■夏目漱石内坪井旧居
◆夏目漱石、五高へ赴任
明治29(1896)年4月13日、愛媛県松山で教鞭をとっていた夏目漱石は、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)教授であった菅虎雄の世話で同大学へ英語の教師として赴任、池田停車場(現在のJR上熊本駅)に降り立った。人力車に乗って新坂から熊本市内中心部へ向かう途中、眼前に広がる市街地を見て「森の都」と言ったと伝えられる。
◆漱石の五高時代
漱石は五高の英語科教授として平穏無事の内に学究生活を送った。当時の五高には、中川元校長、桜井房記教頭、そして佐久間信恭英語科主任、生涯の友人菅虎雄、狩野亨吉、漢学者長尾雨山などが教鞭をとっていた。
漱石は正岡子規へ送った手紙の中で、「教師を辞めて単に文学的な生活を送りたきなり換言すれば文学三昧にて消光したきなり」と書いている。その頃から彼は文学者としての道を考えており、教鞭をとるかたわら俳句の指導者として近代俳句の会「紫溟吟社」を結成。明治30年10月10日五高開校記念式典で、教員総代として「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ・・・」という祝辞を読んだ。・・・漱石、若干30歳の時のことである。
◆漱石の結婚、そして父親に
明治29(1896)年6月9日、「光琳寺の借家」で貴族院書記官長・中根重一の長女鏡子と結婚。列席したのは新婦の父親、車夫など僅か6名と質素な結婚式(式の費用7円50銭)であった。三々九度の盃が一つ足りなかったことに、後に漱石は、「道理で俺たちは、けんかばかりしていたな」と笑ったと言う。内坪井旧居に移った頃には鏡子夫人は妊娠しており、明治32(1899)年5月31日、熊本に赴任して3年目に長女筆子が誕生した。漱石は、「安々と海鼠の如き子を生めり」と少々照れながら詠んでいる。・・・庭内には、筆子が産湯に使ったという井戸が今も尚残っている。
◆小説の題材となった熊本の旅
漱石は、同僚であった山川信次郎などと共に金峰山麓小天温泉(熊本市から西方)や阿蘇(熊本市から東方)などへ旅をした。その旅の体験から「草枕」や「二百十日」などが生まれた。
<利用時間>9:30〜16:30
<休日> 月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日
<入場料金> 大人200円、小人100円
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