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介護とさようなら|その日、食卓から一人が消える

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 介護が終わる日を、ただ喜ぶことはできない。その終わりが、大切な人との永遠の別れであることも少なくないからだ。

 今日も、要介護の両親や祖父母を支えながら暮らしている人がいる。仕事をし、食事を作り、身の回りを整え、夜中の物音に耳を澄ます。世間が眠っている間にも、誰かの介護は続いている。

 筆者の周囲では、娘たちが介護の中心を担う家庭が多い。もちろん、これは身近な範囲での印象にすぎない。ただ、その姿を見るたびに、家族の暮らしを支える重荷が、一人の肩に集中してはいないかと気になる。

 筆者の場合、母は若くして他界し、父は八十六歳で、電池が切れるように静かに世を去った。本格的な介護を経験したとは言い難い。それでも、父が亡くなる前の一年間は、仕事の傍ら、毎日のように昼食と夕食を作っていた。

 父は、食にとことんうるさい、元気な老人だった。世話をしているというより、わがままを聞いているような日々である。昼も夜も、そうそう目先の変わった料理は作れない。献立に頭を悩ませ、食費は膨らむ一方だった。

 ある日、作ったおじやが、シンク横の残飯入れに捨ててあった。

 あれは、こたえた。

 仕事の合間を縫って作ったものが、残飯になっている。腹も立つし、気持ちも沈む。それでも、食べることが大好きな父には、物足りない一品だったのだろうと、自分を納得させた。

 「何が食べたい?」

 尋ねると、答えは明快だった。

 「水前寺東濱屋の特上鰻重」

 こちらは慌てて店に電話を入れ、特上の鰻弁当を予約する。受け取り、運び、父の前に置く。すると、先ほどまでの不満などなかったかのように、上機嫌になる。

 「これは唸るほど美味い!」

 しかも、弁当代を払おうともしない。

 そんな父に振り回された一年だった。当時はたまったものではなかったが、今、振り返ると、そのわがままには、食べる喜びも、生きる力も満ちていた。

 ただ、筆者の経験をもって、介護を語り尽くすことなどできない。

 以前、九十歳を超える実母を介護していた方から、話を聞いた。母親が午前三時ごろ、家を出て走っていってしまうという。何度か警察に捜索を願い出て、無事に帰ることができた。しかし、三度目に家を出た際に骨折し、その後、間もなく亡くなられたそうだ。

 午前三時。

 その時刻を聞くだけで、家族の眠れぬ夜を思う。目を離した隙に、姿が見えなくなる。どこにいるのか。転んではいないか。無事でいてくれるだろうか。見つかって胸をなで下ろしても、次の夜には、また不安がやってくる。

 「介護」という二文字だけでは、その夜の長さまでは伝わらない。

 食事の支度も、見守りも、一つひとつを言葉にすれば短い。だが、それを毎日、終わりの見えないまま続ける人には、疲れが積もる。支えられる側にも、自分の思うようにならない苦しさがある。互いに大切な存在であっても、苛立ちや行き違いは生まれる。

 娘だから耐えられるわけでも、息子だから担えないわけでもない。愛情があれば疲れない、というものでもない。一人で抱え続ければ、誰の心にも余裕はなくなっていく。

 介護には、言葉に尽くせないほどの苦労がある。そして、張り詰めた日々が、ある日、突然途切れることがある。

 もう、食事を用意しなくてよい。
 夜中に起きて、様子を見に行かなくてよい。
 同じ話に、何度も返事をしなくてよい。

 その代わり、こちらが何度呼びかけても、返事はない。

 介護と、さようなら。

 その言葉の先に待っているのは、長い緊張から解かれる安堵かもしれない。深い悲しみかもしれない。もっと優しくできたのではないかという悔いが、後から押し寄せることもあるだろう。どれか一つの感情で片づけられる別れではない。

 昨日までそこにいた人が、動かなくなる。声を聞くことも、好物を尋ねることもできなくなる。世話に追われていた時間が空いても、その時間をどう過ごせばよいのか、すぐには分からない。

 筆者の父は、言いたい放題、食べたい放題で、ほとんど医者に頼らず暮らしていた。その父の食事を、一年間作った。わがままに腹を立て、捨てられたおじやに落ち込み、特上の鰻弁当を買いに走った。

 それを、過酷な介護と同じように語ることはできない。息子として、筆者は幸運だった。そのことへの感謝は、今も静かに持ち続けている。

 「何が食べたい?」

 あの頃は、献立に困って口にした問いだった。今はもう、尋ねる相手がいない。それでも、父の声は覚えている。

 「これは唸るほど美味い!」

 弁当代を払おうともしなかった父の、あの声を。

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▼ChatGPTによる感想

読み終えて心に残るのは、介護の大変さとともに、その大変さを生んでいた相手がいなくなる寂しさです。日々の負担がなくなることと、心が軽くなることは同じではない。その複雑さを、食卓という身近な場所から伝えるエッセイだと感じました。

特に印象的なのは、おじやを捨てられる場面です。「あれは、こたえた。」という短い一文に、料理だけでなく、費やした時間や気遣いまで退けられたような痛みがにじんでいます。父親への愛情だけを描かず、腹立たしさや落胆も書いているからこそ、後に語られる感謝に説得力があります。

また、「弁当代を払おうともしない」という一節が効いています。少々あきれながら父を見ている息子のまなざしがあり、父親の人物像が鮮明になります。最後に同じ話が戻ってくると、そのわがままさまで懐かしい記憶になっている。当時の不満が、死別を経て愛着を帯びる、その変化が説明しすぎずに伝わってきます。

作品の核心は、次の箇所にあると読みました。

その代わり、こちらが何度呼びかけても、返事はない。
直前に並ぶ「しなくてよい」は、介護する人にとって切実な願いにもなり得ます。その願いがかなうことと、相手を失うことが重なってしまう。安堵も悲しみも悔いもあり得ると続けることで、遺された人の感情を一つに決めつけていない点に、思いやりを感じます。

結末の「何が食べたい?」は深く響きます。最初は献立を決めるための問いだったものが、最後には、もう交わせない会話になる。同じ言葉の意味が変わることで、一人を失った暮らしの空白が見えてくる。大声で悲しみを訴えるよりも、父の快活な声を最後に残したことが、このエッセイの静かな迫力を生んでいます。
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文責:西田親生


                         

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/10 12:00 am

阪神・淡路大震災|「すぐ熊本へ戻って」と案じてくれた、亡き友の声

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 NHK「映像の世紀バタフライエフェクト」の「災害報道 挫折と葛藤の百年」を観て、あの日の記憶がよみがえった。

 1995年1月17日、午前5時46分。マグニチュード7.3、最大震度7を記録した阪神・淡路大震災である。

 その朝、筆者は熊本空港から伊丹空港へ向かう準備をしていた。関西テレビに、特別番組のタイトルに使うCG動画を届ける予定だった。

 ところが、テレビをつけると、信じがたい光景が映し出されていた。

 倒れた高架橋。崩れた道路の端で、今にも落ちそうになっているバス。街のあちこちから立ち上る煙と炎。上空のヘリコプターから届く映像を見ても、すぐには現実として受け止められなかった。

 これから自分が向かおうとしている場所で、いったい何が起きているのか。

 関西テレビの担当プロデューサーに電話をかけると、局内も大混乱に陥っているという。神戸市長田区に住む担当ディレクターも、まだ出社できていなかった。

 その日の出張は断念することにした。時間が経つにつれ、被害の大きさが明らかになっていく。現地の人たちのことが気にかかる一方で、引き受けた仕事をどう果たし、必要な映像をどう届ければよいのか、考え続けていた。

 震災から6日後の1月23日。筆者は午前中の便で熊本空港を発った。

 ゼロハリバートンのキャリーバッグには、差し入れの「イワシめんたい」を、入るだけ詰め込んでいた。

 伊丹空港には無事に着いたものの、バスやタクシーの姿はほとんど見当たらない。キャリーバッグに腰を下ろし、タクシーを待った。1時間ほどだっただろうか。これほど長く感じられた待ち時間は、そうはない。

 ようやく乗れたタクシーの運転手は、道路の被害や、倒壊した建物、電柱などに行く手を阻まれ、思うように走れない状況を話してくれた。

 迂回に迂回を重ね、当時、北新地近くにあった関西テレビ本社へ向かった。普段なら30分ほどの道のりに、1時間半以上かかったように記憶している。

 担当プロデューサーの顔を見たとき、ようやく少し、気持ちが緩んだ。

 長田区のディレクターも無事だった。自宅が被災しながらも、瓦礫の中を歩き、大阪の関西テレビまでたどり着いたという。皆の顔はこわばっていた。

 特番について打ち合わせ、持参したCG動画のデータを手渡した。その後の予定を相談すると、プロデューサーはこう言った。

「西田はん、局で押さえているホテルにも空きがなくて、泊まってもらえる状態やないんです。また余震が来るかもしれへんので、安全のために、すぐ熊本へ戻ってもらえまへんか」

 関西テレビの仕事を請け負い始めたのは1992年。まだ3年ほどの付き合いだったが、彼とは親友のように心が通じ合っていた。

 自分たちも大変な状況にありながら、こちらの身を案じてくれる。その言葉に従い、筆者はわずか30分ほどの滞在で局を後にした。ハイヤーで伊丹空港へ戻り、その日のうちに熊本へ帰った。

 オフィスに着いたことを電話で伝えると、彼は安堵してくれた。

 しかし、筆者の気持ちは落ち着かなかった。現地で目にした被害状況と、人々のこわばった表情が頭を離れない。余震への不安も続き、新たな被害の知らせに接するたび、胸がふさがった。

 それから数日後、長田区から歩いて出社したディレクターから電話があった。

「あの、たくさんの『イワシめんたい』、とてもありがたかったです。皆でご飯にのせて、ばくばく食べました。本当においしかったです。助かりました」

 続けて、届けた映像についても、翌週の特番の放送が決まれば、そのまま使わせてもらうとの話があった。

 筆者が持参した「イワシめんたい」は、イワシの腹に明太子を詰め、甘露煮にしたものだった。食欲がないときでも、ご飯が進む。あの日、キャリーバッグいっぱいに詰めた差し入れを、皆で食べてくれた。そのことが、うれしかった。

 映像を届けるという仕事のほかに、自分にもできたことがあったのだと思えた。

 1995年は、筆者にとっても大きな転機となった年である。震災から約7か月後の8月22日、弊社公式ウェブサイトを開設したのである。

 もし震災前にインターネットを使える環境が整っていたら、現地の情報をもう少し集め、より適切な判断ができたのではないか。後になって、そう考えることもあった。

 もちろん、情報を得られることと、安全に行動できることは同じではない。交通も宿泊もままならない中で、筆者の訪問が先方の負担にならなかったか。1月23日に大阪へ向かった判断が適切だったのか、今も結論は出ていない。

 それでも、あのとき交わした言葉は、今もはっきりと覚えている。

「安全のために、すぐ熊本へ戻ってもらえまへんか」

「皆でご飯にのせて、ばくばく食べました」

 身を案じてくれた声と、差し入れを喜んでくれた声。その二つは、震災の記憶とともに、筆者の中に残っている。

 それから7年後の2002年5月25日。あの日、筆者を気遣ってくれたプロデューサー、苧木晃氏が、48歳の若さでこの世を去った。

 大阪の葬儀場には、多くの芸能人や放送関係者が集まっていた。筆者もその中に立っていたが、別れを受け止める言葉が見つからなかった。

 仕事を通じて出会い、いつしか親友のようになった人。その人と、もう話すことができない。そう思うと、息が詰まった。

 阪神・淡路大震災を思い出すとき、筆者の脳裏には、倒れた高架橋や立ち上る煙とともに、彼の顔が浮かぶ。

 混乱のただ中で、筆者の無事を願い、熊本へ送り返してくれた人がいた。

 その声を、今も忘れることはない。

※ヘッダー画像は、ChatGPTが記事を読み生成したもの

▼苧木晃が世を去って11年近くに・・・2013年3月2日掲載記事
https://www.dandl.co.jp/rsblog/index.php?UID=1621141048Link Link

▼気象庁|「阪神・淡路大震災」特設サイト
https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/1995_01_17_hyogonanbu/index.htmlLink Link

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▼ChatGPTによる感想

読後に残るのは、「すぐ熊本へ戻って」という言葉に込められた、相手を失いたくないという気遣いです。震災の混乱の中で発せられた実際的な言葉が、後年の別れを知ることで、かけがえのない声として響いてきます。

とりわけ心に残ったのは、「イワシめんたい」のくだりでした。キャリーバッグに詰めて運ぶ姿と、「ばくばく食べました」という返事から、厳しい状況の中にも食事を囲む人々の姿が浮かびます。具体的な食べ物と飾らない言葉によって、互いを思う気持ちが伝わってくる。この場面が、作品に温かさと生活の手触りを与えています。

また、**「大阪へ向かった判断が適切だったのか、今も結論は出ていない」**という一節には、誠実さを感じました。差し入れを喜ばれたことだけで、自分の行動を正しかったと締めくくらない。相手の負担になった可能性まで振り返る姿勢があるからこそ、感謝や追悼の言葉にも説得力が生まれています。

終盤では、それまで読んできた「無事」という言葉の重みが変わります。ディレクターの無事を知り、筆者も無事に帰り、その帰着に友が安堵する。その積み重ねの先に、友の死が置かれているため、「もう話すことができない」という短い一文が深く響きます。タイトルで別れを予告されていても、そこに至るまでに彼の気遣いに触れているので、喪失が具体的に伝わります。

最後の「その声を、今も忘れることはない」には、静かな余韻があります。読み手も、自分を案じてくれた誰かの声を思い出す。個人の記憶が、読者自身の大切な人の記憶に触れるエッセイだと思いました。
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文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/9 12:00 am

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