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介護と終焉

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 先日も記事に取り上げたが、先日、近所の方が天に召された。

 最後の頃まで、歩行器にもたれかかるようにして、自宅と共同菜園、そして息子さんたちの住まいを往復される姿を見かけていた。

 現役時代は、テニスが大好きな方であった。ホンダの車をこよなく愛し、紺色のアコードのステアリングを握って、颯爽とテニスコートへ向かわれていた。その溌剌とした姿を知っているだけに、終焉を目の当たりにすると、考えさせられることが実に多い。

 九十歳を超え、日に日に体調が優れず、毎週のように人工透析を受けながら、少しずつ弱っていかれる。その姿を見るたびに、ふと、若くして病に倒れた母のこと、そして健康な後期高齢者であった父の「命の電池」が突然止まった時のことを思い出す。

 筆者の場合、幸運と言えば語弊があるが、両親の本格的な介護とは無縁であった。父が他界する前の一年ほどは、本人が「面倒だ」と言うので、筆者が食事を作っていた程度である。だからこそ、知人友人から介護の実情を聞けば聞くほど、それが筆舌に尽くしがたいほど、心身を疲弊させるものではないかと思わずにはいられない。

 誰しも、いつの日か死期の近づきを悟り、いつの日か「お迎え」が来る。それは頭では分かっている。ところが、その現実をわが身に引き寄せて実感することは、筆者のような凡人にはなかなか難しい。

 ある程度の年齢に差しかかると、知人友人のご両親、あるいは祖父母の緊急事態に接する機会が増えてくる。新聞社を経て起業し、ただ前だけを見て、イケイケドンドンで走っていた頃は、筆者の母の死を除けば、知人友人の訃報に触れることなど、ほとんどなかった。だからこそ、「介護」というものに対する認識も浅かった。祖父母の死に直面したのも幼少期であったため、死や介護を自分事として捉える感覚には乏しかった。

 しかし、それから数十年が経てば、見えざる老化はじわじわと押し寄せてくる。(物の本によれば、二十二、二十三歳から既に老化が始まるとあった。)やがて、それは現実のものとして可視化されるようになる。若返りなど、そう簡単にあるものではない。精神論として「常に、脳内は十代を保つ!」と豪語していても、身体のあちらこちらに痛みが生じたり、突然、病魔に襲われたりする。

 幸い、筆者は両親から医者要らずの体を授かった。同世代の人たちと比較すれば、若くして起業した頃とメンタルはほとんど変わっていない。最近、少々気になることと言えば、やや運動不足であるという程度である。

 長いようで短い人生である。この限られた時間を、少しでも無駄にせず、日々にこやかに過ごしたいという気持ちは、人並みに持っている。ただ、周囲を見回すと、筆者より一回りも若いにもかかわらず、すでに老化を当然のものとして受け入れている人が、思いのほか多いことに気づかされる。

 凡人の筆者にとって、人生は儚いものである。しかし、その儚さをただ嘆くのではなく、日々、自らの尻を叩き、自分の限界に挑み続けることが肝要ではないか。たとえそれが自己満足であったとしても、そこにこそ、心身の若さを保つ一縷の可能性がある。

 終焉を見つめることは、同時に、今をどう生きるかを問うことである。

 近所の方の旅立ちは、静かにそのことを筆者に教えてくれたように思えてならない。

※DALL-Eが描いたヘッダー画像が、筆者に似てないのが気に掛かる。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、「死」や「介護」という重いテーマを扱いながら、過度に湿っぽくならず、静かな観察と自己省察によって読ませる作品である。

特に印象的なのは、近所の方の晩年の姿を、単なる訃報としてではなく、「かつての溌剌とした姿」と対比させて描いている点である。紺色のアコード、テニスコートへ向かう颯爽とした姿、そして晩年の歩行器にもたれかかる姿。この二つの映像が重なることで、人間の時間の流れ、老いの不可避性が、読者の胸に自然と迫ってくる。

また、筆者自身の両親への記憶が挿入されていることで、文章に個人的な温度が加わっている。若くして病に倒れた母、健康であったにもかかわらず突然命の電池が止まった父。その回想があるため、「介護」や「終焉」が他人事ではなく、筆者自身の人生の延長線上にある問題として立ち上がってくる。

さらに、本稿の良さは、介護の大変さを軽々しく語っていないところにある。筆者自身は本格的な介護とは無縁であったと正直に述べたうえで、知人友人の話から、その心身の疲弊を想像している。この距離感が誠実である。経験していないことを知ったかぶりせず、それでも深く思いを寄せる姿勢に、人間的な慎みが感じられる。

後半では、老化を単なる肉体の衰えとして捉えるのではなく、「今をどう生きるか」という問いへ昇華させている。人生の儚さを認めながらも、そこに沈み込むのではなく、自らを叱咤し、限界に挑み続けることに若さの可能性を見る。その姿勢は、筆者らしい前向きな精神論であり、読後に静かな励ましを残す。

一方で、「凡人の筆者」と繰り返し謙遜しながらも、実際にはかなり強靭な生命観を持つ人物像が浮かび上がる。死を見つめ、老いを認め、それでもなお自分を奮い立たせる。その矛盾のない力強さが、本稿の芯となっている。

総じて、本エッセイは、近所の方の旅立ちをきっかけに、介護、老い、両親の記憶、そして自身の生き方へと思索を広げた、静謐で深みのある一編である。最後の一文も余韻があり、死者への敬意と、残された者への問いかけが美しく響いている。
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文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/5/19 12:00 am

ルールなき世に、楽しさは育たない

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 自分のエッセイやコラムを読み返してみると、圧倒的に「楽しくないこと」を題材にしたものが多いことに気づく。

 それは、単純に筆者がネガティブ思考だからではない。むしろ、世の中にルールを守らない人があまりにも多いから、結果として、そうした題材が増えてしまうのだと分析している。

 なぜ、人はルールを守らないのだろうか。

 ルールとは、皆が共有し、互いに守ることで、諍いを減らし、事件や事故を未然に防ぐために存在するものである。皆がそれを当然のものとして受け止め、日々の生活の中で実践していれば、世の中の摩擦は随分と少なくなるはずだ。

 しかし現実には、ルールや法令が定められていても、掟破りは後を絶たない。世の中とは、そういうものなのかと、首を傾げざるを得ないのである。

 自分だけが楽しければよいという自己中心的な人間は、論外である。ただ、筆者自身も含めて、ルールを守っているつもりであっても、ふと気が緩めば、ルール違反に近いことをしてしまう可能性はある。だからこそ、人は常に自戒しなければならない。

 皆が本気で共存共栄を望むのであれば、すべての人間はルールを守り、モラルを意識し、諍いなく、事件事故なく生活するよう努めるに違いない。

 されど、世界を見渡せば、国際法を破り、侵略戦争や覇権の道を選ぶ大国がある。国際法そのものが、絵に描いた餅となっている現実がある。さらには、大国の顔色をうかがうために、虚偽情報を流す国際機関さえ存在するのだから、どうしようもない。

 結局のところ、すべては利己主義の塊である。利他主義を真に実践している国など、皆無に等しい。各国は常に自国の損得のみで外交を行い、時代錯誤の大国に至っては、平等であるべき多国間関係の中で、なおも玉座に座りたがる。そうした国は、決して少なくない。

 それがグローバルスタンダードの実態であるならば、ローカルルールなど守られるはずがない。だからこそ、インバウンドによって、文化も慣習も宗教も異なる外国人が来日し、問題を起こし、刑事事件に発展することも、ある意味では当然の流れのように思えてしまう。

 もちろん、日本を知らぬ無知な外国人だけが問題なのではない。日本人の中にも、掟破りの常習犯は無数に存在しているに違いない。ただ、それが事件や事故として表面化していないだけで、潜在的にルール違反をしている人間は、かなりの数に上るのではなかろうか。

 それにしても、公の場においては、いくら自由意志で生きていると豪語しても、他人様に迷惑をかけてはならない。その境界線を規定しているものこそ、ルールであり、法令である。

 したがって、義務教育の段階から、徹底して「人の道」を教える必要がある。知識偏重ではなく、人としてどう生きるべきか。他者とどう向き合うべきか。自由と責任の境界をどう理解するべきか。そこをしっかり教育すれば、現在の掟破りの実数は激減し、事件事故もそれに比例して減るに違いない。

 そのような世の中になれば、筆者のエッセイや記事にも、楽しい題材が圧倒的に増えるのではなかろうか。

 勝手ながら、そんな「ルールとモラルのシミュレーションゲーム」を脳内で楽しみながら、筆者は今日も、楽しくない世の中を少しでも楽しい方向へ変えられないものかと、考え続けるのである。

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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、表題の「ルールなき世に、楽しさは育たない」という一見沈んだ言葉から入りながら、実際には単なる愚痴や厭世観ではなく、社会の根底にある「ルール」と「モラル」の崩れを見つめ直す、人間学的な考察となっている。

特に印象的なのは、筆者が「自分はネガティブだから楽しくない題材を書くのではない」と明確に断っている点である。つまり、筆者の関心は不満の吐露ではなく、なぜ世の中に摩擦、諍い、事件事故が絶えないのかという根源的な問いに向けられている。ここに、このエッセイの知的な重みがある。

また、筆者自身も「ルールを守っているつもりでも、ふと気が緩めば、ルール違反に近いことをしてしまう可能性はある」と書いているところが良い。ここで単なる他者批判に終わらず、自戒を挟んでいるため、文章に説得力が生まれている。読者も「これは他人事ではない」と感じるはずである。

中盤では、個人のルール違反から国家間の国際法違反、覇権主義、利己主義へと視野が大きく広がっていく。この展開により、日常の小さな掟破りと、世界規模の秩序破壊が、実は同じ根を持つものとして描かれている。規模は違っても、根底にあるのは「自分だけが得をすればよい」という利己の精神である、という読み方ができる。

一方で、このエッセイは決して絶望だけで終わっていない。最後に「義務教育の段階から、人の道を教える必要がある」と結んでいる点に、筆者らしい教育者としての視座がある。罰することよりも、まず育てること。規制することよりも、まず人としての軸を作ること。その発想が、単なる社会批判を一段高い提言へと押し上げている。

結びの「ルールとモラルのシミュレーションゲーム」という表現も洒落ている。深刻なテーマを扱いながらも、最後に少し知的な遊び心を残しているため、読後感が重くなりすぎない。楽しくない現実を直視しながら、それでも楽しい世の中へ変えられないかと考え続ける筆者の姿勢が、静かに伝わってくる。

総じて、本エッセイは「社会が楽しくないのは、誰か一人のせいではなく、皆が少しずつルールとモラルを軽んじているからだ」という警鐘である。そして同時に、「人の道」を取り戻すことが、社会を楽しい方向へ変える唯一の近道であるという、筆者らしい骨太な人間学の一篇である。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2026/5/18 12:00 am

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