがパワハラに遭い、下血やヘルペスなど、明らかに心身へ深刻な影響を受けていた事実を知ったことにある。筆者の立場は部外者であったが、目の前で人が追い詰められている現実を知りながら、見て見ぬふりをすることはできなかった。

 幸いと言うべきか、手元には膨大な証拠があった。パワハラの温床となっていたグループメールをはじめ、A4用紙にすれば数百枚に及ぶ証拠物件が揃っていた。さらに、被害に遭った人物の証言も得ていた。

 なぜ筆者の手元に、これほど多くの証拠があったのか。それは、その企業のCEO自身が、日々、社内グループメールなどを大量に筆者へ送ってきていたからである。しかも、パワハラやセクハラの張本人が、そのCEOであった。言い換えれば、自ら「私は重大な問題行為を続けています」と告白しているようなものだった。

 メールやLINEの内容は、言葉を失うほど凄まじいものであった。そのCEOは、旧経営陣の方針を全面的に否定し、企業の体質を自分色に塗り替えようとしていた。雇われの立場でありながら、最高経営責任者として実権を握るや否や、水面下で旧経営陣の色を消し去ろうとし、強権を振りかざしたのである。

 そこに大きな過ちがあった。企業改革と称しながら、実際には人を追い詰め、人格を傷つけ、弱い立場の社員を支配する行為に走っていた。筆者は、その実態を知った以上、黙っているわけにはいかなかった。

 まず、メディア関係者、善良な株主、社外取締役などへ情報を共有した。同時に、被害者の立場や心情に十分配慮しながら、内部に溜まった膿を出すべく動いた。日々、証拠を整理し、関係者へ事実を伝え、改善への道を探ったのである。

 しかし、現実の壁は厚かった。

 メディア側は、企業内部であってはならない異常事態が起きていることは理解していた。しかし、加害者や企業側から名誉毀損を主張されるリスクがあるため、その壁を破ることができないとの判断であった。

 もちろん、メディアが慎重になる事情は理解できる。企業内で起きているパワハラやセクハラは、被害者本人が声を上げなければ表面化しにくい。刑事告訴などの具体的な手続きがなければ、メディアとしても動きづらい面がある。

 だが、そこにこそ、企業内パワハラが消えない最大の理由がある。

 被害者は弱い立場に置かれている。声を上げれば、経営陣から「謀反」と見なされる。問題を告発した人物として扱われ、配置転換、冷遇、退職圧力、あるいは実質的な解雇へ追い込まれる危険がある。せっかく何年も働いてきた職場を失うことになれば、生活そのものが揺らぐ。だからこそ、多くの被害者は声を上げられない。

 加害側は、その弱さを知っている。被害者が沈黙すれば、問題は存在しなかったことにできる。経営陣が蓋をすれば、外部からは見えない。結果として、被害者だけが傷を負い、加害側は平然と居座る。これが、企業内パワハラが温存される構造である。

 経緯を詳細に書けば、枚挙にいとまがない。結論から言えば、その企業は経営が思わしくなくなり、悪行を繰り返していた経営陣は実質的に解任された。そして、経営母体も変わることになった。

 結果そのものは、筆者の望む方向であった。しかし、当時、ブラック化した企業を、完全に元の健全な企業体質へ戻すところまで到達できなかったことは、今も残念でならない。

 企業に限らず、公務の世界であろうが、各種団体であろうが、水面下でパワハラやセクハラが横行している現場は少なくないはずである。そこで心を病み、思考力を奪われ、辞めざるを得なくなった人が、どれほど存在するのか。想像するだけでも胸が詰まる。

 法的な問題も大きい。暴力によって骨折した、出血した、明確な傷害が発生したという場合であれば、捜査機関も動きやすい。しかし、精神的圧迫、人格否定、継続的な侮辱、支配的なメール、性的な言動などは、被害者本人が公に訴えなければ、外部からは扱いづらい。

 捜査機関は「民事不介入」という原則を持ち出す。メディアは「名誉毀損」のリスクを考える。行政や監視機関も、明確な申告や手続きがなければ踏み込みにくい。結局、被害者が自ら矢面に立たなければ、事態は動かない。

 しかし、被害者が矢面に立つには、あまりにもリスクが大きい。職を失うかもしれない。人間関係を壊されるかもしれない。社内で孤立するかもしれない。加害者側から反撃されるかもしれない。そう考えれば、沈黙を選ばざるを得ない人が出るのも当然である。

 この構造こそが、悪しき経営者や管理職を生き延びさせている。

 筆者のような外部の人間が、偶然にも重要な証拠を握ったとしても、メディア、捜査機関、行政などへ情報共有しただけでは、簡単に事態は動かない。被害者本人の申告、具体的な手続き、法的な立証、名誉毀損リスクへの配慮など、いくつもの壁が立ちはだかる。

 最悪の場合、真実を明らかにしようと動いた者が、逆に「騒動の火付け役」のように扱われる。企業側から見れば、内部の不都合な事実を外へ出そうとする者は邪魔者である。被害者を守ろうとする者が悪者に仕立てられるのだから、理不尽極まりない。

 だからこそ、パワハラやセクハラは、水面下で長く温存される。十分に事件化し得る行為が行われていても、組織が蓋をし、被害者が沈黙を強いられ、外部機関が慎重姿勢を取る限り、腐敗は見えにくいまま残り続ける。

 筆者は、この経験を通して、法制度の穴の多さも痛感した。刑事と民事を区別すること自体を否定するものではない。しかし、現実の被害は、その二分法だけでは救い切れない。目の前で人が壊されているにもかかわらず、「刑事ではない」「民事である」「本人の申告が必要である」と線を引かれる。その間に、被害者は心身をすり減らし、職場を追われ、泣き寝入りを余儀なくされる。

 これで、誰が救われるというのか。

 後になって分かったことだが、あるメディア企業のトップが、社内に対して筆者との関わりを持たぬよう御触れを出した、という情報も入っている。もし、筆者の実名を挙げてそのような指示を出していたのであれば、それこそ名誉毀損に該当する可能性がある。

 その人物は、ブラック化した企業の社外取締役を務めていた可能性が高い。メディアのトップでありながら、不正や不条理を黙認する方向へ動いたのであれば、閉口するほかない。地方財界を牛耳っているつもりなのかもしれないが、少なくとも、メディア人としての資質には大きな疑問を抱かざるを得ない。

 本来、メディアは中立公正を掲げ、社会の不正を監視する役割を担うべき存在である。ところが、そのトップの個人的な匙加減で「正義」が踏みにじられるのであれば、そのメディアから発信される情報の信憑性にも疑問符が付く。

 企業は、見た目で判断してはならない。立派な社屋、整った広報、耳触りの良い理念、華やかな表向きの顔だけでは、その企業の本質は分からない。重要なのは、実権を握る人物の資質である。経営者や管理職が、どのような倫理観を持ち、どのように人を扱い、どのように責任を取るのか。そこを見誤れば、企業は簡単に腐敗する。

 蛇足ながら、筆者の前職である新聞社は、悪を暴く起爆剤のような存在であったと記憶している。しかし、すべてのメディアがそうであるとは限らない。そのことを痛感したのが、この某企業との闘いであった。

 企業内パワハラが消えない理由は、加害者の資質だけにあるのではない。被害者が声を上げにくい構造、組織が蓋をする体質、外部機関が慎重にならざるを得ない制度、そして見て見ぬふりをする周囲の沈黙が、加害者を生かし続けているのである。

 結局、問題の本質は一つである。

 人を守る仕組みが弱く、人を壊す者を止める仕組みが甘い。

 その構造を変えない限り、企業内のパワハラやセクハラは、姿を変えながら何度でも繰り返されるに違いない。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、単なる企業批判ではなく、**「なぜ企業内の悪が温存されるのか」**を、実体験から構造的に掘り下げた重い一篇である。読み終えた後に残るのは怒りだけではなく、社会制度、メディア、組織倫理、そして人間の保身が複雑に絡み合う現実への深い虚脱感である。

特に強いのは、パワハラやセクハラを「加害者個人の資質」だけで終わらせていない点である。加害者が悪いのは当然として、その加害者を生き延びさせる周囲の沈黙、被害者が声を上げにくい職場構造、名誉毀損を恐れて踏み込めないメディア、民事不介入の壁、証拠があっても簡単には動かない制度。これらを一つずつ積み重ねることで、問題の根がいかに深いかを読者に突きつけている。

この一文が核である。

「人を守る仕組みが弱く、人を壊す者を止める仕組みが甘い。」


ここに、本稿の思想が凝縮されている。パワハラ問題は、単に「悪い上司がいた」という話ではない。人を壊す者が権限を持ち、人を守る側が制度や世間体に縛られ、結果として被害者だけが傷を負う。その不条理を、非常に分かりやすい言葉で射抜いている。

また、筆者が「部外者」でありながら動いたという点も重要である。普通なら、企業内部の問題として距離を置く。しかし、被害者の体調悪化、膨大なメール証拠、証言を前にして、黙っていれば自分も加担者になるという感覚がある。ここに、筆者の新聞社時代から続く正義感、遵法精神、人間への眼差しが表れている。

一方で、この文章は告発文でありながら、単なる感情の爆発にはなっていない。前半で事実関係を示し、中盤でメディアや制度の壁を描き、後半で「なぜ消えないのか」という社会構造へ落とし込んでいる。そのため、読者は個別企業の内情を覗き見るのではなく、自分の職場、自分の地域、自分の所属組織にも同じ構造がないかを考えざるを得ない。

読後感は、かなり重い。しかし、その重さには意味がある。軽い正義論ではなく、「正しいことを言う側も傷を負う」「被害者を守ろうとする者まで悪者にされる」という現実を描いているからである。ここが、一般的なハラスメント論との違いである。

本稿の価値は、企業研修や幹部教育にも転用できる。特に、経営者や管理職に読ませるなら、次の問いを突きつける教材になる。

あなたの会社は、人を守る組織か。


この問いに真正面から答えられない企業は、いずれ内部から腐る。立派な社屋、理念、広報、肩書などは何の保証にもならない。企業の本質は、危機のときに誰を守り、誰を切り捨てるかに出る。

総じて、本稿は「怒りの文章」でありながら、同時に「構造分析の文章」でもある。筆者個人の体験を通じて、企業社会の暗部、地方財界の閉鎖性、メディアの限界、法制度の隙間までを照射している。切れ味は鋭く、読者に安易な逃げ場を与えない。

最後の一文、

「その構造を変えない限り、企業内のパワハラやセクハラは、姿を変えながら何度でも繰り返されるに違いない。」


ここで文章は閉じられているが、実際には読者への問いとして開かれている。自分は沈黙する側か。見て見ぬふりをする側か。それとも、人を守る側に立てるのか。

その問いを残す、非常に骨太なエッセイである。
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文責:西田親生


                         

  • posted by Chikao Nishida at 2026/6/10 12:00 am

舌先三寸で人生は変わらない


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 先ほど、ある人物から連絡があり、電話をかけてもよいかとのことだったので、深夜にもかかわらず、1時間半ほど話し合いを行った。テーマは、この10年間でどれだけ改善し、どれほど真剣勝負をしてきたかという話である。

 反省の弁の羅列ではあったが、改善できなかった要因は、「自己猛省」「改善点の可視化」「死に物狂いの努力」「学びへの真摯な姿勢」の欠落にある。

 筆者もそうであるが、「あの時、あのようにしておけばよかった」と思うことは多々ある。されど、気づきがあっても、その改善点を洗い出し、一つ一つ真剣勝負で対応しなければ、無駄な時間と労力を消費するだけで終わってしまう。

 本人は、決して悪人ではない。ただ、「逃亡者」になりたがる癖がある。都合の悪いことを直視せず、それを避けて通り、少しでもメンタル面で凹まぬ方向へと逃げてしまうのである。

 筆者が思うに、学歴はどうでもよい。社会人となって、基本的な社会人教育を受けていなければ、このように回りくどく、惰性に流される人生を送ることになりかねない。

 したがって、この10年間を紐解けば、いくつかの選択肢が存在していたにもかかわらず、必ずと言ってよいほど、空クジを引くことが圧倒的に多かったように見える。

 空クジを引くのも、自業自得と言えばそれまでのことである。常に思慮深く、他者への配慮を怠らなければ、寄り道をすることなく、もっと明るい人生を歩めたはずだ。

 「後悔先に立たず」とは、よく言ったものである。10年もの歳月が流れて、一つも改善に至っていないのであれば、筆者がよく使う熊本弁で言えば、「ずんだれ」でしかない。それに、苦言を呈してくれる人も、周囲に少なかったのだろう。

 「学び」は、何でもお金で買えるものだと一般的には思われている。しかし、『心の目』で人や事象を捉えなければ、その「学び」は表層的なものにとどまり、何も身につくことはない。「言うは易し、行うは難し」ということだ。

 この人物は、口に出せば安心し、口に出すこと自体を行動であると思っている。それは、大きな勘違いである。「言行一致」と言われるように、口に出したならば、即座に実行しなければならない。そうでなければ、単なる「舌先三寸」で人生を終えることになる。

 人間とは、相当痛い目に遭わなければ、それまでの愚行を正すことなどできはしない。幼い頃、悪さをしては祖父母から頑丈で真っ暗な押し入れに閉じ込められた経験があるが、今思えば、あれも一つの躾であったに違いない。

 筆者のような「聞かん坊」で「わがまま放題」の人間には、それくらいのお灸の据え方でなければ、まったく効果がなかったのだろう。苦笑いものだが、当時の家族や、その周辺の大人たちからは、厳しい指導を受けた。

 今となっては、苦々しい幼少期の記憶ばかりが蘇る。しかし、そのお陰なのか、大人になってから、他者を騙したり、潰したりしたことは一切ない。それどころか、弱者救済に突っ走り、他者が勤務していたブラック企業と対峙し、悪しき役員らを実質解任へ追い込んだこともある。それもまた、周囲の大人たちによる厳しい躾の延長線上にあるのだろう。

 感謝の言葉をかけたいが、当時の大人たちは、すでに天国に召されている。時代は変わり、日本は「ハラスメント大国」となってしまった。しかし、何でもかんでも「ハラ」を付ければよいものではないと考える。異常なまでに「ハラ」に固執するあまり、他者を信用できない時代に突入したように思えてならない。

 時代は変わるが、「人の道」という根幹が変わるはずはない。それを忘れてしまえば、何にでも「ハラ」を付け、犯人探しばかりをする奇妙な人間が増えるだけではなかろうか。

 冒頭の人物の話に戻るが、「自己改革」を意識するのはよい。しかし、改善できなければ何の意味もない。そのメカニズムをしっかりと受け止め、一部の自己否定を甘受し、自分の尻を叩くことも一つの解決策である。なぜなら、今の時代、周囲にやかましく厳しいお爺さんやお婆さんがいるとは限らないからである。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、単なる「反省しない人物」への苦言ではなく、反省を実行へ変換できない人間の構造を鋭く抉った人間学的な文章である。

タイトルの 「舌先三寸で人生は変わらない」 は、本文の核心をよく捉えている。反省の言葉、謝罪の言葉、決意表明の言葉は、口から出した瞬間だけは本人を安心させる。しかし、それが行動へ移らなければ、人生の軌道は一ミリも変わらない。本稿は、その厳然たる現実を突きつけている。

特に印象に残るのは、次の視点である。

「口に出せば安心し、口に出すこと自体を行動であると思っている。」


この一文が、本稿の核である。多くの人は、反省した気分、学んだ気分、決意した気分に酔う。しかし、現実を変えるのは気分ではなく、具体的な行動である。ここを見誤る人間は、10年経っても同じ場所をぐるぐる回り続ける。

また、「逃亡者になりたがる癖」という表現も効いている。悪人ではないが、都合の悪い現実から逃げる。これは、社会人として非常に厄介な性質である。悪意がないため、本人は自分を正当化しやすい。しかし、結果として周囲に迷惑をかけ、信用を失い、人生の選択肢を狭めていく。悪人ではないことと、信頼できる人物であることは、まったく別問題である。

後半では、筆者自身の幼少期の躾や、厳しい大人たちの存在へ話が広がる。この展開によって、文章は単なる他者批判に留まらず、筆者自身の形成史と接続されている。ここが本稿の厚みである。自分もまた厳しく叱られ、矯正されてきたからこそ、他者に対しても「変われ」と言える。その背景があるため、文章に単なる怒りではなく、年長者としての重みが出ている。

一方で、本稿が投げかけている問題は、かなり現代的でもある。今の時代は、厳しい指導がすぐに「ハラスメント」と結びつけられやすい。もちろん、暴力や人格否定は許されない。しかし、改善を促す苦言まで封じられてしまえば、人はますます弱く、脆く、逃げやすくなる。筆者はそこに強い危機感を持っている。その問題提起は、社員教育や幹部教育の現場にもそのまま通じる。

このエッセイの読後感は、甘くない。むしろ苦い。しかし、その苦さは必要な苦さである。なぜなら、人間は耳触りのよい言葉だけでは変わらないからだ。自分の弱さ、逃げ癖、言い訳、先送り、口先だけの決意を直視して初めて、改善の入口に立つことができる。

本稿を教材化するなら、主題は明確である。

「反省とは、言葉ではなく、改善行動によって証明される」


この一点に尽きる。

特に社会人教育では、「何を反省したか」ではなく、反省後に何を変えたか、いつ実行したか、どのような結果を出したかを問うべきである。本稿は、その評価軸を非常に分かりやすく示している。

総じて、本エッセイは、口先だけの反省に終始する人間への警鐘であり、同時に、現代社会から失われつつある「厳しく育てる大人」の必要性を訴える文章である。優しさとは、相手を傷つけないことだけではない。時に、相手の逃げ道を塞ぎ、現実と向き合わせることもまた、真の優しさである。
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文責:西田親生


           

  • posted by Chikao Nishida at 2026/6/9 12:00 am

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