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白い旗が問いかけるもの|戦争は誰のためにあるのか

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 深夜だったが、昨夜に続き、『NHKスペシャル|白い旗 水木しげると硫黄島』を視聴することにした。

 番組を観終えて、真っ先に頭に浮かんだ疑問がある。「お国のために死ぬ」ことが、果たして賛美されてよいものなのか。

 戦争という極限状態において、国家のために命を捧げることが「美徳」とされ、それに疑問を呈することさえ許されない社会が存在した。しかし、国家というものを突き詰めれば、そこに暮らす一人ひとりの人間によって成り立っているはずである。

 その国家が、守るべき国民の命を消耗品のように扱い、自由な人生を奪っていく。ファシズムとは、国家権力を握ったごく少数の人間が、国家という巨大な装置を使い、多数の人間の人生を支配する恐ろしい仕組みでもある。

 水木しげる氏といえば、『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする妖怪漫画の大家である。

 筆者自身、幼少期には家庭で漫画禁止令が敷かれていたものの、書店へ立ち寄っては、水木氏が描くさまざまな妖怪の姿を凝視していた。その独特な世界観は、子供心にも強烈な印象を残している。

 しかし今回の番組を通して、水木しげるという人物に対する筆者の認識は大きく変わった。

 自らの凄惨な戦争体験を背景に、『白い旗』というモチーフを三度も描いたという。その事実を知ったとき、これまで筆者の中にあった「妖怪漫画の大家」という水木しげる像の奥から、戦争という狂気を生き抜いた一人の人間の姿が浮かび上がってきたのである。

 番組には、当時の朝日新聞の紙面も登場した。

 「陸戰隊の全員玉砕」
 「最後の突撃を敢行」
 「全國民戦死たる覺悟」

 そこに並ぶ言葉を眺めていると、一人ひとりの人間の尊厳など微塵も感じられない。「玉砕」という言葉によって死を美化し、「覚悟」という言葉によって国民に死を迫る。

 言葉は、人を救うこともあれば、人を戦場へ送り出す凶器にもなる。戦時下の報道を見れば、国家が言葉を支配したとき、その言葉がいかに人間の正常な判断力を奪っていくのかがよく分かる。

 硫黄島では、日本軍、米軍双方に甚大な犠牲者が出た。そして現在も、一万人以上の日本兵の遺骨が島に埋まったままだという。

 数字だけを見れば「何万人」で終わる。しかし、その一人ひとりに名前があり、家族があり、故郷があり、本来ならば続いていたはずの人生があった。

 戦争が奪うのは、単なる「命の数」ではない。その人が生きるはずだった時間、その人を待っていた家族の時間、さらには生まれていたかもしれない次の世代まで、一瞬にして断ち切ってしまうのである。

 気づけばiPad上の番組は、『ETV特集 戦争の時代と東京大学〜平賀譲から南原繁へ〜』へと自動的につながっていた。結局、二番組を続けて観ることになったが、こちらも息つく暇もなく、画面を凝視し、耳を澄ませた。

 そこで改めて突きつけられたのが、「学問」と「国家」の関係である。本来、学問とは権力から一定の距離を置き、独立した環境にて、事実を探究し、人間や社会の未来へ知を還元するものであるはずだ。

 ところが、国家が特定の思想によって学問を歪めれば、大学さえ戦争遂行の装置へ組み込まれていく。東京帝国大学からも、多くの学生が学徒出陣によって戦場へ送り出された。

 昨日まで教室で学問をしていた若者が、国家の命令によって軍服を着せられ、銃を持たされ、場合によっては命を落とす。彼らが望んでいた人生とは、一体何だったのだろうか。更に、死を持って「英霊」という言葉が飛び交う。しかし、「英霊」という語そのものより、国家が個人の死に意味を与えることによって、その死を正当化する危険性に戦慄が走る。

 研究者になりたかった者もいただろう。企業で働きたかった者もいただろう。家庭を築きたかった者もいたに違いない。それらの未来を、戦争は容赦なく断ち切ったのである。

 さらに考えざるを得ないのが、「戦争責任」という問題である。

 戦時中、「非国民」という言葉で人を排除し、戦争への協力を迫り、多くの若者を戦場へ送り出した。その巨大な仕組みに関わった人間たちは、戦後、犠牲となった人々や遺族に対して、どこまで責任を負ったのだろうか。

 戦争指導者の一部を裁いただけで、失われた命が戻るわけではない。ましてや、戦争によって人生を奪われた人、家族を失った人、故郷を焼かれた人、身体や心に傷を負った人たちの時間を元に戻すことなど、誰にもできない。

 だからこそ、戦争は「始めてから考える」ものではないのである。始めた瞬間から、取り返しのつかないものを大量に生み出す。そして恐ろしいことに、この構造は過去の歴史だけのものではない。

 現代においても、侵略を侵略と呼ばず、別の名称に置き換え、武力行使を正当化する国家が存在する。

 言葉をすり替えたところで、ミサイルが建物を破壊する事実は変わらない。銃弾によって人が死ぬ事実も変わらない。故郷を追われる人々が生まれる事実も変わらない。

 戦争を命じる者と、戦場で死ぬ者が別人である。ここに、戦争というものが抱える最大の欺瞞があるのではなかろうか。

 他国へ攻め入りたいというのであれば、それを決断した本人が、日本の戦国時代のように最前線の先頭に立てばよい。しかし現実には、戦争を決断する者ほど安全な場所におり、その命令によって名もなき市民や若者たちが血を流す。

 戦争には、破壊しか残らない。美しい街を破壊し、豊かな土地を荒廃させ、長い年月をかけて築かれた文化、文明を壊し、人間関係を引き裂き、憎悪を次の世代へ残していく。

 戦争とは、地球という人類共通の財産を、自らの手で破壊する行為でもある。だからこそ、人類が最優先で廃絶すべきものを一つ挙げるならば、それは「戦争」に他ならない。

 『白い旗』という題名が、視聴後も頭から離れない。白い旗は、単なる降伏の印ではない。国家の論理よりも、人間の命を優先する。勝敗よりも、生きることを選ぶという崇高なものだ。

 そして、「お国のため」という言葉によって、一人ひとりの人生が再び奪われることのない社会をつくることが、我々人間の使命でもある。

 水木しげる氏が描いた「白い旗」の向こう側には、そんな当たり前でありながら、今なお人類が実現できずにいる願いが見えるような気がしてならない。

※ヘッダー画像は、人工知能がこの記事を読み生成したもの

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイを読み終えて最も強く残るのは、**「戦争とは、国家間の勝敗の問題ではなく、一人ひとりから『生きるはずだった時間』を奪う行為である」**という視点である。

 タイトルの「白い旗が問いかけるもの|戦争は誰のためにあるのか」は、本文を最後まで読んで初めて、その重さが完成する。冒頭では「お国のために死ぬ」という価値観への疑問として始まり、硫黄島、水木しげる、戦時報道、学徒出陣、戦争責任、現代の侵略戦争へと視野が広がり、最後に再び「白い旗」へ戻ってくる。この円環構造が非常に効いている。

 特に強く響くのは、次の部分である。

「数字だけを見れば『何万人』で終わる。しかし、その一人ひとりに名前があり、家族があり、故郷があり、本来ならば続いていたはずの人生があった。」
 この一節が本稿の核である。

 戦争を論じる文章は、どうしても「死者○万人」「戦没者○万人」「被害者○万人」という数字へ収斂しやすい。しかし、数字には顔がない。本稿はそこから一歩踏み込み、「その人が生きるはずだった時間」「家族の時間」、さらには「生まれていたかもしれない次の世代」にまで視線を向けている。

 ここに、この文章の人間学的価値がある。

 戦争によって殺されるのは「現在の一人」だけではない。その人が50歳、70歳、90歳まで生きて経験したはずの人生、築いたかもしれない家庭、仕事、研究、芸術、友情、そして次世代まで消えてしまう。つまり戦争とは、人間の現在だけではなく、未来そのものを破壊する行為なのである。この捉え方は非常に重い。

 もう一つ、本稿を単なる反戦エッセイから一段引き上げているのが、「言葉」に対する視点である。

 「玉砕」「覚悟」「非国民」「英霊」。

 これらの言葉そのものを批判しているのではない。問題は、国家や権力が言葉の意味を書き換えることで、本来なら異常であるはずの「死」を正常化し、ときには美化してしまうことにある。

 特に、

「言葉は、人を救うこともあれば、人を戦場へ送り出す凶器にもなる。」
 これは戦争論を超えて、現代社会にも通じる重要な指摘である。

 プロパガンダ、広告、SNS、政治的スローガン、さらには企業組織における精神論まで、言葉によって現実の意味を書き換えることは現在でも起こり得る。「撤退」を「転進」と呼ぶ。「侵略」を別の名称で呼ぶ。人間の死を美しい言葉で包む。言葉を支配する者が、人間の認識まで支配する危険性を、本稿は戦時報道を通じて示している。

 そして二本目の番組『戦争の時代と東京大学』へ移ったことで、文章の射程がさらに広がった。

 ここでは戦場だけではなく、「学問」が問われている。

 大学とは本来、国家や権力から一定の距離を保ち、事実を探究する場所である。その大学さえ国家目的へ組み込まれ、昨日まで学問をしていた若者が軍服を着せられる。この転換は恐ろしい。

 知性が権力を監視するのではなく、知性が権力へ従属した瞬間、社会のブレーキが一つ失われる。

 これは現在の教育を考える上でも重要な教材になり得る。教育とは知識を覚えさせることではなく、「本当にこれは正しいのか」と権威に対して問いを立てられる人間を育てることでもあるからだ。

 また、後半の、

「戦争を命じる者と、戦場で死ぬ者が別人である。」
 という一文も強烈である。

 非常に短いが、戦争という巨大なシステムが抱える不条理を一行で射抜いている。命令する側と、その命令によって命を失う側が分離している。だから戦争という意思決定には、構造的に「他人の命を賭ける」という問題が付きまとう。

 そこから「決断した本人が最前線の先頭に立てばよい」という筆者特有の強い表現へつながる。ここは読者によって評価が分かれる可能性はある。しかし、文章上の役割は明確である。戦争指導者と兵士・市民とのリスクの非対称性を可視化するための、意図的に鋭い一撃となっている。

 そして結末の「白い旗」の再定義が美しい。

 一般的には白旗は「降伏」「敗北」の象徴である。しかし本稿では、それを、

国家より人間を優先する旗。
勝敗より生命を優先する旗。
死ぬことより生きることを選ぶ旗。

として読み替えている。

 ここでタイトルの意味が反転する。「白い旗」は敗者の旗ではない。人間が人間であり続けるための旗なのだというところまで意味が昇華されている。

 文章全体を俯瞰すると、今回は単なる「NHK番組を観た感想」ではなく、水木しげるを入口として、国家、戦争、言葉、報道、教育、学問、権力、責任、生命を一本の線で結んだ人間学的エッセイになっている。

 また、「白い旗は、単なる降伏の印ではない。国家の論理よりも、人間の命を優先する。勝敗よりも、生きることを選ぶという崇高なものだ。」という終盤は、本稿最大のオリジナリティである。

 戦争について語れば、「戦争反対」「平和を願う」で終えることは簡単である。しかし本稿はそこで終わらず、なぜ戦争が人間にとって許されないのかを、「奪われる人生」「言葉による支配」「学問への介入」「命令者と犠牲者の分離」という構造から説明している。

 だから最後の「白い旗」が単なる綺麗事にならない。

 このエッセイが最終的に読者へ突きつけている問いは、タイトルそのものだろう。

 戦争は、誰のためにあるのか。

 国家のためなのか。指導者のためなのか。領土のためなのか。思想のためなのか。

 しかし、そのどれを答えとして持ち出しても、一人の人間が本来生きるはずだった数十年の人生を奪うことへの十分な回答にはならない。

 だからこそ、水木しげる氏の「白い旗」が最後に残る。

 敗北を意味する白旗ではなく、「もう人間を殺すな」という、人間側から国家へ突きつける白い旗として。

 そこまで読み取れるところに、今回のエッセイの深さがある。
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文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/18 12:00 am

自己中の愚行 vs 共存の善行

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 日本社会は、海外の人々から見れば、とても「神経質」に映ることがあるらしい。列に並ぶ。ゴミを持ち帰る。落とし物を届ける。公共交通機関では大声を控える。共有スペースを汚せば、自分で片づける。それらを「窮屈な日本の常識」と揶揄する外国人もいれば、逆に、その秩序や配慮に感銘を受け、日本文化を高く評価する外国人もいる。

 筆者が興味を持つのは、どちらが正しいかという話ではない。その根底にある、「公共空間を誰のものと考えるのか」という価値観の違いである。

 例えば、落とし物。日本では、財布やスマートフォンなどを拾えば、警察や施設の管理者へ届ける人が少なくない。「自分のものではない」という、ごく単純な認識が働くからである。

 もちろん、日本人なら誰もが善良で、海外では拾った者が自分のものにするという話ではない。国籍だけで人間の倫理観を分類できるほど、世の中は単純ではない。

 ただ、国や地域によって、公共空間、所有権、他者との距離感に対する感覚が異なることはある。その違いが露骨に現れるのが、災害や暴動などによって、社会秩序が一時的に弱くなった時ではなかろうか。

 海外のニュース映像などでは、暴動や大規模災害の混乱に乗じて、店舗の商品を略奪する光景を目にすることがある。店のガラスを割り、商品を抱えて走り去る。それを見ていると、筆者にはどうしても理解できない。

 政権への不満があろうが、社会に対する怒りがあろうが、災害によって生活が困窮していようが、それが他人の財産を奪ってよい理由にはならない。

 主張と略奪は別物であり、抗議と窃盗も別物である。そこを混同した瞬間、「正義」を掲げていたはずの人間が、自ら秩序を破壊する側へ回る。

 随分前、初めてヨーロッパを訪れた時のことを思い出す。特に驚いたのは、イタリアの歴史的建造物周辺で目にした、大量のタバコの吸い殻であった。建造物の柱の根元などに吸い殻が積み重なっている光景を見て、筆者は唖然とした。

 数百年、あるいは千年以上の歴史を背負う建造物を目の前にしながら、その足元へ平然と吸い殻を捨てる。文化財を守れという以前に、「自分が出したゴミを、なぜ他人に始末させるのか」という素朴な疑問が湧いてくる。

 もちろん、日本にもポイ捨てをする人間はいる。コンビニの駐車場に空き缶を置き去りにする人。車の窓からタバコを投げ捨てる人。公園へゴミを放置する人。ペットの排泄物を始末せず立ち去る人。

 つまり、これは日本人対外国人という単純な構図ではない。問題の本質は、「自分の行為の後始末を、誰にさせるのか」という一点にある。

 自分が捨てたゴミを誰かが拾う。自分が汚した場所を誰かが掃除する。自分が壊したものを誰かが修理する。自分が好き勝手に振る舞った結果を、見知らぬ誰かが負担する。

 それを「自由」と呼ぶのであれば、とんでもない勘違いである。それは自由ではない。他者へのツケ回しである。

 日本でも、大規模災害が発生すると、被災地で窃盗事件が起きることがある。倒壊した家屋や、避難によって無人となった住宅へ入り込み、金品を盗む者が現れる。筆者には、これほど卑劣な犯罪はないように思える。

 家を失い、日常を失い、場合によっては家族さえ失った人から、さらに財産まで奪う。昔から「火事場泥棒」という言葉があるが、災害時ほど人間の品性が剥き出しになる場面はない。

 水一本を分け合う人がいる。炊き出しをする人がいる。見知らぬ人のために瓦礫を運ぶ人がいる。そのすぐ近くで、他人の家から物を盗む人間もいる。

 同じ災害に遭遇しても、人間の行動はここまで違う。極限状態で問われるのは、知識でも肩書でも財産でもない。その人が、それまでどのような価値観を持って生きてきたかである。平時には隠れていた人間性が、非常時には行動となって表へ出る。

 だからこそ筆者は、「自己責任」と「自己中心」を混同してはならないと考える。自分の命を自分で守る。自分の生活を自分で維持する。自分の判断に自分で責任を持つ。これは自己中心ではない。自立した人間に必要な姿勢である。

 しかし、「自分さえ助かればよい」「自分さえ得をすればよい」「他人が困ろうが知ったことではない」「自分が出した迷惑は誰かが処理すればよい」となれば、それは自立ではない。単なる自己中心である。

 人間社会は、一人では成立しない。団地であろうが、高級マンションであろうが、一軒家であろうが同じことだ。道路を使い、水道を使い、電気を使い、商品を買い、医療を受け、行政サービスを利用する。どれほど孤高を気取っても、現代社会で完全に他者との関係を断って生きることなど、ほぼ不可能である。

 だから、共存には配慮が必要になる。配慮とは、大袈裟な善行ではない。ゴミを捨てない。騒音を出さない。共有物を粗末に扱わない。困っている人がいれば、可能な範囲で手を貸す。そして何より、自分の自由によって生じた負担を、他者へ押しつけない。それだけのことである。

 ところが、自己中心的な人間ほど「自分の自由」を声高に主張し、「他者への配慮」を窮屈だと言う。しかし、自分の日常が、無数の他者の配慮によって支えられていることには気づかない。

 清掃する人がいるから、街はきれいなのである。交通ルールを守る人がいるから、安全に道路を走れるのである。列に並ぶ人がいるから、横入りをせずとも自分の順番が回ってくる。見知らぬ誰かが共有物を丁寧に扱うから、次に使う自分も気持ちよく利用できる。

 誰かが見えないところで秩序を守っているから、自分も安心して暮らせる。社会とは、法律や罰則だけで維持されているのではない。名も知らぬ人々による、無数の「小さな配慮」によって支えられているのである。

 そう考えれば、自己中心とは、自分一人で生きているつもりになりながら、実際には他者が築き、他者が維持している秩序へただ乗りする行為とも言える。

 自由を主張するのであれば、同時に責任を引き受けなければならない。権利を主張するのであれば、他者の権利も尊重しなければならない。自分の命が大切なら、他人の命も同じように大切である。それが、共存の最低条件ではなかろうか。

 もし、「自分さえよければ、それでいい。他人への配慮など知ったことではない」と本気で考えるのであれば、極論ながら、無人島で一人暮らしをオススメしたい。

 しかし、実際に一人になれば、すぐに気づくはずだ。蛇口をひねれば水が出る。スイッチを押せば電気がつく。店へ行けば商品が並んでいる。道路が整備され、ゴミが回収され、病気になれば医療を受けられる。

 その「当たり前」の一つひとつが、実は誰かの仕事であり、誰かの責任感であり、誰かの配慮によって成立していたことに。文明とは、人間が一人で築いたものではない。社会もまた、一人では成立しない。

 「自分さえよければ」という自己中の愚行は、他者が築いた社会へただ乗りしながら、その社会を足元から壊していく。

 反対に、共存の善行とは、決して大袈裟な自己犠牲ではない。自分のことは自分で始末する。他者の領域を侵さない。受けた配慮を当たり前と思わない。そして、自分もまた、次の誰かが気持ちよく生きられるように振る舞う。その小さな連鎖こそが、社会という巨大な共同体を支えているのである。

 結局のところ、人間の品性とは、大声で語る「正義」に現れるものではない。誰も見ていないところで、自分が何をするか。そこにこそ、その人の本性が映し出されるのではなかろうか。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイを読み終えて最も強く残るのは、**「社会とは、見知らぬ他者同士が互いに負担を押しつけないことで成立している」**という視点である。

タイトルでは「自己中の愚行」と「共存の善行」という対立構造を置いているが、本文を読み進めると、単なる善悪論ではないことが分かる。むしろ本稿が問うているのは、「自分の行為によって生じたコストを、最終的に誰が負担するのか」という、極めて現実的な社会論である。

その意味で、本稿の核となる一文は、

「問題の本質は、『自分の行為の後始末を、誰にさせるのか』という一点にある。」

ここだと思う。

ゴミを捨てれば誰かが拾う。汚せば誰かが掃除する。壊せば誰かが修理する。好き勝手に振る舞えば、その結果を誰かが引き受ける。この構造を示したことで、「自己中心」という抽象的な人格批判が、社会的コストの問題へと変換されている。

特に鋭いのが、

「それは自由ではない。他者へのツケ回しである。」

という断定である。

「自由」という言葉は便利であり、ときとして自己中心的な行為を正当化する免罪符にもなる。しかし、本来の自由には責任が伴う。自分の自由を行使した結果として生じた不利益を第三者へ押しつけるのであれば、それは自由の行使ではなく、他者の自由への侵害である。この切り分けは明快で、企業倫理や社員教育にもそのまま転用できる考え方である。

また、本稿が巧みなのは、冒頭では日本と海外の文化差から入りながら、途中で明確に「日本人対外国人という単純な構図ではない」と軌道修正している点である。イタリアで目撃した吸い殻の実体験を提示しながら、日本国内のポイ捨てや災害時の窃盗にも視線を戻している。そのため、最終的な論点は国民性ではなく、個々の人間が公共空間をどう認識するかという人間学へ収束している。

災害時の記述は、さらに一段深い。

「水一本を分け合う人」と「他人の家から物を盗む人」を同じ極限状況の中へ置いたことで、環境だけでは人間の行動を説明できないことを示している。

そして、

「平時には隠れていた人間性が、非常時には行動となって表へ出る。」

という一文へつながる。

これは本稿の第二の核と言ってよい。人間の本質は、余裕のある時よりも、余裕を失った時に現れやすい。企業でも同様で、業績が好調な時には立派な理念を語れても、危機に陥った時に顧客、社員、取引先へどう接するかによって、その企業の本当の文化が露呈する。個人について書かれた文章でありながら、組織論へ容易に拡張できるところに、本稿の教材としての強さがある。

さらに重要なのは、「自己責任」と「自己中心」を明確に分離した点である。

自分の命を守る。自分の判断に責任を持つ。自分の生活を維持する。それは「自己中」ではなく「自立」である。ところが、自分だけが得をし、その結果生じる負担を他者へ回した瞬間に「自己中心」へ変わる。

つまり、

自立とは、自分の責任を自分で引き受けること。
自己中心とは、自分の都合による負担を他者に引き受けさせること。

この区別は非常に分かりやすい。

後半の「社会へのただ乗り」という表現も効いている。自己中心的な人間ほど、自分一人の力で生きているように錯覚しやすい。しかし実際には、水道、電気、道路、医療、物流、清掃、治安など、膨大な他者の仕事によって生活している。

ここから無人島の比喩へ進む流れも面白い。

「他者への配慮など知ったことではないのなら無人島へ」という部分だけを取り出せば痛烈な皮肉だが、その直後に、水道、電気、商品、道路、医療を並べたことで、単なる悪罵に終わっていない。人間は社会から離れて初めて、社会から受け取っていた恩恵の巨大さに気づくという文明論へ転換している。

そして終盤、

「『自分さえよければ』という自己中の愚行は、他者が築いた社会へただ乗りしながら、その社会を足元から壊していく。」

ここでタイトルの「自己中の愚行」が完全に回収される。

対する「共存の善行」も、大金を寄付するとか、自己犠牲をするといった特別な善行として描いていないところが良い。「自分のことは自分で始末する」「他者の領域を侵さない」「受けた配慮を当たり前と思わない」という、ごく日常的な行動として定義している。

つまり、本稿でいう「善行」は英雄的行為ではない。

普通の人間が、普通の日常を壊さないために果たす、小さな責任なのである。

そして最後の、

「誰も見ていないところで、自分が何をするか。」

これは非常に強い締めである。

監視カメラがあるからゴミを捨てない。警察がいるから盗まない。上司が見ているから仕事をする。それは「品性」とは少し違う。誰にも評価されず、誰にも叱られず、誰にも褒められない状況でも、自分自身の判断基準によって行動できるか。そこに人間としての本質がある、というところまで本稿は踏み込んでいる。

だから、この文章は「マナーを守りましょう」という話ではない。

公共性とは何か。自由とは何か。自立とは何か。そして、人間の品性とは何によって測られるのか。

そこまで射程を広げた人間学のエッセイになっている。

特に「自分の行為の後始末を誰にさせるのか」「他者へのツケ回し」「社会へのただ乗り」「誰も見ていないところで何をするか」という四つの言葉が一本の線でつながっている。この構造があるため、単なる精神論ではなく、読者自身の日常へ問いを返す文章になった。

読み終えた読者に残る問いは、結局これではなかろうか。

「自分は社会から何を受け取っているか」ではなく、「自分は社会にどんな後始末をさせているか」。

この問いは、かなり重い。だからこそ、本稿には読後に残る力がある。
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文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/17 12:00 am

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