
幼い頃は、本を開くより先に外へ飛び出し、日が暮れるまで駆け回る子どもだった。筋金入りの読書嫌いである。その頃のことは、以前の記事にも詳しく書いた。
▼読書嫌いの者が書く本
https://note.com/chikaonishida/n/na6391980677f
そんな読書嫌いが今、Amazonのプリント・オン・デマンドを利用し、取り憑かれたように出版へ傾注している。
自分に文才があるとは思わない。ましてや、虚構の世界を自在に編み上げる小説家の資質があるとも思えない。ただ、いつの頃からか、実際に見たもの、経験したこと、人々の言動や人生の機微を淡々と記録することが、日々の習慣になっていた。
始まりは、ブランディングの過程を綴った記事だった。それらを時系列に並べて読み返すと、予想以上に山があり、谷があり、一つの物語が浮かび上がった。
「これは、記録として残しておきたい」
そう考え、『西田親生流 Branding』の出版に取りかかった。
同じ頃、noteには約4年間で5,000本を超える記事を投稿していた。その中から、人間の生き方や仕事への姿勢を扱ったものを選び、『人の道|人間学厳選録』として一冊にまとめた。主催するセミナーの教材として活用できるか、試してみたいという思いもあった。
気づけば、noteへの投稿は6,787本。目の前には、38巻の紙書籍が並んでいる。わずか8カ月で38巻。自分で成し遂げたことながら、その数字には驚かされる。
もちろん、冊数が完成度を保証するわけではない。読書嫌いだった人間の手によるものだからこそ、未熟さも、粗さも、至らなさもある。それでも、一冊仕上げるたびに、次はもっと良いものを作りたいという思いが強くなる。
38巻は到達点ではない。
いつの日か、心から「これこそ珠玉の一冊だ」と言えるものを世に送り出す。そのための38段の階段なのだと思っている。
書くことで、世界の輪郭が変わった
noteへの投稿は、生活習慣だけでなく、仕事へ向き合う姿勢まで変えてくれた。
身の回りの些細な出来事から社会問題まで、そして自分自身を含めた人間という存在を注意深く観察していると、物事の表面だけでは満足できなくなる。その奥に何があるのか、なぜそうなるのかと、さらに深く掘り下げたくなる。
なぜ、ある人は成功へ向かって駆け抜けていくのか。
なぜ、ある人は同じ場所に立ち尽くしているのか。
なぜ、同じ失敗を何度も繰り返してしまうのか。
以前なら疑問にも思わず通り過ぎていた人々の生きざまや仕事への姿勢が、今では驚くほど鮮明に見える。
心理学そのものに強い関心があるわけではない。机上で組み立てられた理論よりも、自らの実体験や目の前にいる人の言動、そして鏡に映る自分自身の姿を重視する。
人間を学ぶための最良の教材は、案外、遠くの書棚ではなく、目の前の日常に置かれているのではないか。そう思えてならない。
出版によって露わになった、自分の現在地
出版の話へ戻ろう。
Amazon Kindleで電子書籍の出版を始めたのは、ちょうど1年ほど前の8月中旬だった。しかし現在は、一冊を除いてすべて販売を停止している。
理由は単純である。自分の好みに合わなかったのだ。
出版を重ねれば重ねるほど、自分自身の知的水準が否応なく浮き彫りになる。語彙の乏しさも、構成力の不足も、思考の浅さも、ごまかすことはできない。一冊の本は、著者の知性と感性を映す鏡でもある。
それでも書き続ける理由は、ただ一つ。
セミナーの受講生に、わずかでも「気づき」を持ち帰ってもらいたいからである。自らを磨き、同じ失敗を避けるための手がかりとなる教材を残したい。その一心に尽きる。
本業はITとAIである。いかにも現代的で、流行の先端に見える分野だ。しかし、長年追究し続けてきたものは、むしろ「アナログ人間の価値」である。
技術がどれほど進歩しても、それを使うのは人間だ。人間の判断力や倫理観が育たぬまま技術だけが先へ進めば、便利さは、ときとして危うさへ姿を変える。
だからこそ、技術の進歩と同じ熱量で、人間そのものを見つめていたい。
「失敗は成功の母」で終わらせない
幼少期から現在に至るまで、人生には成功も失敗もあった。紆余曲折という言葉では足りないほど、いくつもの波に翻弄されてきた。
だからこそ、特に失敗については、その原因を突き止めたいと思う。
「失敗は成功の母」と言えば聞こえはよい。しかし、失敗の中には、取り返しのつかないものもある。傷つかなくてもよかった人が傷つき、失わなくてもよかった信頼や時間、そして命さえ失われることがある。
ならば必要なのは、失敗を美談に変えることだけではない。
失敗を未然に防ぐための知的水準を高めることではないか。
観察し、考え、先を読み、自分の思い込みを疑う。その習慣が誰かの人生に役立つのであれば、重ねてきた失敗も、初めて意味を持つ。
棺の隣で知った、命の重さ
若い頃、辣腕経営者として知られた方が、鉄道へ身を投じて亡くなった。
警察から、身元確認を求める電話が入った。深夜で、ご家族による確認が難しい状況だったのだろう。亡くなる前夜、その方が自宅へ「いさきの塩焼き」を夜食として届けてくれていた。その事実があったからこそ、連絡が来たのだと思う。
遺体を搬送する車両の中で、棺の隣に座った。
土砂降りの雨の中、およそ30分。車内に響く雨音を聞きながら、人の命の儚さを思い知らされた。
前夜まで言葉を交わし、食べ物を届けてくれた人が、今は棺の中にいる。
人は、これほど突然に「生きている側」から「記憶の中の人」へ移ってしまうのか。
あの30分は、その後の人生観を根底から変えた。命は当然のように明日へ続くものではない。どれほど地位があり、能力があり、多くの人から頼られている人であっても、心の内側には他人からは見えない闇を抱えていることがある。
この出来事を、いつか実録として本に残したいと思ったこともある。しかし、すでに数十年が過ぎ、本人は帰らぬ人となった。残された妻と長男の心情を思えば、記憶の箱に収め、静かに鍵を掛けておくべきなのだろう。
記録には価値がある。しかし、書けることのすべてを、書いてよいわけではない。沈黙もまた、人への敬意を伝える一つの文章なのだと思う。
記憶を記録に変えるということ
話が重くなった。
出版歴わずか8カ月の青二才のエッセイストが、「記録の意義」を大上段から語るつもりはない。ただ、今は、記憶を記録として残すことが以前にも増して重要に思える。
文才に恵まれていなくても、自分の専門分野や趣味、身の回りの人間模様をつぶさに観察し、言葉として残すことはできる。それがいつか誰かにとっての「人生のヒント」になれば、これほど嬉しいことはない。
さらに、この世を去った後、書籍を手に取った人が、「西田親生とは、こういう人間だったのか」と、その実像に触れてくれるかもしれない。
文章は、ときに本人より長く生きる。生前に生じた誤解を、死後に解く鍵になる可能性さえある。
歴史を知らずして、最先端は語れない
ITやAIについて書く際にも、歴史的背景や技術の変遷を重視している。
どれほど新しい技術であっても、ある日突然、何もない場所から現れたわけではない。過去の発明や試行錯誤、成功と失敗の積み重ねの先に、現在の「最先端」がある。
歴史と経緯を学ばなければ、新技術の正体を見誤る。
たとえば、黒電話を知らない世代には、電話をかけるために指でダイヤルを回していた時代を想像するのは難しいだろう。「ダイヤル回して、手を止めた」という歌詞を耳にしても、その動作や情景は浮かびにくい。
だが、過去を知る人には、その短い一節から、ためらい、緊張、沈黙、そして電話をかけられなかった人の心情まで見えてくる。
道具の歴史は、人間の感情の歴史でもある。
一つひとつの技術が生まれた背景と進化の過程を知れば、現在の姿だけでなく、その先に待つ未来まで、さまざまな角度から見えてくる。それこそが記録の価値であり、時代の流れを手のひらに載せて眺める面白さではないだろうか。
我流だからこそ、書けるものがある
私の執筆方法は、職業作家のそれとは大きく異なる。
文豪や著名作家、爆発的な影響力を持つインフルエンサーの手法をまねようとは思わない。すべて我流である。
唯一無二のものが好きだ。アナログな人間の営みが好きだ。
そして、悩みを抱える人が何度も同じ過ちを繰り返す姿を見ると、どうにかして、その連鎖を止められないものかと思う。差し出がましいことは承知している。それでも、その思いが執筆へ向かわせる原動力の一つになっている。
もちろん、これは他人だけに向けた言葉ではない。何よりも、自分自身への戒めである。
人は「慣れ」と「麻痺」によって立ち止まる。
同じ環境に長くいれば、異常さえ日常に見えてくる。違和感を覚える力を失い、自分が停止していることにさえ気づかなくなる。
しかし、ほんの少し観察の角度を変え、物事の読み方を改め、凝り固まった価値観を調整するだけで、それまでとはまったく異なる景色が現れることがある。
人生を変えるきっかけは、必ずしも大事件の姿をしてはいない。一行の文章かもしれない。誰かの何気ない一言かもしれない。あるいは、自分自身へ投げかけた、たった一つの問いかもしれない。
人生という一瞬を、一冊に刻む
人生は長いようで、短い。
地球や宇宙の歴史から見れば、人間の一生など、ナノ単位の点にも満たない。その一瞬を生きる存在として、今をどう生きるべきか。私は自問自答を続けている。
おそらく、この問いの最適解は、この世を去る瞬間まで得られないだろう。
「歴史は繰り返す」と言われる。とりわけ過ちが繰り返されるのは、人間が過去から十分に学んでこなかったからではないか。
もし、私たちの学ぶ力が少しでも高まれば、大切な人の命を奪う理不尽な行為は減らせるかもしれない。自分の命を絶つほど追い詰められた人の異変にも、もう少し早く気づけるかもしれない。
あの土砂降りの夜、棺の隣で過ごした30分は、私の中で今も終わっていない。
人生というナノの点に立つ私たちには、それぞれに与えられた時間がある。その時間の中で、自分の命を大切にし、同じように他者の命を大切にできるのであれば、それ以上に願うことはない。
拙著に興味を持ってくださる方がいれば、書籍一覧の中から、★印を付したものを一冊でも手に取っていただければ幸いである。
そこには、完成された人間の答えが書かれているわけではない。
迷い、転び、ときに立ち止まりながら、それでも考えることをやめなかった一人の人間の足跡が刻まれている。
私は、まだ珠玉の一冊へたどり着いてはいない。だからこそ、書き続ける。38巻の先にある一冊を目指して。
そして、できることなら皆さんにも、人生で一冊、唯一無二の本を編んでいただきたいと思う。
華々しい成功の物語でなくてよい。失敗も、後悔も、誰にも言えなかった苦悩も、その人にしか書けない人生の一部である。



----------
▼ChatGPTによる感想
本稿を読んで最も強く感じたのは、これは単なる「出版への思い」ではなく、失敗や喪失を他者に手渡せる「知」へ変えようとする決意の文章だということです。
とりわけ印象深いのは、「失敗は成功の母」という常套句に安住していない点です。失敗には、後から成長物語として回収できるものばかりではなく、信頼や時間、時には命まで奪うものがある。だから失敗を美化するのではなく、原因を観察し、言語化し、同じ過ちを防ぐ材料として残すべきだという主張には、実体験から生まれた重みがあります。
棺の隣で過ごした土砂降りの30分についての記述は、本稿の核心でしょう。前夜まで生きていた人が突然「記憶の中の人」になる。その衝撃が、命へのまなざしと執筆の動機につながっています。同時に、「書けることのすべてを、書いてよいわけではない」「沈黙もまた、人への敬意を伝える一つの文章」という認識には、記録者としての倫理が表れています。記録の価値を説きながら、記録しないという選択の価値も認めているところに、本稿の深みがあります。
また、38巻という数字を勲章ではなく「38段の階段」と捉える姿勢も好ましく感じました。量産への自負はあるものの、自身の語彙、構成力、思考の浅さを率直に認めている。その自己批評性があるからこそ、「珠玉の一冊を目指す」という言葉が単なる自己宣伝ではなく、今後も学び続けるという宣言として響きます。
本稿の価値は「成功者が答えを教える」という構図を取らず、未完成の人間が迷いや失敗の過程を差し出していることにあります。人の経験は、成功したときだけ教材になるのではありません。何を見誤り、なぜ立ち止まり、そこから何を考えたのかを誠実に記録すれば、失敗もまた誰かを守る知恵になり得ます。
最後の「人生で一冊、唯一無二の本を」という呼びかけも、実際の出版だけを意味するものではないのでしょう。自分の人生を振り返り、経験に言葉を与え、自分なりの意味を見いだすこと。その営み自体が「一冊を編む」ことなのだと思います。本稿は、完成された答えよりも、考え続けた足跡に価値があることを伝える、誠実で切実な人生論だと感じました。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
https://www.dandl.co.jp/
文責:西田親生

![ロゼッタストーン[異業種交流を軸に、企業の業務合理化及び企業IT戦略サポートいたします]](../img2/rosettastone.png)




















Comments