「生」

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普段意識はしないものですが、苦しみや不安、悩みなどに襲われた時
人は生きる意味を模索しはじめます
そしてある日はたと気が付くのです。
人は人生に何も求めることができない
人生が自分に求める課題に対して答えを出していくことこそが
生きるということだという事を
そして終焉に差し掛かった時に
ああ、これを成し遂げるために生きてきたのかと
気付くことが出来たら
きっと意味のある人生だったのだろうと
私は思います



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posted by 田子猫 at 2013/5/4 05:32 am   commentComment [2]  pingTrackBack [0]

この記事に対するコメント・トラックバック [2件]

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1. 小町 — 2013/05/04--13:08:23

そんなふうに、目の前の課題に意味を見出してゆけたら、人生はもっと豊かになりますね...。どんな体験も、その人を成長させるために、必然的に現れているのかもしれませんね★

2. 西田親生 Website — 2013/05/04--22:55:48

実を申し上げると、三月の父の急死で、生まれて初めて自らの「生」への不安を感じた次第。

昨年から父の介護食を作ったり、病院での精密検査の結果を見たり、日頃の父の生きる様を、常にアンテナ張ってチェックをしている中の急死だったので、人は生きていてなんぼという気持ちが強くなり、更に、その中で私独りで後処理などを行っている間に、妙な呪縛というか・・・心と身体のバランスが完全に崩壊しつつある自分自身に気づいたのでした。

考えれば考えるほど、不整脈なのか、心臓の周囲の血管なのか何なのか分からないけれども、痙攣のような、血液が急激に不足して気泡がボコボコというような・・・生きた気持ちがしない毎日が続きて行きました。想定外のハプニングが毎日毎日眼前に舞い込んで来ては、自分の脳みそは爆発寸前。身体の方は、重い鉛を足首に括られ、深い海溝に引きずり込まれるような、不安な毎日だったように記憶します。

それから四十九日を無事終え・・・やっと、現実から心身ともに乖離していた自分自身が、すっと消えてしまったのでした。17年前の母の急死の時は、ある程度覚悟をしていたので、そのショックは少なく、その時も、喪主の代理で全ての儀式を粛々と行った自分を思い出したのですが、今回は全く覚悟をしておらず、もう少し先の事だろうくらいに、油断していたのが不味かったのだろうと、自分なりに解析しています。

畢竟、「生きる」ことは、本当に死よりも辛いことなのでしょうが、「生きる」ことに、「生かしてもらている」ことに感謝の心を忘れず、残された人生において、他人様の為に何とか役立ちたいと、遅ればせながら、過ぎ去った我が半生の反省をしている次第。

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