■二天一流の由来(霊巌洞石碑より)
二天一流は世に言われている二刀流ではない。剣聖・宮本武蔵は生涯を行雲流水の求道の旅で終わり、30歳の前半を諸国の兵法者と戦い、51歳に至る約20年は史実的に全く空白で、東西に剣客の旅を続け、寛永17年に肥後の細川忠利侯に招かれ、細川藩軍事顧問として肥後千葉城に居住し、忠利侯の命を受け「兵法35箇条」を献上した。
その2年後に兵法35箇条を骨子とした五輪書を霊巌洞に籠り執筆し、正保2年5月12日寺尾勝信に伝授、寺尾信行には35箇条を授与し、師範家相続の証とした。
以来、二天一流は五輪書で確立し、師範家は5流派に分かれ藩外不出として栄え、江戸末期には、野田、山尾、山東の3流派のみ継承され、その後明治から昭和に渡り断絶或いは再興し、県外流出の流派もあり、現在では師範家は野田派のみ連綿として熊本に現存している。
野田派では毎年5月19日の武蔵の命日に霊巌洞で、6月12日の寺尾信行の命日に寺尾信行の墓前で、五方の形、二刀太刀、一刀太刀を奉納し先師の霊を弔い、道場では朝鍛夕練の精神で二天一流の鍛練を続けている。
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