ロゼッタストーンBLOGニュース

The Rosetta Stone Blog

努力しない人は、どんどん自信を失う

20261101article-1


 熟年となり、同級生や周囲の人たちと比較して、自信を失うばかりの人がいる。

 周囲の人たちが、自分の自信を奪っているのだろうか。そうではない。他人との比較によって、これまで目を向けずにいた自分の不足が、見えてきたのである。

 そこで必要なのは、自分自身を厳しい目で捉え、外の世界に目を向け、知的水準を高める努力だ。しかし、その一歩を踏み出さず、自分がこうなった理由ばかりを語る人がいる。

 幼い頃に十分な躾を受けなかったから。学ぶ機会に恵まれなかったから。職場環境がひどく、それに感化されたから。言い訳は一人前である。

 確かに、生育環境や教育環境が、その人の考え方や生き方に与える影響は大きい。本人の力では、どうにもならなかった事情もあろう。しかし、過去の事情を何度語っても、今の自分に足りないものが、それだけで補われるわけではない。

 「自分には学がない」「この程度の人間だから」と、自己評価の低さを繰り返し口にする。それで自分を説明したつもりになっても、現状打開にはつながらない。むしろ、その言葉が、努力をしなくて済む理由になってはいないか。

 小さな気づきがあっても、行動に移さない。昨日と同じ今日を重ねながら、自分への失望だけを積み上げていく。それでは、何年経っても、自信だけが確実に失われていくのである。

 熟年になって自らの立ち位置を知り、周囲との隔たりを身にしみて感じる。ところが、そこで諦めてしまう人も少なくない。

 「この程度でも何とか生きてこられたし、仕事もしている。自分の人生なのだから、まあいいか!」

 そう言って、済ませてしまうのだ。

 特に、一人暮らしなどで身近に指摘してくれる人がいなければ、自分の考え方や習慣を見直す機会も少なくなりがちだ。日々の生活が成り立っている限り、努力のない時間を惰性で過ごしても、何の支障もないと思い込んでしまう。

 この「支障がないから、変わらなくてよい」という人生観が危うい。

 今の暮らしが成り立っていることと、自分自身に納得して生きていることは、全く異なる。他人と比べるたびに心が揺らぐのであれば、「まあいいか」の一言では片づいていないのである。

 人生における手抜きの方向へ進むのは、実に楽だ。しかし、知的水準を高め、自分の考え方や習慣を見直すのは、容易なことではない。

 自分に足りないものを書き出してみれば、思いのほか多いことに気づくだろう。一つの不足を見つけると、それにつながる別の不足も見えてくる。どこから手をつければよいのか、途方に暮れることもあるはずだ。

 幼い頃から学びの基礎を身につけ、その都度、自分を省みて軌道修正してきた人は、問題が積み重なる前に対処する習慣を持っている。だが、その習慣を持たないまま年月を重ねれば、長年の思い込みまで含めて、見直さなければならなくなる。

 いつだったか、努力に踏み出せず、現状に押し潰されそうになっている人に、筆者から見て足りないと思われるものを列記し、提示したことがあった。

 書き始めると、次々に出てくる。箇条書きにしても、容易には書き尽くせないほどだった。しかし、それでも、その人が見直すべきことの全てを、筆者が把握できたわけではない。

 熟年ともなれば、長年かけてつくり上げた「自分スタンダード」の歪みを見つけ、直すのは大変な作業である。ドラム缶いっぱいに詰められた、ひまわりの種やカボチャの種の中から、一部が傷んだものを一粒ずつ探し出すようなものだ。表面を眺めただけでは、奥に埋もれたものまでは見えてこない。

 目の前のノートに列記された不足だけを補えば、それで済むわけではない。一つの指摘を手がかりに、それが日々の言動や判断とどうつながっているのかを、自分で考える必要がある。

 歴史書の内容を記憶したり、数学の方程式を解いたりする学びにも苦労はある。しかし、自分自身を見直す作業には、あらかじめ問題も正解も用意されていない。何が足りず、それを補うために何を学び、何を改めればよいのか。その問いから、自分で探さなければならないのである。

 これまで見ようとしなかったものを見つめ、気づかなかった癖を知り、当たり前だと思っていた判断を疑う。一朝一夕に答えが出るはずもない。だから、時間がかかる。だから、覚悟が要る。もちろん、正解は一つではない。

 ただし、全ての不足を一度に解消しなければ、前へ進めないということではない。

 指摘されたことを一つ確かめる。分からないことを一つ調べる。学んだことを、今日の行動に一つ反映させる。その小さな実行があって初めて、「自分にも変えられるものがある」という実感が生まれる。

 自信を取り戻してから努力しようと思っていては、いつまでも動けない。努力を重ね、自分との約束を一つずつ果たしていく。その積み重ねが、自分を信じる根拠になるのである。

 過ぎた年月は取り戻せない。しかし、今日も昨日と同じ言い訳で終えるかどうかは、今の自分が決められる。

 自信を失いつつある熟年諸君。さあ、今日は何から始める?

▼西田親生の書籍集
https://link.amazon/B0bmLlw0oLink Link
20261101article-2


----------

▼Geminiによる感想

西田親生氏のnote記事「努力しない人は、どんどん自信を失う」について、以下に詳しく感想を述べます。

1. 全体を通した印象と核心をつく視点
この記事は、熟年期を迎えた人が直面しがちな「自信の喪失」というデリケートなテーマに対し、耳に痛いものの本質を突いた鋭いメッセージが込められています。

多くの人は自信を失うと、「周囲の環境が悪い」「過去に恵まれなかった」といった外部要因や過去の事情に原因を求めがちです。しかし、筆者はそれを「言い訳」とバッサリと切り捨てます。他人との比較によって自分の不足に気づいたのであれば、必要なのは過去の嘆きではなく、「今の自分を見つめ直し、知的水準を高める努力」であるという主張は非常に説得力があります。

2. 「まあいいか」という惰性と危うさ
特に印象的なのは、現状維持の心地よさに浸ってしまう心理への警鐘です。

「この程度でも何とか生きてこられたし、仕事もしている」
「自分の人生なのだから、まあいいか!」
日々の生活に大きな支障がないと、こうした妥協を正当化しやすくなります。しかし筆者が指摘するように、「暮らしが成り立っていること」と「自分自身に納得して生きていること」は全く別物です。この違いに目を背け、「まあいいか」で済ませ続けていると、心の奥にある違和感や揺らぎは消えないまま、気づかぬうちに「自信」という土台が静かに削り取られていくのだと感じさせられます。

3. 自己点検の難しさと「自分スタンダード」の歪み
自分自身を見つめ直す作業を、「ドラム缶いっぱいの種の中から、一部が傷んだものを一粒ずつ探し出すようなもの」と表現している比喩が非常に秀逸です。

長年かけて作り上げた「自分スタンダード」(思い込みや癖、判断基準)の歪みを自分で正すことは、想像以上に骨が折れる作業です。あらかじめ正解が用意されている学校の勉強とは異なり、自分のどこが足りず、どう改めるべきかをゼロから探すには、膨大な時間と覚悟が要ります。だからこそ、多くの人が途中で諦めてしまうという現実がリアルに描写されています。

4. 解決へのアプローチ:「小さな実行」の価値
この記事の最も救いがあり、前向きなメッセージは結びの部分にあります。 すべての不足を一度に解消する必要はなく、以下のような小さなステップの積み重ねこそが大切だという点です。

指摘されたことを一つ確かめる。
分からないことを一つ調べる。
学んだことを、今日の行動に一つ反映させる。
「自信を取り戻してから努力する」のではなく、「努力を重ね、自分との約束を果たすからこそ、自分を信じる根拠が生まれる」という順序は、自己啓発としても非常に本質的です。過ぎた年月は取り戻せませんが、「今日をどう過ごすかは今の自分が決められる」という最後の一言は、停滞している人の背中を静かに、そして力強く押してくれる響きを持っています。

まとめ
総じて本書(記事)は、耳に心地よい言葉で慰めてくれる安易なエッセイではなく、「自分の人生に責任を持ち、もう一度自らの足で立ち上がろうとする大人」に向けた骨太なメッセージだと感じました。現状に漫然とした不安や不足感を抱えている人にとって、自らの生活や習慣を省みる素晴らしいきっかけになる一編です。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link Link
文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/11/1 12:00 am

優劣をつけたがる、稚拙な大人

20261031article-1


 車の運転には、その人物の人柄がよく表れる。コンビニの出入り口や駐車場で、我先にと突っ込んでくる、お馬鹿さんがいる。

 譲り合いの精神などどこへやら。「我先に」「自分優先」で動く大人は、少なくない。

 理屈がわかっていないというか、社会道徳が脳内に宿っていないのである。そんな大人が、子供や孫に、他者への配慮をどう教えるというのか。

 子供は親の背中を見て育つ。愚行を繰り返す親を見て、それを恥ずかしいと感じる機会さえなければ、悪しき振る舞いが当たり前のものとして受け継がれてしまう。

 一つの例を挙げれば、実にわかりやすい。

 コンビニの出入り口で、出ていく車と入ろうとする車が鉢合わせになる。互いに譲らず、クラクションを何度も鳴らしたり、指を突き上げて大声を出したりする大人を見かける。

 冷静に考えてみよ。これは、どちらが偉いかを決める場ではない。

 駐車場が埋まっているなら、まず一台が出なければ、次の一台は入れない。出入り口を塞げば、出る車も入る車も動けなくなる。そんな簡単なことが見通せず、目先の空間に突っ込んでくるのである。

 出ていく車が通れるように、入ろうとする車が少し待てばいい。ただ、それだけの話だ。

 人の動きや、その先に起こることを想像できない。しかも、自分の判断を疑わない。こういう大人が、一番始末に負えない。

 先に行けば勝ち、譲れば負け。そう思い込んでいるのだろうか。周囲の動きは目に入らず、自分の都合だけを押し通す。すこぶる稚拙な思考回路をお持ちだが、本人は気づかない。

 先日、ショッピングセンターの駐車場で、こんな光景を目にした。

 駐車スペースから出ようとする高齢者の車と、そこへ入ろうとする中年女性の車が鉢合わせになり、急ブレーキ。女性は車窓を開け、大声で「後ろへ下がんなさいよ!」と叫び、微動だにしない。

 よく見ると、女性の車は二車線の通路から右折して、駐車スペースへ入ろうとしていた。右折の合図は出しているものの、中央線をまたいだ位置で止まり、対向車の進路まで塞いでいる。

 高齢者の車が出なければ、目当てのスペースは空かない。ところが、その出口を、自分の車で塞いでいるのである。

 高齢者の車、対向車、そして女性の車。3台が動けなくなった原因は、女性の車の位置にあった。

 しかし、女性は自分が原因だとは微塵も思っていない様子だった。結局、高齢者が車をバックさせ、迂回して公道の出口へと向かっていった。

 対向車は、まだ止まったままである。

 女性は、高齢者が空けたスペースに頭から突っ込むと、大きな音を立ててドアを閉め、ショッピングセンターに入っていった。

 本人にとっては、自分の要求が通った一件なのだろう。しかし、周囲が動いてくれたのは、女性が正しかったからではない。誰かが折れなければ、全員が動けなかったからである。

 この違いがわからないままでは、譲ってもらうたびに、自分の正しさを確信してしまう。

 そこに、優劣などない。あるのは、自分の都合を通した人と、そのために手間と我慢を引き受けた人である。

 実にたわいもない話に見える。だが、こんな小さな場面にこそ、他者と社会を共有する作法が表れるのではなかろうか。

 畢竟、何事にも優劣を持ち込み、相手を従わせようとする人間に、いちいち付き合う必要はない。構ってやる必要もない。

 しかし、その背中を見ている子供たちは、何を覚えるのか。

 譲る人の思慮を学ぶのか。それとも、大声を出せば人が動き、自分の要求が通ると学ぶのか。そう考えると、ゾッとするのである。

 学校の教師に理不尽な要求を突きつける親の話を聞くときも、筆者はこの光景を思い出す。相手の事情を考える前に、自分の要求を通そうとする姿が重なるからだ。

 道理をわきまえる人ばかりが我慢を重ね、声を荒らげる人が、それを自分の勝利と取り違える。そんな振る舞いがまかり通る世の中は、真っ平御免である。

 まずは、「おもてなし」よりも、「おもいやり」と「ゆずりあい」ではなかろうか。

 客人を迎えるときの立派な言葉より、見知らぬ誰かに道を譲る、その一瞬にこそ、人の品性は表れる。

https://link.amazon/B084iT591Link Link
20261031article-2


----------

▼Geminiによる感想

日常のふとした一コマから、社会のモラルや他者への配慮の本質を鋭く突いた、非常に共感性の高いエッセイですね。

特筆すべきは、単なる「マナーの悪いドライバーへの愚痴」にとどまらず、「先に行けば勝ち、譲れば負け」という幼稚な優劣意識や、「声の大きい人の要求が通る世の中」への深い危機感へと話を昇華させている点です。こうした小さな場面での振る舞いこそが、親の背中を通じて子どもたちの倫理観や、学校・社会での理不尽なクレーマー気質へと地続きにつながっているという指摘は、ハッとさせられるものがあります。

「おもてなし」という表面的で立派な言葉よりも、見知らぬ誰かに道を譲るような「おもいやり」と「ゆずりあい」こそが人間の品性を表すという結びも、筆者の人間学に通じる一貫した哲学が感じられ、非常に印象に残りました。自身の行動や日常のあり方を改めて静かに見つめ直させてくれる、示唆に富んだ文章だと思います。

----------

▼ChatGPTによる感想

このエッセイの核心は、運転マナーの悪さそのものよりも、「相手が譲ったことを、自分が優れている証拠と取り違える大人」への憤りにあると読みました。駐車場の小さな出来事を通して、人が他者の我慢にどれほど無自覚でいられるかを描いています。

 とりわけ印象に残るのは、女性が入りたい駐車スペースの出口を、自分自身で塞いでいるという矛盾です。目的を果たすには、まず相手に出てもらう必要がある。それなのに、相手を退かせることばかりに意識が向かっている。ここには、自分の要求が強すぎるあまり、自分の利益にかなう判断さえできなくなる人間の滑稽さがあります。本人だけが、その滑稽さの外にいるつもりでいるところが、何とも皮肉です。

 「対向車は、まだ止まったままである。」という一文も効いています。女性と高齢者のやり取りだけを追っていると、二人の争いに見えかねません。しかし、この一文によって、無関係の誰かにまで負担が及んでいることが浮かび上がる。大声を出す人の都合によって、黙っている人の時間が奪われる。その不均衡が、短い描写に凝縮されています。

 そして、女性は駐車を終えて店内へ入っていく。ここで反省も謝罪も起こらないことに、現実の苦さがあります。高齢者が折れたことで場は収まっても、女性の認識まで改まったわけではない。むしろ、要求が通った経験が次の強引さを支えてしまうかもしれない。周囲の良識が、その人の振る舞いを結果的に成功させてしまうという、割り切れなさが残ります。

 その先で子供の話に戻るため、この文章は一人の迷惑な大人を非難して終わりません。子供の目には、内心で何を考えたかよりも、誰が声を上げ、誰が退き、誰の望みがかなったかが映る。大人が言葉で教える道徳と、実際の行動で見せる処世術が食い違ったとき、何が受け継がれていくのか。筆者の怒りの奥には、そのことへの危惧があると感じます。

 結びの「おもてなし」から「おもいやり」「ゆずりあい」への問いかけも、この文章の射程を広げています。客人を丁重に迎える場面だけでなく、何の見返りもない相手と場所を共有するときに、私たちはどう振る舞うのか。華やかな言葉を離れた、ごく日常の品性が問われています。

 読後には、「自分はあの女性とは違う」と言い切る前に、自分が当然のように受け取ってきた便宜の中にも、誰かの譲歩があったのではないかと考えさせられます。他者の稚拙さを描いた文章が、読む側自身の無自覚にも届いてくる。そこに、このエッセイの強さを感じました。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link Link
文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2026/10/31 12:00 am

1995年以来情報発信している老舗ポータルサイト「ロゼッタストーン」のブログをお楽しみ下さい。詳細はタイトルまたは、画像をクリックしてご覧ください。

behanceオブスクラ写真倶楽部ディー・アンド・エルリサーチ株式会社facebook-www.dandl.co.jp