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都市部 vs 田舎・・・どうにかして食わねばならぬ vs どうにか食える、の違い。

Chikao-ICT


 最近、九州圏内で代理店展開(募集中)をスタートしつつある中で気づいたことは、都市部 vs 田舎では、『どうにかして食わねばならぬ』vs 『どうにか食える』の違いに直面したことであった。

 熊本市のような政令指定都市は県庁所在地でもあり、県内の政治経済の中心でもある。特に、経済活動は田舎とは比較にならず、圧倒的に食事処もその他ショップも沢山存在しており、繁華街の規模も田舎とは比較にならぬ。

 更に、ビジネスマンやオフィスレディも数十倍が都市部に集中しており、公務員や団体職員を除けば、我々のような民間で働いている人間は、『どうにかして食わねばならぬ』のために、都市部に集まっている訳だ。

 それに対して、田舎では食事処もその他ショップも就職先も少ないけれども、『どうにか食える』ところが、都市部の人々と比べると、精神的にすこぶる余裕がある。田舎の人たちは自らを貧素だと言うが、都市部の人間と比べれば豊かである。

 よって、ニューノーマル時代におけるビジネスチャンスを投げ掛けても、都市部の人々のレスポンスは非常に良いが、地方の田舎では必要性の反応が皆無の状態。ITがあろうがなかろうが、実生活に直接関係がないといった感じだ。

 勿論、人によってその意識の違いはあるものの、全国的に経済が冷え切ってきたとしても、都市部よりも『どうにか食える』の田舎の方が断然強い。従って、我々都市部の人間が『どうにかして食わねば』が不可となれば、死んでしまう。

 また、都市部の商売人は時代の流れに乗って、時代の先の先を見据えながら、ビジネススタイルも変化、進化させて行くが、田舎は昭和時代をそのまま引っ張っているところも多い。死語に近いが、『電算化』は役場と学校、銀行、コンビニだけで十分なのである。

 1994年にインターネットが日本初上陸した時に、筆者は「インターネットにより都市部と田舎との情報格差は無くなる!」と思っていた。しかし、逆に、情報格差が広がり、田舎の人々の多くは、それについて行けぬ状況下にある。高齢化が進み、その傾向が尚更強くなっている。

 ZOOMなどを活用して、新しい技術や新たなビジネススタイルを啓発しようとしても、「要らん世話!」と嫌がる人も田舎には多い。普段の生活を変えることに消極的であり、変化も進化も不要だという表情をしている。

 デジタル文化が全国津々浦々に浸透し始めて40年ほどが経つ。されど、『どうにか食える』の田舎はその影響をほぼ受けずに、アナログ文化に慣れ親しみ、昭和の風がビュンビュンと吹きまくっている。まるで、ガラパゴスである。

 さて、このままでは都市部と田舎の情報格差は更に広がる一方であるが、国政としてはデジタル化を促進するベクトルにて動いてはいるものの、今一度、田舎の非デジタル化の民意を再検証すべきではなかろうか。

 マイナンバーカードをどんなに強調強制しようが、今の田舎には全く必要でもなく、行政のデジタル化に全く関心がない状態だ。

 日本のITレベルが先進諸国の中で酷く遅れを取ったのは、都市部と田舎との情報格差をその都度埋めることもなく、国政の中枢だけで打ち上げ花火大会を催していたからだ。よって、遠い田舎からは、その花火大会の音さえも聞こえなかったに違いない。

 啓発活動も継続性がなく、一部の人間がデジタルを叫んできたばかりで、田舎にはそのデジタル文化の素晴らしさや必要性が全く理解されぬまま、現在に至っているのではなかろうか。

 田舎の基礎自治体や商工会にも問題がある。中央の真似をすれば良い程度で動いてきた平成、令和。IT化するための助成金や補助金で甘やかしてきたことが、仇となっている。いやはや、非常に困った問題に直面したものである。

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ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
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文責:西田親生

                 

  • posted by Chikao Nishida at 2022/11/9 12:00 am

幼い頃の「勘違い」は、凄まじいものがある。

▼写真は「京料理えのきぞの」のご飯

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 いつだったか、幼い頃に、祖父母から「一日一善」という言葉を教わった。その瞬間、元気者だった筆者が悪さをして、明日から「一日一膳」しかご飯が食べられないのではないかと肝を冷やし、凹んだことがあった。

 育ち盛りのガキは食欲旺盛で、祖父母の言うことなど聞く耳を持たず、幼稚園から戻り、外に飛び出せば、日が暮れようが、夕餉の時間に遅れようが知ったことではない。よって、厳しい罰が与えられたと勘違いしたのである。

 今の時代では、両親も祖父母も、ご飯一粒でも喧しく言う人は少ないと思われるが、当時は、ご飯一粒でもお茶碗に残すものなら、「お百姓さんが一所懸命に育てた米を大切にしないと、罰が当たる!」と叱責されたものだ。

 人間とは面白いもので、一度、勘違いをして頭の中に絵面が浮かぶと、何故かその絵面が記憶として深く刻まれてしまう。今でも「一日一善」という言葉を耳にすると、有田焼の小さなご飯茶碗に大盛りの白ごはんが頭に浮んでしまう。

 それから社会人となり、筆者としては「一日一善」を積極的に遣わず、「積善之余慶」という言葉を遣うようにした。しかし、「一日一善」という言葉を聞けば、体調が悪くてもご飯が飛び出し食欲をそそるのだから、実に有難いものである。

 幼い頃の「勘違い」は数限りなくあるけれども、本日は、「一日一善」という言葉をご紹介した次第。


▼写真は「京料理えのきぞの」の土鍋炊き立てご飯
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▼写真は「京料理えのきぞの」の茶懐石のご飯
ichizen2022-03



◎京料理えのきぞの公式サイト
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写真・文責:西田親生

                               

  • posted by Chikao Nishida at 2022/5/17 12:00 am

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