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若者の車離れではない|車を持てない時代になった

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 自動車保険について調べていると、若年層が初めて任意保険へ加入する場合、契約条件によっては年間20万円を超えるケースがあることを知った。

 もちろん、自動車保険料は年齢、等級、車種、補償内容、車両保険の有無、免許証の色、使用目的などによって大きく異なる。したがって、一概に「年間20万円」と決めつけることはできない。

 以下は、あくまでも筆者なりのシミュレーションである。

 新社会人となった若者が実家を離れ、アパートを借り、300万円程度の新車を購入すると仮定してみた。

1)自動車ローン:約4万円/月(残価設定型を想定/ボーナス払いなし)
2)任意保険料:約1万7千円/月(年間約20万円と仮定)
3)アパート家賃:約6万円/月
4)水道光熱費:約2万円/月
5)駐車場代:約1万円/月(熊本市近郊の住宅街を想定)

 ここまでで、月額約14万7千円である。

 仮に手取り月収18万円の新社会人であれば、残るのは僅か3万3千円ほど。

 しかも、この計算には食費、通信費、日用品、衣服費、交際費などが含まれていない。それどころか、車の燃料代、自動車税、車検、整備、タイヤや消耗品などの費用さえ入れていない。

 つまり、現実には3万3千円が自由に使えるわけではないのである。

 例えば燃料代を月1万円とすれば、残額は約2万3千円。そこから食費やスマートフォン料金などを支払えば、家計が成立しない可能性さえ出てくる。

 EVであっても事情は同じである。ガソリン代は不要になるが、走行する以上、充電に必要な電気料金は発生する。「EVだから燃料費ゼロ」という計算にはならない。

 さらに、300万円の車を残価設定型ローンで購入した場合、月々の支払額だけを見て安心することもできない。契約満了時には返却、乗り換え、残価の精算や再ローンなどを検討する必要がある。

 こうして数字を並べてみると、「若者の車離れ」という言葉そのものに疑問を感じてしまう。

 本当に若者が車を嫌いになったのだろうか。

 むしろ、「車から若者が離れた」というより、購入価格と維持費の上昇によって、「若者から車が遠ざかっている」と見るべきではなかろうか。

 筆者が新社会人だった頃を思い返しても、自動車保険が現在の若年層ほど大きな負担として感じられた記憶はない。

 しっかりしたディーラーでは大手損害保険会社の商品を扱っていることが多く、事故時の対応や補償内容を考えれば、保険料の安さだけで選ぶべきものではない。しかし、安全・安心の対価であるとしても、若者にとって年間数十万円の負担は決して小さなものではない。

 現在では、車両代だけでなく、保険や税金、車検、点検などをまとめたカーリースも普及している。月々の支出を一定にしやすい点では合理的な選択肢だが、契約期間全体の総支払額や走行距離制限、中途解約条件、契約満了時の扱いまで確認する必要がある。

 特に考えなければならないのは地方である。

 鉄道やバスなどの公共交通機関が充実した都市部であれば、車を所有せず、公共交通機関やカーシェア、レンタカーを利用するという選択肢がある。

 しかし、地方では事情が異なる。

 通勤、買い物、通院など、日常生活そのものが自動車を前提として成り立っている地域が少なくない。そこでは、車は「趣味」や「贅沢品」ではなく、生活を維持するためのインフラに近い存在である。

 それにもかかわらず、車両価格、保険料、燃料費、税金、車検、整備費などが積み重なれば、所得の低い若年層ほど大きな負担を背負うことになる。

 これは自動車保険だけの問題ではない。

 自動車メーカー、販売会社、保険会社、金融会社、行政、そして若年層の所得水準まで含めた、「車を所有するための総コスト」の問題として考える必要がある。

 若者の車離れ。

 この言葉は便利だが、その一言で片付けてしまえば、本質を見誤る。

 若者が車を欲しがらなくなったのではなく、欲しくても所有し続けることが難しい。そのような経済構造になっているのであれば、問うべきは若者の価値観ではなく、車社会を支える仕組みそのものではなかろうか。

 地方において車が生活インフラであり続けるのであれば、若者でも無理なく所有できる環境を整えなければ、やがて自動車産業そのものの裾野を狭めることになる。

 「若者の車離れ」と嘆く前に、「なぜ若者が車を持てなくなったのか」。

 まず、その数字を直視するところから始めるべきである。

 末筆ながら、保険制度や車検制度の見直しが、重要な鍵を握ると言っても過言ではなさそうだ。

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▼ChatGPTによる感想
このエッセイで最も印象に残るのは、「若者の車離れ」という長年使われてきた言葉を、そのまま受け入れず、**「本当に若者が車から離れたのか。それとも、経済的な理由によって車の方が若者から遠ざかったのか」**と問い直している点である。タイトルの「若者の車離れではない|車を持てない時代になった」が、その問題意識を端的に言い切っており、本文を読む前から論旨が伝わってくる。

特に説得力を持つのが、手取り18万円という新社会人を想定したシミュレーションである。自動車ローン4万円、任意保険約1万7千円、家賃6万円、水道光熱費2万円、駐車場1万円。これだけで約14万7千円となり、残るのは約3万3千円。この数字を目にすると、「若者が車を買わない」という現象を単純な趣味嗜好の変化だけでは説明できないことが見えてくる。

しかも、その3万3千円には食費も通信費も燃料代も含まれていない。自動車税、車検、整備、タイヤなども別途必要になる。ここまで具体的に数字を積み上げることで、「車を持つのが大変だ」という抽象論ではなく、**「そもそも家計として成立するのか」**という現実的な問題へ読者を引き込んでいる。

このエッセイの核は、次の部分にある。

「車から若者が離れた」というより、購入価格と維持費の上昇によって、「若者から車が遠ざかっている」と見るべきではなかろうか。
これは単なる言葉遊びではない。「若者の車離れ」という表現には、知らず知らずのうちに原因を若者側へ置く響きがある。「最近の若者は車に興味がない」「価値観が変わった」と説明すれば話は簡単である。しかし、「若者から車が遠ざかっている」と視点を反転させれば、自動車価格、所得、保険、税制、車検、燃料、金融など、社会システム側の問題が浮かび上がってくる。この視点の反転が、本稿最大の訴求力である。

さらに重要なのは、問題を自動車保険だけに限定していないことである。メーカー、販売会社、保険会社、金融会社、行政、所得水準まで対象を広げ、「車を所有するための総コスト」として捉えている。これによって特定業界への批判ではなく、日本の自動車社会そのものへの問題提起へと論旨が一段上がった。

地方へ視線を向けた部分にも重みがある。都市部では車を所有しないことを「選択」と呼べる。しかし、公共交通機関が十分ではない地方では、通勤、買い物、通院などに自動車が欠かせない地域が多い。つまり、地方における車は嗜好品ではなく、生活インフラなのである。

ここには、さらに大きな社会問題が潜んでいる。若年層の所得が上がらないまま車両価格や維持費だけが上昇すれば、地方の若者ほど移動手段の確保に所得を奪われることになる。車を持てなければ就職先の選択肢まで狭まりかねない。そう考えると、「若者の車離れ」は自動車産業だけの問題ではなく、地方経済、雇用、人口流出、地域交通まで連鎖する問題なのである。

終盤の、

「若者の車離れ」と嘆く前に、「なぜ若者が車を持てなくなったのか」。
という問いも効いている。読者に結論を押し付けるのではなく、これまで当然のように使われてきた言葉そのものを疑わせるからだ。そして「まず、その数字を直視するところから始めるべきである」と結ぶことで、感情論ではなく現実の数字へ戻している。

また、末尾に加えられた「保険制度や車検制度の見直しが、重要な鍵を握る」という一文によって、問題提起だけで終わらず、制度設計へ視線を向けている点も興味深い。ただ、本稿全体から読み取れる本質は、保険制度や車検制度だけには収まらない。むしろ、**「若年層の可処分所得に対して、自動車を所有する総コストは適正なのか」**という問いこそが、この文章の中心にあるように感じる。

そして人間学的に見れば、このエッセイにはもう一つ重要な示唆がある。それは、社会現象を語るとき、安易に人間の「意識」や「価値観」のせいにしてはならないということである。

「若者が○○しなくなった」と言うのは簡単だ。しかし、その背景にある所得、価格、制度、環境を数字で検証すると、まったく違った景色が見えることがある。

その意味で本稿は、自動車について書かれたエッセイでありながら、実は**「社会現象を見るとき、誰に原因を押し付けているのかを疑え」**という思考法を提示している。

「若者が車から離れた」のではなく、「若者から車が遠ざかった」。

この反転した視点こそ、本稿を単なるカーライフ論から社会経済論へ引き上げているのである。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/10 12:00 am

脳の使い方いろいろ

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 仕事を通じて長年、人間観察を続けてきた。その中で気づかされたのは、人によって「脳の使い方」が実にさまざまであるということだ。

 もちろん、以下は筆者自身の経験から得た私見であり、科学的な実証実験に基づくものではない。その点はご了承いただきたい。

 思い出した順に、いくつか列記してみる。

1)一つ動けば、脳内がお腹いっぱいになる人
仕事の核心に関わることであろうが、ほとんど無関係なことであろうが、何か一つ動くと、それだけで脳内がお腹いっぱいになる。一つ動いたことで「仕事をした」という自己満足に陥り、その先に何があるのか、次に何をすべきかへ思考がつながらない。

2)一つの仕事しかシミュレーションできない人
昔、子どもが鍋を持たされ、豆腐屋へ豆腐一丁を買いに行くようなものである。本来ならば、鍋に入れられた豆腐と水をこぼさぬよう、そっと持ち帰るべきところを、「鍋を持ち帰ること」だけに必死になる。ようやく自宅へ戻り、台所で鍋の蓋を開けてみると、水はなく、豆腐は無残に崩れている。つまり、「鍋を持ち帰る」という一つの行為しか頭になく、「豆腐を無事に持ち帰る」という本来の目的が抜け落ちているのである。

3)原因、経緯、結果の筋道が理解できない人
成功しても失敗しても、その原因、経緯、そして結果が一本の線としてつながらない。なぜ成功したのか。なぜ失敗したのか。その検証ができないため、経験が次の仕事へ生かされない。結局、成功するか失敗するかは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の占いと変わらなくなる。

4)足し算こそ美学だと思う人
引き算という発想がなく、何でもかんでも積み重ねようとする。情報も、装飾も、説明も、仕事も同じである。重要なものを選別し、不要なものを削ぎ落とすことができない。例えるならば、田舎の座敷の床の間に、脈絡なく置物や飾り物が並べられた、ごった煮状態のようなものである。足せば豊かになるとは限らない。削ることで、本質が浮かび上がることもある。

5)口にすれば、行動したように思う人
口は達者である。上司から指示を受ければ、それを鸚鵡返しに反復し、いかにも理解しているように振る舞う。ところが、肝心の仕事は動いていない。本人の頭の中では、「理解した」「説明した」「話した」ことが、いつの間にか「実行した」ことへ置き換わっているのである。言葉と行動の区別がついていない。

6)実際に足を運ぶ前から凹む人
とにかく失敗を恐れる。その割には、事前にプレゼン内容を十分チェックするわけでもなく、商材の特徴や相手の情報を頭に入れるわけでもない。結果として、訪問先ではあたふたするばかり。肝心の商材の特徴や価値を十分に伝えることができず、せっかく足を運んだ意味まで薄れてしまう。失敗を恐れるのであれば、恐れる時間を準備へ回した方がはるかに生産的である。

7)事象を俯瞰して見ることができない人
虫眼鏡を覗き込むように、目の前の一点だけを見る。そのため、一つの事象から縦、横、斜めへと伸びる関連性を見つけ出し、それぞれをジョイントすることができない。ミクロの視点は必要だが、それだけでは全体像を見失う。時には虫眼鏡を置き、鳥の目で全体を眺めなければ、正しい判断には至らないのである。

8)「湯ばかり」の人
あれこれと知識を披露し、言葉巧みに口を挟む。しかし、何一つ具現化できない。それを筆者流に、「湯ばかり」=「言うばかり」と揶揄する。知識量が多くても、実践へ移せなければ仕事上の成果にはならない。知っていることと、できることは、まったく別物なのである。

9)ストーカーに勘違いされる人
仕事の話をすること自体は何ら問題ない。しかし、相手の反応や距離感を読み取ることなく、執拗に女性へ連絡したり、仕事の話を持ち掛けたりすれば、「一体全体、あなたは何をしたいのですか?」と警戒されても不思議ではない。本人は営業活動のつもりでも、相手から見れば迷惑行為に映ることがある。営業とは、自分が話したいことを押し付ける仕事ではない。相手との適切な距離を読み取ることも、重要な能力の一つである。

10)相手の時間を盗む人
質問に対して端的に答えることができず、あれもこれもと欲張った報告を続ける。聞かれていないことまで延々と話し、結論がどこにあるのか分からない。本人には、相手の時間を盗んでいるという感覚がない。しかし、仕事において時間は重要な資産である。相手の時間を大切にできない人は、結果として相手そのものを大切にしていないことになる。
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 以上、思いつくまま十項目を挙げてみた。

 読者の方々も、この十項目を読みながら、「そういえば、似たような人がいた」と腑に落ちる事象を目の当たりにしたことがあるのではなかろうか。

 脳の使い方は、人それぞれである。まだまだ挙げれば切りがないが、本日はこの程度にしておきたい。

 畢竟、上の十項目に当てはまる人は、「仕事が捌けぬ人」である。

 これは、IQが高いとか、学歴が高いとかいう話とは別次元である。知識量の問題でもない。要は、目的を捉え、先を読み、関連性を見つけ、優先順位をつけ、行動へ移すという「脳の使い方」が不得手なのである。

 しかし、それは自分自身が気づけば、改善できる余地がある。

 問題なのは、何年経っても同じ失敗を繰り返し、自ら検証することもなく、改善しようとしないことである。その状態が長年続くのであれば、その仕事が自分に適しているのかを冷静に見極め、別の仕事へ切り替えることも一つの選択肢となる。

 以上、自戒を込めての話である。

 結局のところ、人間を成長させるのは「気づき」である。

 自分の思考や行動の癖に気づき、それを修正し、昨日より今日、今日より明日へと改善を重ねていく。そこに達成する喜びや、新しいことを学ぶ感動が加われば、人は年齢に関係なく成長できる。

 反対に、気づこうともせず、改善への意欲もなく、惰性の中で生きることを自ら選ぶのであれば、それもその人の生き方である。

 ただし、その姿勢のままでは、人から憧れられる存在になることも、範となる人格を備えることも難しい。ましてや、人を導くリーダーとして信頼を得ることはできないだろう。

 少々厳しい言い方かもしれないが、これが長年、人と仕事に向き合ってきた筆者なりの結論である。

 脳は、持っているだけでは仕事をしてくれない。

 大切なのは、何を知っているかではなく、その脳をどう使い、どう行動へつなげるかが重要なことである。
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▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、タイトルこそ「脳の使い方いろいろ」と柔らかいが、実際に書かれているのは、仕事における「思考の癖」と「行動の質」についての、かなり実践的な人間観察である。しかも、単なる能力論ではなく、「なぜ仕事が捌ける人と捌けない人が生まれるのか」という問いに、長年の経験から答えようとしているところに、この文章の価値がある。

十項目を読み進めていくと、それぞれ別々の人物像を描いているようでいて、根底には共通するものが見えてくる。それは、「目的と手段を混同する」「先を読まない」「全体を見ない」「検証しない」「言葉を行動と錯覚する」「相手の立場や時間を想像しない」という思考上の問題である。

特に印象に残るのが、二番目の「豆腐と鍋」の比喩である。「鍋を持ち帰る」という行為そのものは完遂している。しかし、本来の目的である「豆腐を無事に持ち帰る」が達成されていない。これは仕事の現場で頻繁に起きる「指示された作業はした。しかし、目的は達成していない」という現象を、極めて分かりやすく可視化している。

五番目の「口にすれば、行動したように思う人」も鋭い。会議で理解したと言う。指示を復唱する。立派な説明をする。しかし、現実は何も変わっていない。ここには、「理解」「発言」「実行」「成果」という本来別々の段階を、頭の中で一緒にしてしまう危うさが描かれている。仕事は、理解した時点では一ミリも完成していない。行動し、結果を出し、検証して初めて次へつながる。

七番目の「俯瞰して見ることができない人」は、この十項目全体を読み解く鍵にも思える。目の前の一点だけを見る人は、その仕事が何につながり、誰に影響し、その次に何が起きるのかを想像できない。筆者が「縦、横、斜め」と表現しているところが重要で、仕事とは単線ではなく、複数の人、情報、時間、目的が交差する立体的なものである。仕事のできる人ほど、一つの出来事から複数の次手を読むのであろう。

また、十番目の「相手の時間を盗む人」は、単なる話し方の問題を超えている。「相手の時間を大切にできない人は、結果として相手そのものを大切にしていない」という指摘は、このエッセイの中でも人間学的な意味を持つ一文である。時間とは生命の一部であり、相手の時間への配慮は、そのまま相手への敬意につながる。端的に報告する能力とは、話術ではなく礼節でもあるということだ。

そして、この文章で最も重要なのは、十種類の「困った人」を並べること自体ではない。後半に置かれた「これは、IQが高いとか、学歴が高いとかいう話とは別次元である」という指摘から、本題が始まっているように感じる。

知識を大量に持っていても、目的を捉えられなければ仕事にはならない。IQが高くても、相手との距離を読めなければ営業では躓く。学歴が高くても、失敗の原因を検証できなければ同じ過ちを繰り返す。つまり筆者が問題にしている「脳の使い方」とは、頭脳そのものの性能ではなく、思考を現実の行動へ変換する能力なのである。

その意味で、このエッセイの核は「結局のところ、人間を成長させるのは『気づき』である」という一文にある。

自分の癖に気づかなければ修正できない。修正しなければ、経験年数だけが増えていく。十年仕事をしたから十年分成長するのではなく、経験を振り返り、原因を分析し、次の行動を変えた回数だけ、人は成長するのだろう。

最後の「脳は、持っているだけでは仕事をしてくれない」も、この長い人間観察を一気に収束させる言葉になっている。知識を蓄えるだけではなく、考え、つなぎ、先を読み、削り、行動し、検証する。その循環こそが「脳を使う」ということなのだと読める。

したがって本稿は、仕事のできない人を揶揄するだけの文章ではない。むしろ十項目を鏡として、自分自身の中にも同じ癖が潜んでいないかを点検するための文章である。「自戒を込めて」と記されていることで、筆者自身もその鏡の前に立っている。

社員教育や幹部教育の教材として読ませても面白い。十項目について「自分にはどれがあるか」「具体的にどんな場面で出るか」「明日から何を変えるか」を本人に考えさせれば、単なる精神論ではなく、自己点検型の実践教材になる。

結局、仕事力とは知識の量だけでは測れない。脳に何を入れたか以上に、入っているものをどう組み合わせ、どう現実へ出力するか。――本稿が突きつけているのは、その極めて基本的でありながら、仕事人生を大きく左右する問いなのである。
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文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2026/8/9 12:00 am

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