![]() かつて今を遡ること約四百年前、天草にはじめてキリスト教が伝えられ、一気に西洋の文化が流れ込んで参りました。そして河内浦(河浦町)の大神学校では西洋式活版印刷機による数々の天草本を刊行され、志岐(苓北町)には美術工芸学校が造られ日本最初のオルガンや時計の製造まで行われ、当時協会の数も全島で三十を超えその盛況を物語っています。しかし間もなく秀吉の伴天連追放令を発するや次々に外国宣教師の追放となり、せっかく花開いたキリシタン天国も僅々四十年足らずでキリシタン信者にとっては暗く哀しい長い長い弾圧の下に隠れねばならなくなって参りました。 ![]() その後天草にはもう一人の邪宗門もいないとされていましたが、乱後百六十八年経った文化二年、今から百八十三年前、天草の旧大江村、崎津村、今富村を中心に五千人を超す隠れキリシタンの発覚があり時の代官たちを驚かせた大事件があったりもしました。そして明治六年禁制の高札が除去されるまで、信者たちにとっては長い長い哀しい殉教の歴史が綴られて来たのでした。 (サンタマリア館主 浜崎栄三) |