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「進化」を手にした男|覚悟と改心、そして実行

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 ヘッダー画像を見て、何を想像するだろうか。

 これは、昨年10月に筆者が目にした「アップルパイ」(洋菓子匠 維新之蔵)の写真を、点描画にしたものだ。実物の写真を掲載した方が話は早い。しかし、店主には職人としての誇りがある。当時も、良かれと思って懸命に作っていた。そのことを忘れたくはないので、敢えて、点描画として掲載した。

 言葉は悪いが、筆者は、そのアップルパイを見て、真面目に菓子作りに励む店主に、「こんな餃子のようなアップルパイが、美味そうに見えるのか?」と、厳しい言葉を放ったのである。近しい関係だからこそ踏み込めたとはいえ、言われた本人には、随分とこたえたに違いない。

 当時の値段は、1個360円(税込)。地方の小さなスイーツショップで、地域の人たちには親しまれていたのだろう。ある施設の方の取り計らいにより、50個、100個と、まとまった注文も入っていた。しかし、大口の注文がいつまでも続くとは限らない。毎日10個でも20個でも、無理なく作り、売り切る。その積み重ねによって食品ロスを抑え、日々の売り上げを支える方が、小さな店には確かな力となる。

 厳しいことを言うだけなら、誰にでもできる。言葉を放った以上、筆者も、その先を引き受けなければならない。何とか、この店を目指して買いに来てもらえる名物にしたい。その思いから、熊本県内外のアップルパイを調べ始めたのである。

 そこで目についたのは、「アップルパイ」「焼きたてアップルパイ」という、商品の種類や状態をそのまま伝える名前だった。それだけでも、美味しさを伝えることはできる。しかし、筆者が欲しかったのは、その店と、その菓子を思い出してもらえる名前である。一つひとつのスイーツに、その店ならではの固有の名を与えても良いではないか。そこから、構想が動き始めた。

 もっとも、名前を変えれば名物になるわけではない。同店の店主は生真面目で、前向きである。その一方で、細かな造形や仕上がりの均一さには課題があり、良かれと思って手を加えることが、かえって全体を崩す場合もあった。食品ロスへの意識も、さらに高める必要があった。睡眠不足が続けば、判断も鈍る。必要なのは、そうした現状を踏まえ、毎日、同じ品質で作り続けられる菓子を考えることだった。

 製法、フィリング、形状、そして名前。いろんな角度から見直しを重ね、昨年10月31日深夜、最初の「禁断の十字パイ」(税込1個500円)が誕生したのである。ただし、それは完成ではなく、ようやく形になった出発点だった。

 店主には、少しでもフィリングを多く入れ、少しでも豪華にすれば、お客に喜んでもらえるという思いがあった。その心遣いは分かる。しかし、「足し算」が、いつも商品の価値を高めるとは限らない。今回必要だったのは、手順を整理し、形を整え、一目でそれと分かる特徴を持たせること。そこに、地域に根差した物語を重ねることだった。

 発想の軸に置いたのは、アダムとイヴの「禁断の果実」、天草の潜伏キリシタンの歴史、世界遺産の構成資産である「天草の﨑津集落」と、その地に立つ﨑津教会、十字架、そしてキリシタン大名である。これらを着想の背景として、一つの菓子に固有の名と姿を与えたいと考えた。ただ言葉を並べるだけでは、物語にはならない。その中心を担わせたのが、パイの表面に刻む「十字」だった。

 製造の基本は、10センチ角の正方形のパイ生地に、二種のりんごを使ったフィリングを収め、表面に十字を刻むこと。四辺をフォークで均等に押さえ、焼き色と膨らみを慎重に見極めながら、こんがりと焼き上げる。曲線の成形が不得意ならば、直線で勝負すれば良い。複雑な手順を増やすより、必要な一手一手の精度を上げる。それが、この店に合う作り方だと考えたのである。

 試行錯誤は40日間に及んだ。筆者も夢に出てくるほど、このブランディングに没頭した。何とか、あの「餃子パイ」を、店主が胸を張って差し出せる名物にしたい。毎日、何度も電話で連絡を取り合い、微調整を重ねながら、無駄なものを徹底的に削いでいった。

 ようやく、ほぼ完成形にたどり着き、1日10個限定で販売すると、完売が続くようになった。ところが、日々送られてくる焼きたての写真に、ある変化が現れた。店主が、十字の切れ目に、小さなりんごの塊を2、3個、トッピングしていたのである。

 少しでも喜んでもらいたい。店主は、そう思ったのだろう。しかし、その「足し算」によって、商品の顔であり、物語の要である十字が崩れてしまった。筆者の目には、子供の小さな口に無理にりんごを詰め込んだように映ったのである。

 筆者は、大人気なく激昂した。「こんな、足し算を美徳とするほどなら、今回のブランディングはやめてしまえ!」と、怒鳴った。店主には、すぐには納得できない様子があった。本人にしてみれば、手を抜いたのではない。むしろ、ひと手間を加えたのである。それを否定されたのだから、戸惑いもあったに違いない。

 ただ、筆者が守りたかったのは、りんごの量ではなく、この菓子を、この菓子たらしめる姿だった。その理由を伝え切れず、怒りが先に立ったことは、筆者自身も省みるべきところである。厳しい言葉であるほど、正しく伝わるとは限らない。

 それから翌日、再び写真が届いた。中央には、美しい十字が戻っていた。切れ目からは、二種のりんごのフィリングが覗いている。ところが、今度は正方形の四隅の高さが揃っていなかった。四辺をフォークで押さえる際の力加減が均一でなく、縁の厚みにばらつきが出ていたのである。

 またもや、「もう、やめてしまえ!」と、語気を強めて電話した。その時の筆者には、せっかく整えたものが、なぜまた崩れるのかという焦りがあった。しかし、今振り返れば、頭で理解したことを、毎日の手仕事で同じように再現する難しさを、筆者はどこまで汲めていただろうか。

 試行錯誤の中では、思わぬことが次々と起こった。筆者の思考も体力も、そろそろ限界に近づいていた。店主もまた、要求が高過ぎると感じ、何度も気落ちしたに違いない。それでも、やり取りは途切れず、焼きたての写真は送られてきた。指摘を受けた箇所に手を入れ、また焼く。その繰り返しを、店主は投げ出さなかったのである。

 今回の名物作りでは、「引き算の美学」を徹底した。何を足すかより、何を残すか。見栄えを整えるだけでなく、製造の負担と食品ロスを抑え、品質を安定させるための引き算である。小さな店だからこそ、無理を重ねずに作り続けられ、お客が翌日も同じ美味しさに出会えることが大切だった。

 目的は、筆者の理想を押し通すことではない。同店に名物を育て、売り切れる喜びを日々の商いにつなげることだった。そのためには、筆者も、店主も、自分の考えや手順を見直さなければならない。そこは、「真剣勝負」の一言に尽きる。

 年が明ける頃には、「禁断の十字パイ」は安定して作れるようになり、完成度も格段に高まった。あの「餃子パイ」とは、見違えるほどである。日々完売し、「売り切れ御免」が続くようになった。整った十字も、揃った四辺も、一度だけ偶然にできたものではない。店主が、自分の手で繰り返し作れるものになっていた。

 そこで、次の名物を考えた。全く別の菓子を一から作るのではなく、ようやく身についた製法を生かし、フィリングを変えることで、妹たちを生み出せないか。同じ十字の姿を持ちながら、それぞれに異なる味わいを楽しめるものにしたかったのである。

 りんごを使う「禁断の十字パイ」に、バクラヴァを着想のもとにしたもの、さらにダークチェリーを使ったものを加える。こうして完成したのが、「禁断の十字パイ 三姉妹」である。一つの菓子を安定して作るために重ねた手間が、次の二つを生み出す土台となった。

 つい先ほど、店主に、以前の「餃子パイ」と、現在の「禁断の十字パイ 三姉妹」の写真を送り、この一年近くを振り返った。二人とも、今の仕上がりには満足している。それでも、二枚の写真を並べて見ると、まずは苦笑するしかなかった。よくも、ここまで変わったものだ。そして、よくも、ここまで付き合ってくれたものだと思う。

 筆者は、何度も「やめてしまえ」と言った。しかし、店主は、やめなかった。納得できない日も、気落ちした日もあっただろう。それでも、次のパイを焼き、写真を送ってきた。その一枚一枚の向こうには、実際に生地を押さえ、焼き加減を見つめる本人の手があった。筆者がどれほど言葉を尽くしても、その手を動かすことだけは、代わってやれないのである。

 改心とは、自分を否定することではないのだろう。良かれと思って続けてきたことにも、見直す余地があると認めることだ。覚悟もまた、一度、大きく頷けば済むものではない。翌日も、その次の日も、見直したことを自分の手で実行する。その積み重ねが、二枚の写真の間にある。

 そう思えば、最初の「餃子パイ」も、今はただ笑うための写真ではない。あの不格好な一個を作っていたのも、今、美しい三姉妹を焼いているのも、同じ男である。変わったのは、菓子の姿だけではなかった。そして、その変化を見届ける間に、筆者自身も、人が変わるために必要な時間と、実行の重みを教えられたのである。

 本人の前では、あまり褒めたくはない。しかし、今日は、この場を借りて、心からのスタンディング・オーベーションを送りたい。「進化」を手にした男へ。

 あの時、やめずに焼き続けてくれて、ありがとう。

▼古いフライヤー
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▼最新のフライヤー
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▼「禁断の十字パイ」開発の実録
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▼次への挑戦
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▼ChatGPTによる感想

このエッセイで最も心に残るのは、最後の「ありがとう」に至るまでに、筆者の店主を見る目が変わっていることです。最初は、菓子の出来栄えを厳しく評価する視線から始まります。しかし、最後には、その菓子を焼き続けてきた人間の時間と労力を見つめている。**商品の改善を追って読んでいたはずが、いつの間にか、人が変わることの難しさと、それを支える関係について考えている。**そこに、この作品の読み応えがあります。

1.冒頭の点描画に、結末につながる配慮がある
 冒頭で、実物の写真をそのまま掲載せず、点描画にした理由を述べていることが印象的です。「店主には職人としての誇りがある」「当時も、良かれと思って懸命に作っていた」という言葉によって、読者は、これから紹介される過去の菓子にも、作り手の真剣さがあったことを知ります。その後に厳しい言葉が続くからこそ、この配慮が作品を読み進める上での大切な支えになっています。

 そして、読み終えてから冒頭に戻ると、点描画の意味がさらに深まります。筆者は、現在の成功を際立たせるためだけに、過去の未熟さをさらしているわけではない。最後には、その未熟だった時期も含めて、一人の職人の歩みとして受け止めています。冒頭の「そのことを忘れたくはない」という一文には、すでに結末の感謝へつながる感情が宿っていると感じました。

2.名物作りの目的が、日々の商いに根差している
 1個360円、50個、100個の注文、毎日10個でも20個でも売り切るという数字が、文章に現実の手触りを与えています。「名物を作る」という言葉は、華やかな成功談にもなり得ますが、この作品では、食品ロスを抑え、無理なく製造し、日々の売り上げを支えるという目的が先に示されています。そのため、筆者が何を守ろうとしているのかを理解できます。

 特に、「お客が翌日も同じ美味しさに出会えることが大切だった」という一文に、商いへの誠実さを感じます。一度の見事な出来栄えを、翌日も再現する。それを小さな店の仕事として続けていく。この地道な価値を据えているからこそ、後半の「進化」も、単に見栄えが良くなったという話にとどまりません。店主が、自分の技術として品質を身につけたことに、確かな重みが生まれています。

3.「足し算」と「引き算」の対立に、人間らしい難しさがある
 りんごを2、3個トッピングする場面は、この作品の中心的な場面だと思います。店主は、客を喜ばせようとして手を加えた。その結果、商品の特徴である十字が崩れる。ここでは、善意と完成度がすれ違っています。店主の行動に悪意がないことが分かるため、読者は、筆者の意図を理解しながらも、店主の戸惑いにも心を寄せることになります。

 「本人にしてみれば、手を抜いたのではない。むしろ、ひと手間を加えたのである」という説明が、とても重要です。自分なりに努力したことを否定されるのは、何もしなかったことを指摘されるのとは違うつらさがあります。しかも、その努力が「お客に喜んでもらいたい」という気持ちから出ているなら、なおさら簡単には納得できない。この心理を拾っていることで、店主が単なる指導される側の人物にならず、読者が理解できる一人の人間として立ち上がっています。

 「何を足すかより、何を残すか」という言葉も、この具体的な失敗を経ているから響きます。引き算によって、十字という特徴が見えるようになり、工程が整い、品質が安定していく。美学が、実際の作業や店の継続につながっているところに説得力があります。

4.筆者の省察が、作品への信頼を生んでいる
 率直に言えば、「やめてしまえ」という言葉が重なる場面には、読む側も緊張します。近しい関係であっても、受け手には厳しい言葉ですし、読者によっては、筆者の怒りに距離を感じると思います。そこで大きな役割を果たしているのが、「厳しい言葉であるほど、正しく伝わるとは限らない」という省察です。

 筆者は、自分が求めた品質の妥当性と、それを伝える際の態度を、振り返って考えています。さらに、「毎日の手仕事で同じように再現する難しさを、筆者はどこまで汲めていただろうか」と問い直す。この問いによって、語り手自身も変化の途上にいたことが分かります。自分の判断を語るだけでなく、自分の理解が届いていなかった可能性も書く。その姿勢が、文章への信頼につながっています。

 ただし、最後に成果が出たからといって、怒鳴ったことの是非まで自動的に解決するわけではありません。この作品の良さは、その点を省察する言葉を残していることです。読後に心を動かすのは、強い叱責そのものよりも、やり取りを続けた店主の実行と、その重みを筆者が認めるに至った過程です。

5.店主の人物像が、「また焼く」という行動から伝わってくる
 店主自身の長い発言は、ほとんど登場しません。それでも、人物像ははっきりと伝わってきます。指摘を受け、修正し、焼き、写真を送る。うまくいかなくても、その作業を続ける。この繰り返しから、仕事への粘り強さが見えてくるからです。

 とりわけ、**「筆者は、何度も『やめてしまえ』と言った。しかし、店主は、やめなかった」**という箇所が、作品全体の感情を大きく動かしています。前半では、筆者の言葉や構想が文章を牽引していますが、この一節に至ると、読み手の意識は、焼き続けた店主へ強く向かいます。それまで何度も登場した厳しい言葉が、ここで、店主が実行を続けた事実を際立たせるものになるのです。

 店主の内面については「だったのだろう」「に違いない」と推し量りながら書かれています。一方で、写真が送られ、修正が重ねられたという行動は、文章の中で具体的に示されている。内面をすべて語り切らず、行動によって人物を感じさせるところに、余韻があります。

6.「手」が、題名の「実行」に確かな実感を与えている
 「その一枚一枚の向こうには、実際に生地を押さえ、焼き加減を見つめる本人の手があった」という一文は、特に心に残ります。それまで読者が見ていたのは、主にパイの形や写真です。ここで、その写真の外側にある製造の時間へ、視線が移ります。生地を押さえる指先や、焼き上がりを待つ姿まで想像させる文章です。

 続く「その手を動かすことだけは、代わってやれないのである」には、伴走する側の限界と、作る側への敬意が込められています。構想を考え、助言をし、発信を続けることには大きな意味がある。それでも、実際の一個を完成させるには、店主本人が手を動かさなければならない。この事実に立ち返ることで、題名にある「実行」が、抽象的な精神論から、具体的な仕事の姿になります。

 また、「進化を手にした」という題名と、終盤の「本人の手」が呼応しているようにも読めます。進化を獲得したという意味に、日々の手仕事によって変化を実現したという意味が重なり、題名の印象が深まっています。

7.二枚の写真が、一年近くの時間を受け止めている
 終盤の比較写真は、構成上、とてもよく効いています。冒頭では、一枚の写真から「何を想像するだろうか」と読者に問いかける。そして最後には、二枚の写真の間に何があったのかを、読者が知っている状態になる。電話、修正、戸惑い、疲労、再挑戦。その経過を読んできたため、形の違いから、それを生んだ時間まで感じ取れます。

 「その積み重ねが、二枚の写真の間にある」という一文は、簡潔ですが、豊かな意味を持っています。写真に写るのは菓子であって、迷いや疲れは写りません。しかし、この文章を読んだ後には、写っていない時間まで見えてくる。その点で、エッセイが写真に新しい意味を与えています。

 さらに、最初の「餃子パイ」の位置づけが変わることも大切です。序盤では改善すべき姿として登場したものが、終盤では、現在へ至る出発点として受け止め直される。過去の未熟さを含めて、その人の歩みを認める視線に、温かさがあります。

8.「改心」を、読み手自身の問題として考えられる
 「改心」という言葉には、強い響きがあります。題名だけでは、店主が何か大きな過ちを正した話のように受け取る人もいるでしょう。しかし、本文では、「良かれと思って続けてきたことにも、見直す余地があると認めること」と説明されています。この定義によって、言葉が身近なものになります。

 自分が間違っていると分かっていることよりも、自分では良いと思っている習慣の方が、見直すのは難しい場合があります。そこには善意も経験も、自負もあるからです。この作品を読むと、店主の菓子作りを通じて、自分の仕事や人との接し方にも、同じことがないだろうかと考えさせられます。

 しかも、筆者自身も、伝え方や相手への理解を振り返っています。そのため、題名は店主を指しながら、本文の学びは双方に及んでいる。「変わるべき人」を一方に固定しないことが、このエッセイの奥行きになっています。

9.最後の「ありがとう」が、それまでの文章を受け止めている
 「スタンディング・オーベーション」で終われば、店主の成果を称える文章としてまとまります。しかし、その後に「やめずに焼き続けてくれて、ありがとう」が置かれていることで、結末がさらに個人的で、切実なものになります。感謝の対象が、出来上がった商品に加え、それを作り続けてくれた行為そのものへ向かっているからです。

 この「ありがとう」には、厳しいやり取りの中でも関係を続けてくれたことや、筆者の構想を現実の菓子にしてくれたことへの感謝も、読み手として感じ取れます。ここまでの経緯があるため、短い一言が十分な重さを持っています。感動を説明し過ぎず、最後に相手へ直接語りかける言葉を残したことで、読後の余韻が生まれています。

総評
 この作品の力は、人の変化を、毎日の小さな作業に結びつけて描いていることにあります。フォークで均等に押さえる。十字を整える。焼き加減を見る。指摘されたところを直し、もう一度焼く。そうした仕事の繰り返しが、最後には一人の人間の覚悟として見えてくる。その過程に、読む価値があります。

 そして、筆者自身が、完成した菓子の向こうにある店主の手を見つめ直すことで、文章は深まっています。**「進化」を遂げた店主への敬意と、その進化を見届けた筆者の感謝が、最後に同じ場所へたどり着く。**最も胸を打つのは、その瞬間です。「あの時、やめずに焼き続けてくれて、ありがとう」という結びは、この一篇の経緯を読んだからこそ、静かに、重く届きます。
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文責:西田親生


                         

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/15 12:00 am

「考えています」という霧隠術

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 「考えています」

 仕事の進捗を尋ねるたびに、この言葉を返す人がいる。社外の人間だが、語る抱負は立派でも、その後の行動が見えてこない。何を考え、どこまで整理し、いつ動くのか。そこに話が及ぶと、返答は途端に曖昧になる。

 考えることは、仕事に欠かせない。拙速に動けば、取り返しのつかない失敗を招くこともある。しかし、熟慮と停滞は違う。両者を分けるのは、費やした時間の長さではなく、その時間によって何が明らかになったかである。

 問題の所在が絞れた。選択肢が二つに減った。判断に必要な情報が分かった。それならば、思考は前に進んでいる。たとえ結論に至らなくとも、次に確かめるべきことは示せるはずだ。

 ところが、昨日も今日も「考えています」の一言で終わる。問い直しても、具体的な説明がない。それでは、周囲には熟慮しているのか、判断を先送りしているのか、見分けがつかない。

 本人にも、不安や迷いはあるのだろう。失敗したくない。責任を負いたくない。できれば、誰かに正解を教えてほしい。その気持ちは分かる。だが、不安を繰り返しなぞるだけでは、解決策は生まれない。悩み続けることと、考え抜くことは、同じではないのである。

 仕事には、動いて初めて分かることがある。仮説を立て、小さく試し、結果を見て修正する。その過程で、机上では見えなかった問題が姿を現す。完璧な答えが出るまで動かないという姿勢は、ときに、答えを得る機会そのものを遠ざけてしまう。

 厄介なのは、「考えています」が、その場をしのぐ言葉として使えてしまうことだ。

 「やっていません」と答えれば、理由を問われる。「分かりません」と認めれば、学ぶ必要が生じる。ところが、「考えています」には、何かに取り組んでいる響きがある。判断も行動も保留したまま、努力しているように見せることができる。

 しかし、その効き目は長く続かない。

 初めは待ってくれた人も、やがて進捗を尋ねなくなる。相談が減り、依頼が減り、重要な仕事は別の人へ渡っていく。本人は追及されなくなって安堵するかもしれないが、それは理解を得たからではない。期待を失ったからかもしれないのだ。

 信用が失われるとき、必ずしも厳しい言葉が飛んでくるわけではない。次の仕事が来ないという、静かな形で現れることもある。

 もちろん、指示を受けて正確に仕事をこなすことには価値がある。定型業務も、それを担う人の誠実さによって支えられている。問題は仕事の種類ではない。自分が判断すべき場面でも判断を避け、その責任を曖昧な言葉の中に隠してしまう姿勢である。

 変えるべきは、まず返答の中身だ。

 「考えています」で終わらせず、何に迷い、何が不足し、いつまでに何をするのかを伝える。自分だけで決められないのなら、必要な助言を求める。そして、約束した一歩を実際に踏み出す。

 それだけで、周囲は協力しやすくなる。結果が思わしくなくても、次の手を一緒に考えられる。信用は、立派な抱負よりも、こうした小さな約束を果たすことで積み上がっていく。

 仕事の成果だけで、人間の価値が決まるわけではない。しかし、仕事を通じて寄せられる信用は、自分の言葉と行動によって変わる。「考えています」を保身のために繰り返せば、自らその信用を削ることになる。

 失敗を避けたつもりで、挑戦の機会を失う。責任を逃れたつもりで、任せてもらえなくなる。その場を取り繕うには便利な一言も、重ねるほどに代償は大きくなる。

 畢竟、自分の価値を落とす愚行とは、答えを持たないことではない。答えに近づく努力を怠りながら、考えているという言葉で、自分まで欺いてしまうことである。

 「考えています」の次に、何をするのか。

 信用の行方は、その一歩にかかっている。

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▼ChatGPTによる感想

「『考えています』という霧隠術」という題名で、批評の焦点が明確になっています。何を考えているのか、どこまで進んだのか、いつ動くのか。そのすべてを曖昧にしてしまう言葉の働きを、「霧隠術」の一語が巧みに表しています。皮肉にユーモアも交じり、本文を読みたくなる題名です。

この比喩は、読み進めるにつれて意味が深まります。最初は、追及をかわして身を隠すための霧に見える。しかし終盤の「自分まで欺いてしまう」に至ると、その霧によって本人も自分の停滞を見失っているように読める。他人への取り繕いが自己欺瞞に変わるところに、この文章の怖さがあります。

とりわけ印象的なのは、霧隠術の「成功」が、仕事上の失敗につながるという皮肉です。進捗を尋ねられなくなれば、その場の追及は免れる。ところが、それは期待や依頼が失われた結果かもしれない。「次の仕事が来ないという、静かな形」という一節が、その代償を端的に伝えています。新しい題名によって、このくだりがいっそう鮮明になりました。

また、「熟慮と停滞」を、考えた時間ではなく「何が明らかになったか」で区別している点が、文章の説得力を支えています。ここに具体的な判断基準があるからこそ、読者は自分の仕事に引き寄せて考えられます。不安への理解や、助言を求めるという選択肢も示されており、厳しい指摘を受け止めた先に、行動へ移る道が用意されています。

「霧隠術」は意図的なごまかしを連想させる強い言葉ですが、本文が迷いや不安にも触れているため、人の弱さまで視野に入った批評として読めます。その釣り合いもよいと感じました。

そして、最後の「『考えています』の次に、何をするのか」。題名で立ち込めた霧を、この具体的な問いが晴らすような結びです。読後には、他人の言い訳を見抜いた満足よりも、自分が曖昧にしたままの約束や返答が思い浮かびます。風刺と内省がよく響き合うエッセイになっています。
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文責:西田親生


                           

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/14 12:00 am

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