天草のキリシタンとは?


 かつて今を遡ること約四百年前、天草にはじめてキリスト教が伝えられ、一気に西洋の文化が流れ込んで参りました。そして河内浦(河浦町)の大神学校では西洋式活版印刷機による数々の天草本を刊行され、志岐(苓北町)には美術工芸学校が造られ日本最初のオルガンや時計の製造まで行われ、当時協会の数も全島で三十を超えその盛況を物語っています。しかし間もなく秀吉の伴天連追放令を発するや次々に外国宣教師の追放となり、せっかく花開いたキリシタン天国も僅々四十年足らずでキリシタン信者にとっては暗く哀しい長い長い弾圧の下に隠れねばならなくなって参りました。
 天下分け目といわれた関ヶ原で、宇土城主だったキリシタン大名小西行長の敗死で天草はその庇護を失い、天草の領主となった唐津城主寺沢氏、島原城主松倉氏の過酷な重税と宗教弾圧に耐えかねた島原、天草の民三万七千は、かの天草四郎の十字の旗の下に集結し、公儀に向かって蜂起。一時は幕軍十二万余を向こうに善戦しましたが、ついに島原の原城跡でことごとく玉砕して果てたのでした。思えば宗教の違いだけで同胞相戦う悲惨を引き起こしたものです。それからすでに三百五十一年目を迎えます。
 その後天草にはもう一人の邪宗門もいないとされていましたが、乱後百六十八年経った文化二年、今から百八十三年前、天草の旧大江村、崎津村、今富村を中心に五千人を超す隠れキリシタンの発覚があり時の代官たちを驚かせた大事件があったりもしました。そして明治六年禁制の高札が除去されるまで、信者たちにとっては長い長い哀しい殉教の歴史が綴られて来たのでした。
(サンタマリア館主 浜崎栄三)



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