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日本人スタンダードは、外国人に通用しない|「おもてなし」の前に、対等であれ

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 親しげに話すからといって、こちらと同じ距離感で付き合っているとは限らない。丁寧に接したからといって、その意図まで伝わるとも限らない。

 日本人同士でさえ、そうなのだ。言葉も文化も慣習も異なる相手なら、なおさらである。

 無論、人によりけりである。これから記すのは、筆者が過去に関わった外国人との体験であり、国籍だけで人柄を括るつもりはない。ただ、その体験を振り返ると、日本人として身につけてきた感覚を、そのまま相手との共通認識にしてはならないと、つくづく思う。

 以前、新入社員の社会人教育の一環として、アメリカ人女性のデザイナーに協力を依頼し、語学研修にはフランス人女性と中国人女性を招いたことがあった。当時の新入社員は、熊本大学を卒業したばかりの、有能な女性たちだった。

 まず、アメリカ人のデザイナーには、面食らった。

 仕事の打ち合わせを、シティホテルの喫茶室でランチ後の午後一時に約束していた。ところが、時間になっても現れない。携帯電話に連絡すると、実にあっさりと、こう答えた。

 「途中で親友に会ったので、今、テニスをしています。」

 こちらは約束の場所で待っている。本人は、友人とのテニスを楽しんでいる。予定変更の連絡すらなかった。

 怒るより先に、開いた口が塞がらなかったことを覚えている。数日後に話し合いの場を設け、仕事の依頼を取りやめた。

 これは、文化の違いという一言で片づけられる話ではない。約束を守るか。変更があれば連絡するか。仕事を共にする上で、その基本を共有できなかったのである。

 フランス人女性には、毎週オフィスで語学を教えてもらっていた。しかし、授業の様子を見ていると、こちらが期待するほどの熱意や工夫が感じられず、二、三か月で契約を終えた。

 一方、中国人女性は熱心だった。四声から始め、発音を繰り返し、丁寧に教えてくれた。筆者の名前「西田親生」の中国語読みも、その時に習った。今でも、「シー・ティエン・シン・スン」と、その声とともに記憶に残っている。

 三人を思い返せば、国籍だけで仕事への姿勢を判断できないことは明らかだ。こちらの期待を察してくれると思い込まず、何を依頼し、何を求めるのかを伝え、相手の行動を見て判断する必要がある。

 当時、筆者の生活圏では、今ほど日常的に外国人と接する機会はなかった。それでも、英語教師として来日していた人たちを見かけることはあった。

 ある時、カフェに集まった数人の外国人教師が、日本での生活への不平不満を口にしていた。その中には、日本人を小馬鹿にするような言葉も交じっていた。

 近くにいる筆者には英語が分からないとでも思ったのだろうか。会話は、遠慮なく続いていた。

 異国で暮らせば、不満も生じる。それは分かる。しかし、生活の場として選んだ国の人々を、ひとまとめにして見下す必要はあるまい。

 その国の文化や慣習を学び、そこに暮らす人と意思を通わせようとする。その姿勢は、来日する外国人にも、海外へ出る日本人にも必要である。

 海外では、こちらの沈黙を都合よく解釈されていると感じたこともあった。

 マレーシアのランカウイ島へ視察に向かった時のことだ。クアラルンプール国際空港で乗り継ぎを待っていると、数メートル先にいたオーストラリア人男性数人が、筆者のゼロハリバートンのバッグに貼ったリンゴのマークを指さし、揶揄するような言葉を交わしていた。

 筆者に英語が通じないと思っていたのかもしれない。

 その後、筆者が携帯電話で国際電話をかけ、英語で話し始めると、彼らは急に静かになった。

 彼らの胸中までは分からない。ただ、こちらが黙って聞いていた間と、英語を話し始めてからとでは、態度が変わった。そのことは、強く印象に残っている。

 香港から豪華客船「スーパースター・レオ」の観光ツアーに参加した時には、別の展開があった。

 船内の二階フロアで、フィリピン人のプロバンドが演奏していた。空いていた最前列の席に座ると、間髪を容れず、バンドマスターが筆者を指さし、一緒に歌わないかと誘ってきた。

 後方には、十数人のオーストラリア人客がいた。そこから、冷やかすような声が飛んできた。

 断ることもできた。しかし、その時は、引き下がる気になれなかった。にこやかに誘いを受け、サイモン&ガーファンクルの「Bridge over Troubled Water」を、バンドの演奏に合わせて歌った。

 歌い終えると、後方の客たちが立ち上がり、拍手を送ってくれた。アンコールの声まで上がったので、「The Sound of Silence」をもう一曲歌い、その場を後にした。

 冷やかしから拍手へ。その変化は、実に分かりやすかった。

 相手に悪意があったのか、その場特有の軽いノリだったのかは、断定できない。ただ、こちらが自分の言葉と行動で応じれば、関係が変わることはある。遠慮して黙っているだけでは、伝わらないものがあるのだ。

 もっとも、誰もが英語で歌う必要はない。英語が得意であることと、人として尊重されるべきことも、別の話である。

 必要なのは、できることを示し、言うべきことを言い、不当な扱いには意思を示すことである。

 筆者が恋愛の相手として日本人女性を望むのも、言葉の細かな含みや、日々の暮らしの感覚を共有できることに、安心を覚えるからだ。これは個人的な好みである。異なる文化の相手と関係を築くなら、互いの歩み寄りは欠かせない。その負担を、片方だけが引き受ける関係は長続きしないだろう。

 そして、この「互いに」という感覚は、日本が海外から人を迎える時にも必要ではないか。

 筆者は、日本の歴史や伝統、暮らしの中で育まれてきた文化に、誇りを持っている。だからこそ、訪日客との接点が、売上や消費額の話にばかり収まってしまうことに、違和感を覚える。

 商売は大切だ。しかし、相手に喜んでもらうことと、相手の要求に何でも合わせることは違う。

 「おもてなし」の名の下に、こちらの事情も、現場で働く人の負担も、日本の慣習も、際限なく後回しにしてはいないか。

 例えば、多言語の案内表示である。

 筆者が訪れた海外の街では、日本語の案内をほとんど見かけない場所もあった。一方、日本では、日本語と英語に加え、中国語や韓国語を併記した案内も目にする。

 利用者に合わせて言語を増やすことには、意味がある。安全や移動に関わる案内なら、なおさらだ。問題は、表示する言語の数ではない。

 相手に分かるように伝える工夫をする一方で、こちらが守ってほしいことも、同じようにはっきり伝えているか、という点である。

 撮影を控えてほしい場所。静かに過ごしてほしい空間。順番を守ってほしい場面。対応できることと、できないこと。その理由まで伝えることも、迎える側の責任だろう。

 海外へ出れば、こちらの思うように言葉が通じず、期待した対応を受けられないこともある。今は翻訳アプリやAIが助けになるが、相手と意思を通わせる努力まで不要になるわけではない。

 その努力を、日本を訪れる人にも求めてよいはずだ。

 「郷に入っては郷に従え」。

 筆者は、それが基本だと考える。もちろん、この言葉は、海外へ出る日本人自身にも返ってくる。自国の常識だけで相手を測らず、その土地の作法を学ぶ。その上で、分からないことは尋ね、納得できないことは言葉にする。

 戦後八十一年を迎えた今、日本人に必要なのは、相手の顔色を読み続けることでも、外国人をひと括りにして身構えることでもあるまい。

 自国の良さを自分の言葉で語り、相手の良さにも目を向ける。理不尽には異を唱え、互いに守るべき約束を明確にする。そういう対等な関係を、自ら築いていくことである。

 若い人たちには、ぜひ、その姿勢で世界と接してほしい。日本人であることに、遠慮は要らない。同時に、日本人だから察してもらえるという期待も、手放した方がよい。

 日本人スタンダードは、黙っていても世界に通用するものではない。だからこそ、伝える言葉と、譲らない軸を持つ必要がある。

 おもてなしのために、こちらが小さくなる必要はない。

 迎える側にも、骨太の背筋があってよい。

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▼ChatGPTによる感想

読み終えて残るのは、人を大切にすることと、自分を小さくすることは違うという、静かな気迫です。冒頭の距離感の話が、仕事の約束、海外での応対、そして日本の「おもてなし」へと広がり、最後には、自分自身が人とどう向き合っているかを考えさせられました。

 テニスの一件は、電話口のあっけらかんとした声と、喫茶室で待つ筆者の表情が浮かびます。その直後に、熱心だった中国人女性の記憶が置かれているため、読者も「外国人だから」という括りから離れ、一人ひとりの仕事への姿勢を見るようになります。とりわけ、教わった名前の読みが声とともに残っているというくだりには、誠実に教えてくれた人への親愛が感じられました。

 最も鮮やかなのは、豪華客船で歌う場面です。「にこやかに誘いを受け」という振る舞いに、筆者の負けん気と余裕が同居しています。冷やかしを受けた場で、自分も楽しみながら歌い、拍手を受けて引き上げる。その光景には、読んでいて胸のすくものがあります。

 そして、その高揚の後に置かれた、**「英語が得意であることと、人として尊重されるべきことも、別の話である」**という一文が、深く響きました。筆者の体験を痛快に読んでいたところで、自分が同じように応じられなくても、尊厳まで差し出す必要はないのだと気づかされます。ここに、読者への配慮と、人を見る際の確かな軸を感じます。

 後半の「おもてなし」の問いも、現場で働く人の顔が見えるため、身近に迫ってきます。「対応できることと、できないこと」を伝えるのも迎える側の責任だという言葉には、親切を支える人の負担まで見ようとする姿勢があります。「互いに」という短い言葉が、この記事全体を貫いていると感じました。

 結びの「迎える側にも、骨太の背筋があってよい」は、強い余韻を残します。客を迎える時にも、海外へ出る時にも、自分の足で立ち、相手の目を見て話す。その姿が浮かぶ締めくくりです。**相手への敬意を保ったまま、堂々としていてよい。**そう背中を押された読後感がありました。
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文責:西田親生


               

  • posted by Chikao Nishida at 2026/10/19 12:00 am

書籍「ずんだれ狂想曲」の漫画化を決定

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 主人公の名前は、寸 垂男(ズン ダレオ)。

 筆者が出版した「ずんだれ狂想曲」の1話ごとに漫画化を行い、それを漫画本一冊として出版しようというものだ。

 もちろん、原作は筆者だが、作画はAIに丸投げする。キャラクタデザインは筆者が行った。

 いつ完成するかわからないが、これもまた生成AI時代の面白みかとも。
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▼漫画化サンプル
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▼原作:第1話 義理人情という、最後の品格

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 仕事において、思うように実績が出ない人は少なくない。どれほど努力しても、すべてが自分の思い描いた通り、理想的に動くわけではない。それは仕事も同じであり、対人関係もまた同じである。

 そのような世の中にあって、ごく稀に、義理人情の厚い人に出会うことがある。温厚でありながら、物事を冷静に見極め、真偽においては「真」を求め、善悪においては「善」を選ぶ。そうした人は、実に尊い存在である。

 ここでいう「義理人情が厚い人」とは、単なるお人好しのことではない。ましてや、筆者のように「単純バカ」などと揶揄されるような、情に流されやすい人間を指しているのでもない。

 義理人情とは、曖昧な情緒ではなく、人として踏み越えてはならぬ一線を知ることである。

 筆者はこれまで、エッセイの中で幾度となく「恥ずかしさの境界線」という言葉を用いてきた。その境界線とは、法的に言えば「公序良俗」の一線であり、人間関係においては「敬意」と「侮蔑」を分ける一線でもある。

 同様に、「利他」と「利己」の間にも明確な境界線がある。義理人情を理解する人は、その一線を見誤らない。己の利益だけを追うのではなく、相手の立場を慮り、互いに信頼を損なわぬよう身を処する。

 今の時代、「義理人情」という言葉は、ほとんど死語になっている。しかし、もし世の中が義理人情を理解する人たちばかりであったなら、無用な諍いはどれほど減ることだろうか。もちろん、それは理想論に過ぎない。だからこそ、せめて自分の周囲には、義理人情の意味を理解できる人がいてほしい。そして、筆者自身もまた、そうありたいと願うのである。

 どれほど大きな実績を積み上げたとしても、それは決して一人の力で成し遂げられるものではない。そこには必ず、支えてくれた人、道を拓いてくれた人、陰で手を差し伸べてくれた人の存在がある。その見えざる縁を忘れた瞬間、人は慢心し、やがて信頼を失う。

 人格者とは、能力の高い人を指すのではない。恩を忘れず、義を重んじ、人情を軽んじない人のことである。

 大河ドラマに描かれる偉人たちの物語にも、必ずといってよいほど、義理人情の世界が登場する。彼らの人生は、単に「運が良かった」から華々しく語り継がれているのではない。紆余曲折の中で、誰を信じ、誰に尽くし、どの義を守ったのか。その積み重ねが、人の器を形づくり、後世に名を残す要因となったのである。

 一方で、「利己」を自分を守るための免罪符として使い続ける人は、いずれ信頼の土台を失う。自分だけが損をしないように、自分だけが安全圏に立つように、自分だけが得をするように立ち回る。その姿勢は、一時的には賢く見えるかもしれない。しかし、長い目で見れば、周囲から人が離れ、最後には孤立する。

 利他の心とは、自己犠牲を美徳とすることではない。分相応に、他者の幸を願うことである。相手を思い、支え合い、必要なときには手を差し伸べる。そのような関係の中にこそ、人間らしい温もりが生まれる。そこに笑顔が生まれ、信頼が育ち、人生の質が深まっていく。

 現代は戦国時代ではない。しかし、世の中を見渡せば、駆け引き、調略、騙し騙されの構図は、昔と何ら変わっていない。表面上は文明が進み、制度が整い、情報が飛び交っているが、人の心の奥底にある欲、嫉妬、慢心、裏切りは、今もなお消えてはいない。

 だからこそ、「真偽」「善悪」「利他と利己」の一線を見極める目が必要である。

 義理人情を忘れた社会は、気軽で便利にはなるかもしれない。しかし、温もりを失う。効率は上がるかもしれない。しかし、信頼は痩せ細る。損得だけで結ばれた関係は、損得が崩れた瞬間に終わる。

 人は、義で結ばれ、情で支えられてこそ、人としての深みを持つ。
 忘れられつつある義理人情を、古臭いものとして切り捨てるのではなく、人間社会を支える根のようなものとして、今一度見つめ直すべき時代に来ているのではなかろうか。

 その一線を見誤らぬことこそ、諍いの少ない人生を歩むための、最も確かな道であると考える次第。

※書籍「ずんだれ狂想曲|思考停止社会の人間図鑑」より

▼西田親生の書籍集
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文責:西田親生


       

  • posted by Chikao Nishida at 2026/10/18 12:00 am

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