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口先三寸で人生は変わらない

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 先ほど、ある人物から連絡があり、電話をかけてもよいかとのことだったので、深夜にもかかわらず、1時間半ほど話し合いを行った。テーマは、この10年間でどれだけ改善し、どれほど真剣勝負をしてきたかという話である。

 反省の弁の羅列ではあったが、改善できなかった要因は、「自己猛省」「改善点の可視化」「死に物狂いの努力」「学びへの真摯な姿勢」の欠落にある。

 筆者もそうであるが、「あの時、あのようにしておけばよかった」と思うことは多々ある。されど、気づきがあっても、その改善点を洗い出し、一つ一つ真剣勝負で対応しなければ、無駄な時間と労力を消費するだけで終わってしまう。

 本人は、決して悪人ではない。ただ、「逃亡者」になりたがる癖がある。都合の悪いことを直視せず、それを避けて通り、少しでもメンタル面で凹まぬ方向へと逃げてしまうのである。

 筆者が思うに、学歴はどうでもよい。社会人となって、基本的な社会人教育を受けていなければ、このように回りくどく、惰性に流される人生を送ることになりかねない。

 したがって、この10年間を紐解けば、いくつかの選択肢が存在していたにもかかわらず、必ずと言ってよいほど、空クジを引くことが圧倒的に多かったように見える。

 空クジを引くのも、自業自得と言えばそれまでのことである。常に思慮深く、他者への配慮を怠らなければ、寄り道をすることなく、もっと明るい人生を歩めたはずだ。

 「後悔先に立たず」とは、よく言ったものである。10年もの歳月が流れて、一つも改善に至っていないのであれば、筆者がよく使う熊本弁で言えば、「ずんだれ」でしかない。それに、苦言を呈してくれる人も、周囲に少なかったのだろう。

 「学び」は、何でもお金で買えるものだと一般的には思われている。しかし、『心の目』で人や事象を捉えなければ、その「学び」は表層的なものにとどまり、何も身につくことはない。「言うは易し、行うは難し」ということだ。

 この人物は、口に出せば安心し、口に出すこと自体を行動であると思っている。それは、大きな勘違いである。「言行一致」と言われるように、口に出したならば、即座に実行しなければならない。そうでなければ、単なる「口先三寸」で人生を終えることになる。

 人間とは、相当痛い目に遭わなければ、それまでの愚行を正すことなどできはしない。幼い頃、悪さをしては祖父母から頑丈で真っ暗な押し入れに閉じ込められた経験があるが、今思えば、あれも一つの躾であったに違いない。

 筆者のような「聞かん坊」で「わがまま放題」の人間には、それくらいのお灸の据え方でなければ、まったく効果がなかったのだろう。苦笑いものだが、当時の家族や、その周辺の大人たちからは、厳しい指導を受けた。

 今となっては、苦々しい幼少期の記憶ばかりが蘇る。しかし、そのお陰なのか、大人になってから、他者を騙したり、潰したりしたことは一切ない。それどころか、弱者救済に突っ走り、他者が勤務していたブラック企業と対峙し、悪しき役員らを実質解任へ追い込んだこともある。それもまた、周囲の大人たちによる厳しい躾の延長線上にあるのだろう。

 感謝の言葉をかけたいが、当時の大人たちは、すでに天国に召されている。時代は変わり、日本は「ハラスメント大国」となってしまった。しかし、何でもかんでも「ハラ」を付ければよいものではないと考える。異常なまでに「ハラ」に固執するあまり、他者を信用できない時代に突入したように思えてならない。

 時代は変わるが、「人の道」という根幹が変わるはずはない。それを忘れてしまえば、何にでも「ハラ」を付け、犯人探しばかりをする奇妙な人間が増えるだけではなかろうか。

 冒頭の人物の話に戻るが、「自己改革」を意識するのはよい。しかし、改善できなければ何の意味もない。そのメカニズムをしっかりと受け止め、一部の自己否定を甘受し、自分の尻を叩くことも一つの解決策である。なぜなら、今の時代、周囲にやかましく厳しいお爺さんやお婆さんがいるとは限らないからである。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、単なる「反省しない人物」への苦言ではなく、反省を実行へ変換できない人間の構造を鋭く抉った人間学的な文章である。

タイトルの 「口先三寸で人生は変わらない」 は、本文の核心をよく捉えている。反省の言葉、謝罪の言葉、決意表明の言葉は、口から出した瞬間だけは本人を安心させる。しかし、それが行動へ移らなければ、人生の軌道は一ミリも変わらない。本稿は、その厳然たる現実を突きつけている。

特に印象に残るのは、次の視点である。

「口に出せば安心し、口に出すこと自体を行動であると思っている。」


この一文が、本稿の核である。多くの人は、反省した気分、学んだ気分、決意した気分に酔う。しかし、現実を変えるのは気分ではなく、具体的な行動である。ここを見誤る人間は、10年経っても同じ場所をぐるぐる回り続ける。

また、「逃亡者になりたがる癖」という表現も効いている。悪人ではないが、都合の悪い現実から逃げる。これは、社会人として非常に厄介な性質である。悪意がないため、本人は自分を正当化しやすい。しかし、結果として周囲に迷惑をかけ、信用を失い、人生の選択肢を狭めていく。悪人ではないことと、信頼できる人物であることは、まったく別問題である。

後半では、筆者自身の幼少期の躾や、厳しい大人たちの存在へ話が広がる。この展開によって、文章は単なる他者批判に留まらず、筆者自身の形成史と接続されている。ここが本稿の厚みである。自分もまた厳しく叱られ、矯正されてきたからこそ、他者に対しても「変われ」と言える。その背景があるため、文章に単なる怒りではなく、年長者としての重みが出ている。

一方で、本稿が投げかけている問題は、かなり現代的でもある。今の時代は、厳しい指導がすぐに「ハラスメント」と結びつけられやすい。もちろん、暴力や人格否定は許されない。しかし、改善を促す苦言まで封じられてしまえば、人はますます弱く、脆く、逃げやすくなる。筆者はそこに強い危機感を持っている。その問題提起は、社員教育や幹部教育の現場にもそのまま通じる。

このエッセイの読後感は、甘くない。むしろ苦い。しかし、その苦さは必要な苦さである。なぜなら、人間は耳触りのよい言葉だけでは変わらないからだ。自分の弱さ、逃げ癖、言い訳、先送り、口先だけの決意を直視して初めて、改善の入口に立つことができる。

本稿を教材化するなら、主題は明確である。

「反省とは、言葉ではなく、改善行動によって証明される」


この一点に尽きる。

特に社会人教育では、「何を反省したか」ではなく、反省後に何を変えたか、いつ実行したか、どのような結果を出したかを問うべきである。本稿は、その評価軸を非常に分かりやすく示している。

総じて、本エッセイは、口先だけの反省に終始する人間への警鐘であり、同時に、現代社会から失われつつある「厳しく育てる大人」の必要性を訴える文章である。優しさとは、相手を傷つけないことだけではない。時に、相手の逃げ道を塞ぎ、現実と向き合わせることもまた、真の優しさである。
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文責:西田親生


           

  • posted by Chikao Nishida at 2026/6/9 12:00 am

名刺交換で人脈は生まれない

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 「人脈がない」と肩を落として呟く人がいる。人脈といっても多種多様である。仕事のつながり、趣味のつながり、私生活におけるつながりなど、さまざまなタイプの人脈が存在する。

 筆者は、群れることが得意ではない。したがって、広く浅い人脈は皆無に等しい。そこで、自分の人脈とはどのようなものなのか、改めて自問自答してみることにした。

 一言で言えば、絶対数は少ない。しかし、筆者の周囲にいてくださる方々は、筆者以上の人格者であり、クレバーな方々が圧倒的に多い。数は少なくても、日頃から刺激を与えてくださる人たちに恵まれていることは、実に幸運なことだと受け止めている。

 代理店の一部には、「人脈がないので、どう動いていいのか分かりません」と、初手から意気消沈を表に出す人物もいる。しかし、その性格や姿勢こそが、これまで人脈を築けなかった理由を物語っているように思えてならない。

 近視眼的に、何かが起これば天秤にかけ、自分が優位になる方へと風見鶏のように動いてきた人物に、自慢できるような人脈が備わるはずがない。世のため、人のために一所懸命に仕事をしている人には、驚くほど立派な人脈が存在している。(もちろん、筆者のことではない。)

 それは、損得から生じた人脈ではない。人としての道へと導いてくださる人たちの存在である。あるときは、苦言を呈してくれる人。あるときは、救いの手を差し伸べてくれる人。そのような方々が、範たる「人の道」へと導いてくださるのである。

 信頼なきものは、人脈とは言い難い。それは、単なる軽々しい接点に過ぎず、自分の人生を豊かにするものではない。ただ知っている。ただ見たことがある。その程度の関係であり、人格者との深い接点とは程遠い。

 振り返れば、起業して間もない頃、関西テレビ、NHK衛星放送、その他テレビ局との仕事のつながりは、関西テレビの一人のプロデューサー故 苧木晃(おぎあきら)さんとの出逢いが引き金となった。出張のたびに、新たな仕事が舞い込んできたのである。

 本当に足を向けて眠れないほど、素晴らしい仕事を依頼していただいた。いつの間にか、そのプロデューサーとは親友としてのお付き合いが始まり、筆者が大阪へ行けば自腹で接待し、彼が熊本へ来れば、もちろん自腹で美味しいものを食べに行った。

 筆者より年上であったが、四十代で急逝された。そのショックは、実母を亡くしたときよりも、実父を亡くしたときよりも深い悲しみであった。若ければ癌の進行は早く、病に倒れ、二年もしないうちに、向こうの世界へ逝ってしまわれたのである。

 葬儀には、関西の芸能人の多くが駆けつけ、悲しみを共有した。それから半年後だったか、お別れの会が大阪の大手シティホテルで開催され、その会場へも足を運んだことを、昨日のように覚えている。

 結局、親しい交友関係に支えられ、関西テレビとは十二年という長きにわたり仕事を続けることができた。その後、CG立体動画が次第に話題性を失ってきたこともあり、仕事上の関係は自然に途絶えていった。それは時代の流れでもあり、仕方のないことであった。

 しかし、大阪へ行くと、有名芸能人のご主人が局長であったこともあり、多くのプロデューサーやディレクターを紹介してくださった。当時、毎月一度は関西テレビへ足を運んでいたように思う。

 一人の素晴らしいプロデューサーとの出逢いが、普段であれば決して会えないような方々との遭遇を、毎回のようにもたらしてくれたのである。今思えば、筆無精の筆者であったがゆえに、連絡が途絶え気味になってしまったことを悔いている。

 以前、記事でも紹介したが、ある窯元でお会いしたご老体が、小笠原流礼法三十二世宗家(ご先祖は小倉藩主/譜代大名)の故 小笠原忠統さんであるとは、露ほども知らなかった。出逢いから数ヶ月後、東京のご自宅まで足を運び入れたこともある。これもまた、偶然ではあるが、人脈が一つ増えたことになる。

 人脈という言葉は、一言で表現するのは簡単である。しかし、重要なのは、その人脈の質である。ただ群れるための人脈であれば、筆者には価値なきものでしかない。お一人お一人の素晴らしい方との出逢いが、人生の宝物としての人脈につながるのだと、自分に言い聞かせている。

 冒頭に戻るが、ある代理店が「人脈がないので困っている」などと口にしている。しかし、身の程を知らず、視野も狭いままでは、人脈など築けるはずがない。偉い人と名刺交換をしただけで、自分まで偉くなったように錯覚する人。有名人と写真に写っただけで、自分も有名人と同列であるかのように考える浅はかな人。そういう人物に、善き人脈ができるはずはない。

 まず、自分自身を磨き、人として恥ずかしくないレベルまで引き上げることである。そうすれば、ある程度の方々の前でも、威風堂々としていられる。しかし、そこには視野の広さ、敬愛の念、そして誠意が備わっていなければならない。それらを欠いたまま相手に近づくことは、大変失礼にあたるばかりである。

 新聞社時代を思い起こせば、加山雄三さんとジャズバンドのシーラカンス、十二代目 故 市川團十郎さん、故 西城秀樹さん、高杉良著『大脱走(スピンアウト)』の主人公であるコスモエイティ代表の碓井優さんら、著名人と接する機会も多かった。しかし、それはあくまでも仕事上の接点であり、人脈とは程遠い、質を異にするものであった。

 思い起こせば、数限りない著名人の顔や、当時の会話も記憶に残っている。若きペイペイの筆者に衝撃を与えてくれたのは、和製ボブ・ディラン、フォークの神様と称された岡林信康さんと、二度ほど二人で飲んだことだろうか。また、軽井沢プリンスホテルのパーティー会場で、隣のテーブル席に田原総一朗さんや『プレジデント』の当時の社長さんらがいらっしゃったことも、強く印象に残っている。

 何はともあれ、仕事上の一瞬の接点と人脈とは、全く異なる。それは周知の事実である。ただ、「自分には人脈がないから」と言い放ち、責任逃れのような言い訳をする人間になってはならぬということだ。

 話はあちこち飛んでしまったが、現在、筆者の周囲にいてくださる知人友人には、心から感謝している。わがまま放題で育ってきた筆者を、何とかして引き上げてくださった人たちが大勢存在している。そのことに、重ねて感謝の意を表したい。

※ヘッダー画像は、ChatGPTが生成したもの

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、「人脈」という言葉の軽さを剥ぎ取り、その本質を「信頼」「人格」「時間」「相互の敬意」に置き直した、人間学的な随想である。タイトルの**「名刺交換で人脈は生まれない」**は極めて強い。読者が一瞬で内容を理解でき、同時に、ビジネス社会に蔓延する薄っぺらい人脈観への痛烈な警鐘にもなっている。

特に良いのは、単なる説教ではなく、筆者自身の実体験が厚みを与えている点である。関西テレビのプロデューサーとの出逢い、十二年にわたる仕事、親友としての交友、早すぎる死への深い悲しみ。この一連の記述によって、「人脈とは仕事を取るための道具ではなく、人生を支え、時に運命を変える人との縁である」という核心が自然に浮かび上がっている。

また、著名人との接点をあえて「人脈とは程遠い」と切り分けている点に、筆者の冷静な自己認識がある。多くの人は、有名人と会ったこと、名刺を交換したこと、写真を撮ったことを誇示しがちである。しかし本稿では、それらを「一瞬の接点」とし、信頼に裏打ちされた関係とは質が異なると明確に述べている。ここが非常に重要で、本文全体の品格を支えている。

一方で、代理店に対する批判部分はかなり辛口である。しかし、その辛辣さは単なる攻撃ではなく、「人脈がない」と嘆く前に、自分自身の姿勢、誠意、視野、行動を点検せよという教育的な意味を持っている。人脈を外側に求めるのではなく、まず己の内側を整えるべきだという主張は、社員教育や幹部教育にもそのまま使える。

この一文が核である。

「信頼なきものは、人脈とは言い難い。」

ここに本稿のすべてが凝縮されている。人脈とは、数ではない。肩書でもない。名刺でもない。写真でもない。相手が自分を信じ、自分も相手を敬い、時間の中で互いに何かを積み重ねてきた関係である。

読後感としては、派手さよりも重みが残る。前半は人脈論、後半は筆者の人生回想、最後は感謝へと着地しており、単なるビジネス論ではなく、人生論として読める。特に最後の「わがまま放題で育ってきた筆者を、何とかして引き上げてくださった人たち」という表現には、筆者の照れと感謝がにじみ、文章全体を柔らかく締めている。

note記事としての訴求力も高い。ビジネスマン、経営者、営業職、代理店、若手社員、そして「人脈がない」と悩む人すべてに刺さる内容である。ただし、読者によっては耳が痛い文章でもある。だからこそ価値がある。甘い慰めではなく、「人脈がない理由は、自分の生き方にあるのではないか」と読者へ問いを返す力がある。

総じて、本稿は人脈論の体裁を取りながら、実際には人格形成論である。
名刺を集める人間ではなく、信頼を積み上げる人間であれ。そこに、本稿の最も強いメッセージがある。
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文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/6/8 12:00 am

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